セーニョまで戻れ(第1.5部)

寒星

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01 zuruckhalten(ツリュックハルテン):抑制して弾く

02-2 雨は夜更け過ぎに雪に変わり、そして泥と混じる

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「寝言は終わりか?」

 重く緞帳のように垂れこめた沈黙を裂いた一言に、相手もまたしばらく沈黙した。
 ややあって『なんだって?』と相変わらず穏やかな声で応答があった。まるで馬鹿なこどもを前にした大人のような、哀れみと優越感の滲んだ優しい声だった。

「おはよう」

 と、ヒースは抑揚のない声で返した。「君は面白い特技を持っているんだな。眠ったまま誰かに電話をかけたり、こんなに長く馬鹿げた寝言を話せるなんて大したものだ。さぞや名のあるコメディアンなんだろう。私はコメディを嗜まないがね」
 ヒースは携帯を握ったままの左手の甲をヘリの窓へ押し当て、そして表面を覆い出した結露を払った。南極目がけて飛行する機内の温度は低下の一途を辿っている。
 結露を払った窓の下には深青の絶海が広がっている。

「何分経ったかな、もう三分経ったのか。くだらない時間はいつもあっという間だ」
『こちらの要求は吞まないということか? ヒース・カタギリさん』
「まだのようだな」

 ヒースはサングラスを少しずらして海の青さを見つめたが、すぐに戻した。
 やはりサングラスを通して見たほうが、何もかもが格段に美しい。

「君はいつから私にものを頼めるようになったんだ? 何処のどいつがお前に私と話す権利を与えたんだ? 一体何処の間抜けが、私の家族について、お前に語っていいなんて言ったんだ?」
『確かに、見ず知らずの人間に家族について知ったような口をきかれるのは気分が悪いだろうがね。しかし俺は今日、あんたの家にいる全員の名前と家族について知っている、昨年生まれたばかりの孫娘や、妹夫婦に生まれた息子の名前も。飼い始めた犬の名前までも』
「五分与えてやったというのに、言うのがそれか?」

 ヒースが答えると、電話の相手は小さく笑った。それから言った。

『あと何分ある?』
「一分と三十八秒だ」
『三十秒だ。命乞いを聞かせてやろう』

 通話が保留に切り替わった。切り替わる瞬間、まるで大勢の犬を野に放ったような複数の足音が聞こえたような気がした。
 ヒースが携帯を耳から離すと、対面の壁際に備え付けの席に座っていた部下のコヨーテ・ジャックウッドもヘッドフォンを外すところだった。

「随分と長い電話でしたね」
 ヒースはそれには答えず、別の質問をした。「体調はどうだ?」
「心配には及びません」
「起こして悪かった。もう少し眠るといい、今日は夜まで会議続き……」

 唐突に保留音声が切れた。ヒースが画面を見ると、まだ三十秒経っていなかった。
 サー、と砂の流れるような微かなノイズの向こうに激しい呼吸の音が聞こえた。まるで嵐に巻き込まれ、自然の気まぐれによって岩礁へ吐き捨てられた人間のような呼吸だった。世界的に見ても今日はこれという台風も発生していないはずであるにも関わらず。
 ヒースは携帯をもう一度耳に当てた。そして優しく尋ねた。

「命乞いを聞かせてくれ」
『……我々は撤退する、あんたの家の者には傷一つ、つけていない。弟のことも……忘れてくれ』
「命乞いをしろ」
『助けてくれ』
「ようやく話が通じた」ヒースはかぶりを振った。「確かに俺たちは分かり合えるようだ」
『もう二度とあんたの家には……この国にだって来ない。だから、解放してくれ』

 対面に座るジャックウッドはヘッドフォンを膝に乗せたまま、伏せた瞼もそのままに黙っている。彼の聴力ならば電話相手の声の震えも、カチカチと鳴る歯の音まではっきりと聞こえていることだろう。前髪の隙間から見える眉間に浅く皺が寄っているのがその証拠だ。

「俺たちはただ電話をしているだけじゃないか。それも君が突然俺に電話をかけてきたんだ」
『この気狂い女にモップを下ろせと言ってくれ』
「ぼうや、私の家族に”気狂い女”はいないんだ」

