39 / 85
02:アッチェレランド:だんだん速く
11−2 頭から突っ込め
しおりを挟むいいね、と誰かが——おそらくステージを見ていたスタッフだろうが、言った。
まるで言い訳のように、自分の鳴らした喉を誤魔化すような呟きだった。だから同調するものは誰もいなかった。
ケヴィンは無意識に左目の傷を触っていた。顔に触れてからそのことに気づく。変な癖がついてしまうのは避けるべき事態だ。
そう思って手を下ろすと、誰もが一心にステージに向けている何本もの視線と交錯して自分に突き刺さる一本の視線を覚える。
ケヴィンはそちらを向いた。案の定、そこには椅子の背もたれに肘をついたドミトリが目だけこちらを見ている。ケヴィンの視線が返されると、目尻だけで笑った。
ドミトリが音もなく椅子を立った。遅れてミランも席を立つ。続けざま666の収録に移行するようだ。ステージから響く歌声は二曲目のラストサビに入っている。
ミランとドミトリがステージ脇に搬入されていた楽器を手に取り準備している。ケヴィンは無人になったテーブルのそばに待機していた。これ以上前に出るとカメラに移るし下手な物音はマイクに拾われる。
「いいですね」
それをケヴィンは独り言だと判断したが、言った当人の男は会話のつもりだったらしい。相槌も返事も無いと、たっぷり十秒以上経ってから「クイーンズが直々にスカウトしただけはある、そう思いませんか」と質問を投げかけた。
「俺に意見を求めているのか?」
ケヴィンが視線を666から外さないまま答えると、男はその口調にかすかに動揺したようだった。敬語がなかったからか、即座に同意が返ってこなかったからか。
「クイーンズ専属のガードマンともなると、やはり耳が肥えている方が担当なんでしょうね」
男がどこか卑屈そうにも、哀願するようにも見える曖昧な笑顔を浮かべた。ケヴィンはそれを一瞥した。しかしそれは一瞬のことだ。少し考えて「そんなことはないと思うが」とやや声を小さくして言う。
「耳が肥えたところで、そんなものは殆ど役にも立たない。給料も増えなければ、人生の感動を無為に減らすだけだ」
「崇高な考えをお持ちなんですね……」
「君は随分感受性豊かなようだな、素晴らしいことだ」ケヴィンはもう男の顔を、服装を見ていなかった。「そして君はとても衛生的だ、これも素晴らしい」
「えっ?」
「エレベーターですれ違った時と服が違う。パーカーも、中に着ているシャツも。俺に会うからわざわざ着替えてきたのか?」
男が自分の服の襟元を握った。ケヴィンはそれを視界の端に眺めていた。エレベーターでは黒いパーカーと赤いTシャツであったのに、今はグレーと白にそれぞれ色が変わっている。特に汚れているわけでも、昨日徹夜の格好のままのはずはない。あのエレベータで見かけた時、男は年配の上司と一緒だった。着替えが必要ならその前に着替えているはずだ。
そしてもし666やM.E.の為に着替えたと言うなら、もっと上等な服に変える。
「あの赤いシャツは君に似合っていた。俺はあっちの方が好みだな」
ケヴィンの見ている先でステージにミランとドミトリが上がる。ライトは一時的に切られているが、ステージの足元に置かれやライトのほのかな明かりはそのままだ。
「シャンプーは何を使ってるんだ? それとも香水か? それもいい匂いだな、銘柄を教えてくれ」
ケヴィンは男の腕を離さなかった。辛うじてフットライトで照らされているステージの外は暗い。暗さに慣れた目なら人とぶつかることはないだろうが、今はまだ、ケヴィンが男の腕を掴んでいることも、男の首に浮いた冷や汗も見分けることはできないだろう。
「何をそんなに震えてるんだ。抱き締めてやろうか?」
「勘弁してください」男の腕は強張って、石のように硬く冷えていた。「ガードさん……まさか、貴方の顔に傷をつけるなんて」男は自由な方の手で口元を乱暴に擦った。「そんなつもりはなかったんです」
「リラックスしろ、スコット君」ケヴィンは男の荒い息に眉を寄せた。視線はステージへ向けたまま。「息がうるさい。俺の顧客の仕事中に、そんな下卑た音を出すな」
泣くまい泣くまいとこらえる幼い弟をあやす兄のような振る舞いがケヴィンに求められていたが、そういった振る舞いを求められていることをケヴィンは心底辟易をした。
それはケヴィン自身が弟であるからとか、兄側の振る舞いを求められることに不服であったからではない。
ただ単に、他人の感情の尻拭のために使い捨てのティッシュでもなく、自分の手を使われることへの不快感だ。よりによって動揺や混乱など、喜怒哀楽としての感情にすらなっていないお粗末な発作への対処は専門家が必要だ。
法的根拠による説得と威嚇、制圧以外の対処はガードマンの知識にない。
「ランドルー・スコット君」
ケヴィンはついに考えることを放棄した。元より手っ取り早い話の方が好きだ。精密なチェスで勝利を収めるより、出たとこ勝負のルーレットの方が楽しめる。「君が俺の顔に傷をつけたのは、君自身のためじゃない。そうだろ?」
ケヴィンは初めて顔ごとその男の顔を見た。二十代後半か三十代前半のまだ若々しい顔だ。少なくとも傷と隈を黴のように生やしたケヴィンより、世間は彼の方を歳下と判断する。その両頬にうっすらと浮いたそばかすと、軽くウェーブがかかったマッシュヘアもその世論を保証する。
男の目に涙以外による光の反射が映り込んだのをケヴィンは見た。貪欲な光の反射だった。表面が歪な光の反射。ぬめりを帯びた光の動き方。
許しの匂いを嗅ぎつけた加害者の目。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】エデンの住処
社菘
BL
親の再婚で義兄弟になった弟と、ある日二人で過ちを犯した。
それ以来逃げるように実家を出た椿由利は実家や弟との接触を避けて8年が経ち、モデルとして自立した道を進んでいた。
ある雑誌の専属モデルに抜擢された由利は今をときめく若手の売れっ子カメラマン・YURIと出会い、最悪な過去が蘇る。
『彼』と出会ったことで由利の楽園は脅かされ、地獄へと変わると思ったのだが……。
「兄さん、僕のオメガになって」
由利とYURI、義兄と義弟。
重すぎる義弟の愛に振り回される由利の運命の行く末は――
執着系義弟α×不憫系義兄α
義弟の愛は、楽園にも似た俺の住処になるのだろうか?
◎表紙は装丁cafe様より︎︎𓂃⟡.·
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
僕の部下がかわいくて仕方ない
まつも☆きらら
BL
ある日悠太は上司のPCに自分の画像が大量に保存されているのを見つける。上司の田代は悪びれることなく悠太のことが好きだと告白。突然のことに戸惑う悠太だったが、田代以外にも悠太に想いを寄せる男たちが現れ始め、さらに悠太を戸惑わせることに。悠太が選ぶのは果たして誰なのか?
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる