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01 グリッサンド:流れるように弾く
08−02 三人目の恋人
しおりを挟む桟橋が軋む音だけが聞こえた。そばの池には生き物もいないのだろう、さざなみひとつ立たない。苔が蒸して黴がついた桟橋は時々、軋む代わりに足裏に柔らかな感触を返した。
不意にケヴィンは水の匂いを強く感じた。不快な、腐りはじめた水の匂い。
掃除を怠った排水溝から、連日降り続いた道路の側溝からこみ上げてくる匂い。
うっすらと甘く生臭い、ひどく不快な匂い。
皮膚に張り付くあの匂い。
「ケヴィン!」
鋭いイゼットの叫び声が上がるのとケヴィンがその場に膝をつくのは同時だった。数歩の距離を駆け戻ろうとするイゼットが目の前へ来る前に、ケヴィンが池の方へ顔を背ける。
しかし、両手をついた桟橋の表面に蒸した苔の湿り気を手のひらに感じた瞬間、我慢が切れた。
池の水面に波紋が立った。バシャバシャと水面が沸き立ち、ケヴィンが口から液体とも固体ともつかない胃液のペーストを吐き出すたび、まるで餌を撒かれた魚がそこにいるように飛沫がたった。泡が立った。
吐瀉物はすぐに胃液だけになった。それでもしばらく吐き続けた。薄めるところのない胃液が逆流して喉がひりつく。
ケヴィンは抗えずただ池に向かって吐き続けながら、頭の片隅では冷静さを残していた。自分の右隣へしゃがみ込んだイゼットの存在や、その手が自分の背中をさする調子を感じていた。ちょうど四拍子の調子だと、そんなことを考えていた。
あらかた胃の中身をひっ繰り返したところで、ふと遠くで賑やかな人の声が聞こえた。
イゼットが舌打ちをする。どうやらボート屋の一階で打ち上げをしていた数名が酔い覚ましの散歩にこちらの方へ出てきたようだった。
「ケヴィン、立てるかい」
「いい、お前だけ行け」ケヴィンは乱暴に唾を吐き、口元を拭った。「ここで解散だ」
「つれないことを言わないでくれよ」
背負っていたチェロのケースを片方の肩へ寄せ、空いた方の左肩をイゼットはケヴィンへ押しつけた。肩で持ち上げられるように立たされ、そうなるともうケヴィンは腰に巻き付いたイゼットの腕に引き摺られるがまま歩くしかない。
「揺らすな、気持ち悪い……」
「吐きたきゃ好きなだけ吐けばいいさ、ちょうど真横に自然の流し台がある」
優しげな顔つきと繊細な手つきで誰もが忘れがちだが、イゼットも身長はほとんどケヴィンと変わらない。体重について言えば五キロ以上の差があったが、それはこの時問題にはならない。
「さあ、もうすぐ僕の車に着くけど、吐き忘れはない?」
「××××」
「車で吐いたら流石にクリーニング代は請求するぜ」
池の周りをぐるりと歩いて、待ち合わせのバーの真後ろの通りに出る。するとそこには小規模な駐車場があり、いくつか駐車している中にひときわ目立つビビットブルーのジープが停まっている。
イゼットはケヴィンを後部座席に押し入れると、次いでチェロの入ったケースを押し込めた。
「おい、商売道具を雑に扱うな……」
ケヴィンの呻き混じりの声は、後部座席のドアを閉じる音で聞こえなかったらしい。すぐに運転席のドアが開き、イゼットが颯爽と乗り込む。シートベルトをつけてエンジンを入れる。ライトを点灯させれば、バーの裏手にある銀のドアが黒い外壁の中で眩しく光を跳ね返す。
イゼットが助手席のリクライニングへ腕をもたせ、後方を眺めながら道路へ車をバックさせた。ついでのように後部座席へ仰向けになったケヴィンを見て、にっこりと笑う。
ところで、フロスト区の法定速度は時速八〇キロに改められたらしい。信号も曲がり角も少ないせいで殆ど減速することなくジープは夜道を疾走した。
そしてものの数分で、車の窓からはまるでファンタジックなテーマパークから切り取ってきたような白く洗練された住宅が、窓から暖かなダウンライトを溢れさせながら家主と友人を歓迎しているのである(人もいないのに電気をつけているのは防犯の為だとイゼットは言った)。
その頃には幾分か落ち着きを取り戻していたため、ケヴィンは車のエンジンが切れなり身を起こし、腹の上に乗っていた楽器ケースを持って自分で外へ出た。
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