セーニョまで戻れ

四季山河

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01 グリッサンド:流れるように弾く

06−02 不幸な事故

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「憔悴していた、と言うのは?」
「さあ。俺とドミトリが聞いてもあなたは、お前たちには関係ない、の一点張りだったから」
「俺が言いそうなことだな」
「でも俺が思うに、あなたがああまで憔悴するような事なんてそうないと思っている。あなたは執着が薄い。特に人間相手には」
「酷い言われようだな、そちらの言い分だと俺たちは恋人だったらしいが」
「だからこそあなたはプロなんだろう」ミランは目を伏せてまたコーヒーを飲む。もう残りが少ないのか、カップが大きく傾く。「だからこそ、あなたが拘るなら、それは仕事にまつわることだ——そして俺とドミトリじゃない、なら俺たちより前に請け負っていた案件だ」
 業務をマニュアル化し、随時アップデートすること。
 常に引継書を作成し、有事の際、後任や新たに警護チームに加わるものへの情報共有を可能とすること。
 ISCの新入社員研修で叩き込まれることの一つだ。特に少数での警護だと細かな注意事項は担当者しか分からず、急な担当変更や増員の際、滞りが出る。本社から新たな人員派遣の際にも、現場の要求とマッチングにずれが生じることもある。
 ケヴィンもまた常に自分の業務は頭に入れ、そしてデータ化もしている。他の誰にも安易に盗み見られないようセキュリティを徹底した上で、契約の履行を確認する証明としても記録をしている。
 現に666との警護スケジュールは記憶を失ったケヴィンに対し、それは過去の自分から今日の自分への引継書になった。
 そして当然、その資料をさらに遡れば、一つ前の案件についても記録がある。
 666と同じクイーンズレコード所属の音楽家。
 チェロと声楽。少し前に第一線を退いた。
 引退前の一年以上、ケヴィンはほとんど彼と共に過ごした。一ヶ月間、クルーズ船に乗って同じ客室で過ごしたこともある。それが仕事だったからだ。
「カタギリ、どうして退院を急いだ」
 その声は既に答えを確信していた。
「誰かと会う約束でもあるのか?」
 ミランがカップをテーブルへ戻した。カップの底を打つ音で分かる。カップの中は空だ。
 ケヴィンのカップにはまだ半分以上コーヒーが残っている。
「カタギリ」
 ミランが言った。声音は一切変わっていない。声の高さも一切変わっていない。
 だがケヴィンには手に取るように目の前の男の怒りを感じることができた。
「イゼット・ウィンターとはもう会うな」
「……会わないだけでいいのか?」
「関わるな、と言いたい。だが職務上関わる必要もあるだろう、それにあの男があなたの大学時代からの友人だということも聞いた。だから」
 眉一つ動かさず、ミランは目の色を変えた。それは白さを増したように見えた。
 だが事実は異なる。事実としては、ミランの顔色が苛立ちに青ざめたから、その濁った顔色に対して目の白さが浮いただけだ。
「だから、俺はしたくもない妥協と遠慮をして、これ以上なく要求を譲って、あなたに言っているんだ。あの男ともう会うな、と。電話やメールまでは制限しない、それらは痕跡が残るからだ。次にあなたに何かあった時、あの男の関与を引き摺り出せる」
「ウィンターは随分嫌われてるな」
 答えはない。だがミランが明らかにケヴィンの事故の件でイゼットを疑っているのは明らかだった。
 ケヴィンとしても、事故の件とイゼットは繋がっている。ケヴィンの入院費を払った以上、イゼットは病院へ搬送されたタイミングで同乗していたか、その直後に病院にいる必要がある。そうでなければまずISCや家族に連絡がいく。それを差し止めて手続きをした。
 ——しかしケヴィンの記憶にある限り、イゼットは高級会社を持つような男ではない。彼の妻なら持っているかもしれないが。
「今夜、ウィンターと会う。退院祝いでな」
「会うな」
「俺のプライベートに口を出す権利は誰にも無い。お前が本当に俺の恋人だろうと、恋人なら尚更、そんな命令を吐かす奴と付き合うはずがない」
「仕事に支障が出る」
「出さん」
「同じことを言って……」ミランが両手を握り合わせた。「そう言って車に撥ねられたのは誰だ?」
「今度もそうなったら、その時はISCも調査に乗り出す。お前も同じ会社の先輩に気を遣わず、好きに裁判でもなんでもしろ」
「なら俺も同席させてもらう」
 ケヴィンはソファに深く沈んだ。スプリングが馬鹿になった背もたれは反発性もなく、ただずるずると背中を滑らせる。ひどく間抜けな格好になったが、ボディランゲージとしてはこれ以上ない適切な表現だった。ケヴィンは呆れていた。心底呆れ果てて、まだ言葉もたどたどしかった幼少期以来のまったく素直な心のままに両手を上げた。
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