セーニョまで戻れ(第1.5部)

寒星

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01 zuruckhalten(ツリュックハルテン):抑制して弾く

02-1 雨は夜更け過ぎに雪に変わり、そして泥と混じる

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「もしもし?」

 ヒース・カタギリは個人携帯にかかってきたその電話を取ることを躊躇わなかった。例えそれが記憶にない数字からの着信であっても。
 電話の相手は男だった。若く、事実三十四歳だった。

『ヒース・カタギリさん?』
「そうだが、君は?」
『こうしてお話しできて光栄だ。ああ、いや待って____片桐ヒースさんと呼んだほうがいいんだろうか? 今の家督は御父上が持っているのだろう、あちらの山奥で暮らす方々の文化には疎くて』
「この番号を突き止めた時点で私の呼び方などどうでもいいだろう。悪いが今は移動中でね、もうすぐ圏外になるんだ。五分で済ませてくれ」
『そうか、つまりあんたの家族の余命はあと五分ってことだな』

 ヒースの目が見開かれる。南西へ向かうヘリに乗っているのはヒース自身を除けば操縦者と一人の部下だけだ。操縦者はむろん進路を向いているし、向かい合うように座席についている部下は目を閉じてヘッドフォンをつけている。
 ヒースが何も言わないまま四秒過ぎると、電話口からそよ風のような溜息が聞こえた。

『シルヴェストスはいいところだな。どいつもこいつも気取った顔をして、国のど真ん中には馬鹿みたいな大きさのプールがある。観光客や金持ちから毟り取る写真代だけであんたたちは毎日人差し指でピアノを弾きながら遊んで暮らせそうだ。
 ____そんなあんたたちの下仕えをするなんて、あんたの家の使用人たちはさぞ素晴らしい人々なんだろう』
「彼彼女らは皆、素晴らしい人たちだ」
『そうだろうとも。そしてそんな素晴らしい人々は、あと五分で世界から消える』
「何が目的だ?」
『急かすな』電話口の男は宥めるような口調で言った。『こうして俺たちが会話することはもう二度と無い。奇跡の五分間を楽しみたいんだ。あんたの家は遠くから見ても絵画のようで素敵だったが、近くで見ると一層素晴らしいよ。庭も本当に綺麗だ、働いている使用人たちは誰も彼も楽しそうで……よっぽどいい給料を貰っているようだな、あんな腰が曲がっても庭の雑草抜き役にしがみつくジジイまでいるんだから』

 ヒースは携帯を握る自分の指先がかじかんでいることを自覚した。端末を握る感覚が鈍っていく。
 まるで冬の湖が静かに凍り付いていくように、透き通っていた頭の中が白く濁っていく。

「君の目的はなんだ?」
 と、ヒースは押し殺した声で言った。「私に要求があるんだろう、言ってみろ」
『御父上が山奥に連れ去った俺の弟を返してほしいんだ』
「君の弟?」
『お恥ずかしながら出来の悪い弟でね。あんたの御父上が怒るのも分かるんだが……ああ、そういえばあんたにも弟がいるんだったな』

 コツコツと額を小突く音が電話越しにも聞こえた。

『ピアニストだったんだって? だが盗作して国外追放の憂き目にあったとか____お悔やみ申し上げるよ、同じ兄として』

 だが分かるだろう、と声が続いた。俺たちは分かり合えるはずだと。

『どれほど不出来で愚かな弟でも、兄にとっては世界で一人きりの可愛い弟だ。兄弟は羊飼いと羊なんだ。羊がどれだけ馬鹿で地べたを四つん這いでしか歩けないとしても、羊飼いは決して見捨てず導かなくちゃならない』

 通話を始めてから間もなく二分が経とうとしていた。そのことを電話相手が丁重に伝えてくる。

『俺たちは分かり合えるんだ、ヒース・カタギリ』

 電話相手の声は艶のあるテノールで、そして聞くものに安堵を与える自信と落ち着きがあった。たとえ彼の懐にあと三分後に見ず知らずの善人へ向けるための銃があり、彼の周囲に同じ目的の人間を十数人引き連れていたとしても。

『本当なら全ての痛みと苦労を分け合うはずの兄弟からその全てを押し付けられたあんたの辛さが俺には分かる。俺がそうだったから』
『母親は国お抱えの科学者。父親は極東の官僚。名家の長男に生まれたあんたにとって、弟はさぞや可愛い存在だったろう。弟だってあんたを尊敬していただろうよ、好きであんたを傷つけたり苦しめたわけじゃない。でも弟は、兄がいなけりゃ簡単に堕落する』
『俺の弟を解放するように父親に伝えろ。今話しているのとは別に、もう一台携帯を持っているだろ?』

 まるで電話口の男はすべてを見ているかのように言った。
 そして実際のところ、ヒースは今、左手で耳に当てている携帯とは別の携帯を上着の右ポケットに入れていた。

『それを使え____家族専用の携帯をな。それで父親へ要求を伝え、呑ませろ』

 男の声は一貫して穏やかで、どこか弾んでいるようでさえあった。相手に緊張さすまいという優しさが道化の仮面に透けていた。

『安心しろ。これはあんたにとって生まれて初めての、そして最後の我儘だ』

 ヒースの視線はサングラスに遮られ、ヘリの窓には映らなかった。
 アクアグリーンのレンズが嵌めこまれたオーダーメイドのサングラスを、ヒースは実家で過ごす休日の時でさえ片時も手放したことはない。海狼通商の主任へ昇進したときから、ヒースは毎日このサングラスをかけて自らを奮い立たせてきた。

 長い間、ヒースは何も言わなかった。
 その沈黙を破ったのは、長い、とても長い溜息だった。
 それはあまりに深く、海に穴を空けるような深い落胆だった。

「寝言は終わりか?」
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