椿落ちる頃

寒星

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第三章 策は交錯し、思惑は錯綜する

20-1 余塵は絶えず降り積もり

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 白綺が蛇のようにうねる山道を進んでいくと、そこには一軒の小ぶりな社があった。
 元々は真神の社へ荷を運ぶまでの中継点か、倉庫にでも使われていたのだろう。作りは質素なものだったが、使われている材木やニスの塗り込みはしっかりとなされており、土台は複雑な組み木式のうえ、繊細な模様のついた鼠返しがついていた。
 正面の大扉は開いていた。塵一つなく掃き清められた階段を上り、横たわる板張りの通路を渡って、白綺は扉を両手で左右に押し開く。

 開けて、そうして開ききらないうちに、息をのむ。
 白綺の手から離れた大扉が慣性でそのまま手のひらを離れ、大きく開ける。

 艶やかな板張りの床は鏡のように。
 その部屋の中央には、一枚の美しい羽織が広げて吊るされていた。
 まるで黒く大きな蝶の標本だ。広がった袖を左右に広げ、床に着くほど長い裾は優美に広がる。
 黒という色を使っているのに透き通り、白より清らかにさえ感じる。

 白綺は思わず息を詰めたまま、そっと羽織に歩み寄った。

 近づくと、ふと生ぬるい空気が頬を撫でる。室内の空気のうち、冷たい空気と、不可解な熱を孕んだ空気がまだらに入り混じって、まるでそれぞれに生き物のように白綺の首や顔を撫でていく。

 白綺はつま先が羽織の裾に触れる寸前まで近づいて、もう一度目の前の羽織を見た。
 巨大な羽織だ。白綺には到底着られないだろう。
 美しい羽織だ。たとえその裾や袖が焦げ付き、焼け落ちていようとも。

 そして____間違いようも無い。
 白綺のうなじがひとりでにざわつく。
 羽織からかすかに匂いたつそれは、間違いなく、春絶のそれだった。

「素敵でしょう?」

 振り返る。
 しかし、そこには誰もいない。
 そうして再び振り返り。
 羽織の向こうに、人影。

「塵何、殿」白綺は驚きに詰まった息を吐いた。「急に声をかけないでください」
「これは失礼。随分熱心に眺めていらしたもので」

 塵何は羽織の向こう側に立っているようだ。白綺からはその姿は薄闇の中で簾を駆けたように黒くぼんやりとして、長い髪となびく羽織の裾といった輪郭しか伺い知れない。

 さて塵何は色直しと言ったが、どう見てもこの羽織は白綺には大きすぎる。
 そもそも、この羽織は春絶の者であろうし。
 なにより__これは、とても白昼身にまとって人前に現れるには、鮮烈過ぎる。

「これは、名代が真神を襲名してまだ間も無き頃……」

 塵何の声がひそやかに届く。「獄炎の如く苛烈にして、波濤の如く獰猛。裁きたがりなどと生温い。真実まことの荒御霊として顕現されておられた頃に纏っていた戦装束」

 床が微かに軋む。塵何が一歩動いた。陽炎のように人影が羽織の向こうでゆらめき、伸ばした腕は羽織を撫でたようだ。
 
「今でも昨日のように思い出します。これを纏った名代が京に現れ、そうして我らが同胞を一夜にして狩り尽くしたあの光景を」

 人と密接に関り、政にすら携わり、静粛な表の世界のその裏へと人を誘い、策略と乱れた混沌へと落として遊ぶ。
 この世で最も暗いと信じていたその領域に、それよりもっと暗い闇が差した。

「闇のように輝き、氷のように滾るあの御姿を、思い出さない日はありません。あの至福の夜から、三日三晩の絶頂から、たとえ幾星霜過ぎたとて……」

 たとえ、と。
 また塵何が動く。一歩進む。横へ。
 次の一歩で、おそらく塵何の姿が羽織の影から現れるだろう。

「たとえ____百余年の月日が、あの方を削り、その牙を丸めようと。いいえ、そんなことは出来ようはずもない。あの方が夢境に籠り、瞑想に耽るがその証拠。
 あの方の奥底には、あの夜の御心が今も眠っている」

