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第三章 策は交錯し、思惑は錯綜する
21-1 決裂
しおりを挟む「塵何」
そう呼びかける春絶の声には、戸惑いなど微塵も無かった。まるで草木の名前を言い当てるようにただ淡々と、常日頃と何一つ変わらない。
「頭を上げよ、塵何。申し開きを聞こう」
「ああ、名代……」
「何故に白綺を傷つけたか。その本懐によって沙汰を下す」
「どうかご容赦を……我が君……」
跪いたままの塵何の恭しい振る舞いは、誰の目にも忠臣といったようなものだ。
よもやその振る舞いは、悪事が露見したことを__そんなとりとめもない、くだらないことで怯える罪人にはとても見えない。
それほどまでに塵何の声にも姿勢にも、あるのはただ純粋な敬意のみだった。
だからこそ、それがひどく歪だった。
「私如きの拙い謀(はかりごと)など、貴方はとうに見抜かれていたはず。それでもなお私という存在を許した。その寛大さに如何して報いずにおられましょう」
「くどい」
春絶のあまりに淡白な声がなめらかな言葉を断ち切る。
「本懐を告げよと言ったはず。白綺に聞かせたあの下らん戯言を、吐けるのならば二度吐いてみせろ」
それは春絶の腕に抱かれていた白綺だからわかったことだ。
淡々とした声と同じくして、春絶の腕には震えもなにもない。動揺も怒りも、怒りも悲しみも、それを押し殺したときに起きる、隠しようも無い肉体の反応。
ぼやけていても間近にあれば見逃すはずも無い、その横顔は凍った湖面のように静止している。
何一つ、平素と何も変わらない。春絶の腕はただ樹木の枝のように白綺の体を支えているだけだ。
それだけだ。
だからこそ、やはりそれはひどく歪だった。
真意をひたむきに隠し続けた、塵何と同じように。
「我が本懐、我が本願。それは唯一つ__ただ、貴方様に君臨してほしい。貴方だけに、未来永劫、我らが頂きにあってほしいのです」
跪いていた姿勢から立ち上がり、そして顔を上げる。
塵何の顔は晴れ晴れとしていた。長く癖のない黒髪がその背にたなびく。仕立ての良い背広に、あちこち焼け焦げ、今なお立ち上るような血と熱を孕んだままの戦羽織を纏って。
塵何がかつて別の名前で呼ばれていたころ、都一つを傾けるにはきっとその微笑みだけで事足りたことだろう。
けれどもその微笑みに、春絶は微動だにしなかった。
しばしの沈黙の後、春絶の唇だけがひとりでに動いた。
「永劫など、よもや同じ獣として生を受けたお前の口からそんな言葉を聞くとは。お前はこの百余年で私が老いたと嘆いているようだが、私もまたお前の老いを嘆かねばならぬようだ」
「途方もない夢物語だと」塵何は苦笑した。「そう仰りたいのでしょう? 永遠など、何人の手中にもあるものではないと」
そんなのは唯の夢だ、と。
塵何の声がことさらに響く。まるで鼓膜の内側から囁かれたように、全身の骨まで震える。
思わず白綺が身震いすると、春絶はかすかにその体を抱く腕の力を強くした。
「ですが、名代。夢を夢に過ぎぬと笑ったかつての我が一派を、あなたはその夢で屠って見せたではありませんか」
春絶は何も言わない。だがその無言にこそ、塵何は確信を得たように笑みを深くした。
「現を凌駕する夢。脆弱な現を食らう、もうひとつのうつつ。夢境の力とは、夢と現の境を定める律令____あなたが望めば、夢は現に、現は夢になる」
「哀れだな。あるはずのない妄念に囚われるか」
「哀れなのな貴方です、名代……この百余年、どれほど貴方はお辛かったことでしょう」
塵何は秀麗な眉をひそめ、まるで全身を突き刺されたように顔を歪めた。
「手に入れた絶大な力をその身に仕舞い、紛れも無い強大な力という現実を、あなたは夢だと思い続けた。力を持つことで生まれる全ての欲と衝動もろとも、全て夢だと自らに思い込ませ続けた。あなたはそうして、八百万といる小神の一席を装い続けた。
全てただ弱きものへの哀憐____いいえ、強者ゆえに抱かずにはいられない、弱きものへの愛玩ゆえに」
塵何の目は一心に春絶を見据えている。白銀の世界でただひとつ黒々と冷えたその姿と、その腕に抱かれてか細く息をするいきものを。
「名代……貴方がそうして弱きものを哀憐する、それこそが貴方の強さの証拠でしょう。
あなたは強い。
故に愛さずにはいられないのです。憐れまずにはいられない。あなたの庇護なしでは碌に生きてはゆけない、脆弱なものどもを。
何故なら貴方が神であるが故。そうして弱きものが貴方に縋り、貴方を信奉することが、貴方の力の源であるが故に」
春絶は黙っている。塵何は続けた。
「けれども我が君よ、脆弱であることが罪でなかったのは、もはや昔の話。かつての弱き者どもは、弱いという罪を負いながらも純真でありました。弱さを恥じ、弱きを守る貴方へ恭順したからこそ、庇護と信仰は成立していた。あなたはただ、敬虔な信徒を救い、守っていればよかった」
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