 鈍く泡立つような嗚咽が聞こえた。グウ、と獣が唸るような音もあった。

『……ちょっとしたジョークのつもりだったんだ』
「それも含めて冗談であることを願いたいね」
『勿論だ』
「君は真実ではなくあえて虚偽を吐いた」
『勿論だとも』
「私の家族を貶め、私に兄弟のなんたるかを騙り、そのうえで私の弟を”不出来で愚か”だと言った、わかるかな、ぼく」
『それは、』
「私の弟について詳しいようだな。兄の私よりも」
『それは……』
「外国で麻薬を流し、罪も無い子供や女性を地下に囲うお前の弟と私の弟は、お前の中で同列か?」

 電話相手は気づくよしもないだろうが、通話時間は既に当初の五分を超過していた。それでも通信状況は安定しており、音声に乱れはない。
 相手の狂っていく呼吸のリズムも、飲み込めずに滴り落ちていく唾液と胃液の飛沫の音さえはっきりと聞き取れる。

「同じ兄のよしみでひとつ教えてやろう。兄が兄であるのは、弟がいるからだ」

 どれほど愚かで、救いようのないほど不出来な頭でも理解できるはずだ、とヒースは言った。

「弟が兄を兄たらしめ、兄が弟を弟たらしめる。そこに上下関係などない。ましてやどうして同じ母親から産まれた子どもの片方は羊飼いとなり、もう片方が羊になる?」
「お前の弟を愚かな羊たらしめているのは他でもないお前だ。自分こそ羊飼いだと信じ切って枯れ枝を振り回しているお前の矮小さが、お前の弟を堕落させた」

 何かが軋むような音がした。枝を握り、ゆっくりと力を込めて罅割れてゆく、そのときに聞こえるような音だ。
 ヒースは喋りながらも頭の片隅で、子どものころ庭で弟と落ち葉を集めたことを思い出した。庭掃除の手伝いなのだから集めた枝も葉もすぐに燃やして炭にしてしまうのに、弟は集めた枝や葉をいちいちひとつずつ比べ、あっちが長いだの短いだの、色がどうだと言っているのだ。
 そうして弟はきまって丈夫で長い枝を選りすぐってはヒースに渡してきた。
 まだ兄としての自覚も芽生えていないころのヒースには、それがいつも不思議だった。

「兄というものは、弟の全てにおける最上でなければならない」

 ヒースは一度だって勝負事で弟に負けたことはない。
 ルールのあるスポーツは当然のこと、試験成績、得点、役職、社会的地位、ほんの些細な競争においても常に弟へ敗北を味合わせた。。いつでも弟の口を開かせて辛酸を流し込み、泥水を舐めさせるのはヒースの務めだった。

 弟が鍛錬し、学び、勤勉に取り組んで高みへ登ろうとするたび、いつもヒースが頂から谷底へ突き落とした。
 弟が道を誤れば、その首を掴んで引き戻し、弟を惑わせた犯罪者に謝罪文と絶縁状を書かせ、弟に読ませた。
 一方で弟が喜び、愛したなら、それがどれほど愚かでつまらなく思えるものでも、ヒースもそれを愛した。それが弟を傷つけない限り。

 世界で誰よりも弟を苦しめ、世界で誰よりも弟を慈しんでいるという自負がヒースにはあった。
 そしてそれこそが、ヒースが辿り着いた兄としての矜持だった。

「弟が抱く憧憬、尊敬、時には恐怖すらも含めて、その頂点は兄でなければならない。最も恐るべき存在が兄であるならば、弟は何も恐れなくていい。弟を貶める存在は、兄をおいて他にあってはならない。
 お前が今自分の涎で汚した地面に跪いている時点で、お前は兄ではないし、お前に弟はいない」
『一番のイカれ野郎だな、あんた』

 このいたずら電話が始まってからはじめて、ヒースは笑顔を浮かべた。

「ありがとう、最高の賛美だ」
『このク________』

 何か重いものが落ちる音がした。それほど硬くなく、床を転がるほど丸まっていない、歪な形の何か。
 やがて電話口に立ったのは、ヒースにとっても特に付き合いの深い使用人の一人だった。

「個人情報に関係するものだけ回収してくれ。それ以外は任せる」

 使用人が一つだけ質問をした。ヒースは心からの微笑みと共に答えた。

「ではその通りに。ああ、そうだ、来週末には家に戻る予定だと皆に伝えてくれ」
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