 権謀術数、何するものぞ。
 天網恢恢疎にして漏らさず。如何なる大君も強大無比な神とて、全て討つ。
 
 脈々と人の世の裏に築かれた策略の全てを、ただひたすらに砕く。
 ただ力。これのみ。
 この程度の悪など、力だけで事足りる、と言わんばかりに。
 
「この地にあるもの、神だろうと須らく裁く。地罰神の権能、その真髄は、悟りや瞑想に非ず。その真髄とは、牙と爪に宿るもの」
「それは違う」

 半歩。
 塵何の姿が羽織から現れようとしたその瞬間に、白綺が口を開く。
 羽織の向こうの人影が止まる。

「それは断じて違う、塵何殿」白綺はあくまで平静を保った。「悟りや瞑想、牙や爪、それはどれも春絶殿の一側面に過ぎない。その全てに真髄がある。それらのどれひとつ、優劣はなく、欠けてもいけない」

 力無しに全てを治めるのは無理だ。だが思考も葛藤も無く力をふるうのは無法だ。
 故に力と葛藤は共存しなければならない。
 だから春絶は日々瞑想して考え続けている。己の在り様やこの世に蔓延る善悪を。

 白綺は心からそう信じてそう主張した。疑いはない。
 心から信じてそう言っていることだ。胸を張って言える。
 だが____ならば何故、こんなにも白綺は緊張しているのだろう?

 何故、白綺の手には、己の手には。
 弓を握っているのだろう。

「……ふ、ふ」
「塵何殿、何を考えている」
「あらあら」羽織の裾が微かに揺れる。「その質問をしている時点で、もうお分かりなのでは?」
「質問が悪かったな____貴様、一体何をしようとしている?」

 衣擦れの音。
 白綺の見ている先で羽織がまるで緞帳のように巻きあがる。
 黒い幕が上がる。

 その向こうに塵何はいた。いつもどおりの男ながら妖艶な切れ長の瞳に、上質な背広。今そこに、まるで糸で吊られたように中空へ翻った黒い羽織が重なる。
 空気がさざめき、甘い桃の香りがした。

「何をしようとしているのか、と」

 塵何の頭には、鋭く尖った狐の耳があった。

「そう怖い顔をしないでも大丈夫ですよ。白綺殿、あなたもご存じの通り、私は心の底から名代を慕い、名代を敬愛しております。そこに嘘偽りはございません。決して、けしてあの方を損なうようなことはいたしませんとも」

 塵何は肩に羽織ったその黒の羽織をそっと手で撫でた。

「私がその言葉を鵜吞みにすると思ったか」白綺は迷いなく弓を構えた。不可視の矢を番え、あとは指を離すだけだ。「いま貴様が私に向けているそれは、殺気以外の何だと言うのだ」


 
 あっけらかんと塵何は言った。まるで今日の天気について述べるように。
 そして白綺もまた、告げられた事実に動じはしなかった。冬染に忠告されたというのもあるが、元より裏切りや反逆には事欠かない生前であった。既に神使として生前の記憶が消し去られていようと、白綺の存在の根幹には戦いがある。

 昨日の味方は今日の敵と言う。ならば昨日の親愛は、昨日までのものだ。
 
 だが____その前に確かめなければならないことがあった。

「何故だ」と、白綺は端的に問うた。「何故私を殺す。春絶殿と結ばれた私が憎いからか?」

 白綺の問いに、塵何はたおやかな笑みを浮かべたまま首を振った。横へ。
 いいえ、と答えるその声には何かを包み隠そうとする素振りさえない。

「本当にただあなたを殺したいだけならば、いつでも出来ましたよ。
 私は、あなたには本当に感謝しているのです。今日の婚儀は本当に目出度いことです。私は心から今日という日を祝福します」
「戯言を……、これから私を殺すと断言しておいて、よくもそうまで虚言を吐けたものだ」
「あなたは本当に初心ですね。まあ、そういうところが名代にはよかったのでしょう」
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