セーニョまで戻れ

四季山河

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01 グリッサンド:流れるように弾く

04−03 獣の数字

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 看護師は目を逸らさなかったが、化粧を落とした顔色がだんだんと白くなっていく。
「コンセントに備え付けの盗聴器は電波で探知されるからやめた方がいい。それにあれは旧式だな、カバーが浮いているから早急に取り外すか、最新のものに取り替えるのをお勧めする。なんなら良いメーカーを紹介しようか? 限定クーポンがあるんだ」
「私は言われてやってるだけよ」
「言われたことを従順にこなすような素直な人間が世界から消えたら、世界の非合法な麻薬の流通量は半分以上減るだろうさ」
「ならどうしろって言うの!」
「俺の入院費を払った人間の名前を教えてくれ」
「個人情報よ、それに」看護師は一度唇を舐めた。「とにかく、言えないわ」
「心配要らない。俺も情報を払う、君に、君が不利にならない為の情報を」
 ケヴィンは笑顔を浮かべた。最愛の存在を頭に思い浮かべながら。「君の知りたいことのいくつかについては、俺の専門分野だ。例えばあの病棟の盗聴器の数と場所、それらの弄り方。それからそうだな、バックヤードPCのコントロールシステムの修理方法とか」
 看護師は浅い呼吸をしていた。だが顔色はそれ以上悪くならなかった。
 ケヴィンの前髪から垂れた水滴が彼女の胸元へ落ちた。思い出したような塩素の匂いが、彼女を正気に戻したようだった。
「……二つ教えて」と、看護師は言った。「パソコンの修理方法と、それから、最近コンセントの取り付け口ががたつくから、それの直し方を」
「明日にも教える」
「ティア・サンテゴよ」
 言ってから、看護師は眉を浮かべた当惑ぎみのケヴィンに微笑みかけた。「これは私の名前。二つ尋ねるのだから、私からも情報は二つ。そうあるべきでしょ」
「君のスリーサイズが知りたかった」
「数字で知るよりもっと良い方法があるわ」
 看護師がゆっくりとケヴィンの肩に顔を埋めた。剥き出しの濡れた背中に細い腕が回る。体温はケヴィンのほうが僅かに高かった。それが面白かったのか、小さく笑う声がした。
「イゼット・ウィンター」
 囁くような声だった。
 が、それは一言一句擦れずにケヴィンの耳に届いた。
「領収書は別人の名前で切っていたけど、受付に来た彼の顔をテレビで見たことがあった」
「……ウィンター?」
「有名なチェリストよ、彼もクイーンズレコードから何枚もCDを出してる、少し前まではよくテレビにも……」
 女の唇が動いているが、音は聞こえなかった。素の色だろうローズとベージュの中間色の唇は湿っていて、表面には艶があった。
 こんな状況でなければ、壁についたケヴィンの手は背中に回っていたかもしれない。上司への反骨心と野心に溢れた聡明な人は、ケヴィンの好みに合致している。何よりティア・サンテゴにとっても話の早い男は好みに合致している。二人はこの数分でもっと親しくなることができた。
 だが現実問題として、二人はすぐに別れた。女は家路につき、男はプールサイドに取り残された。
 男は着替えを終えている。既に運動後の熱も冷めきった濡れた首筋に、開いた携帯のブルーライトが反射している。
「A、B、C……H……」
 ケヴィンは携帯に登録している電話帳のデータを巡った。画面を指でスワイプする。
「I」」
 目的の名前はすぐに見つかった。
 “Izzet・Winter“
 ケヴィンの携帯に登録されているデータで、番号とメールアドレスが揃っている人物はそう多くはない。大概電話番号かアドレスだけだ。ましてや誕生日まで登録されているのは、この一人だけだった。だがそれも当然のことだ。
 チェロの弦を震わせる白い指先を思い出す。それがこの携帯の画面を滑った学生時代を思い出す。
 ケヴィンの携帯に誕生日を登録したのは、イゼット・ウィンターその人だった。女のように長い、美しいブロンドの髪をした男。
 透き通ったヘーゼルの瞳を持つ——反骨心と野心に溢れた聡明な男。
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