セーニョまで戻れ

四季山河

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02:アッチェレランド:だんだん速く

11−2 頭から突っ込め

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 いいね、と誰かが——おそらくステージを見ていたスタッフだろうが、言った。
 まるで言い訳のように、自分の鳴らした喉を誤魔化すような呟きだった。だから同調するものは誰もいなかった。
 ケヴィンは無意識に左目の傷を触っていた。顔に触れてからそのことに気づく。変な癖がついてしまうのは避けるべき事態だ。
 そう思って手を下ろすと、誰もが一心にステージに向けている何本もの視線と交錯して自分に突き刺さる一本の視線を覚える。
 ケヴィンはそちらを向いた。案の定、そこには椅子の背もたれに肘をついたドミトリが目だけこちらを見ている。ケヴィンの視線が返されると、目尻だけで笑った。
 ドミトリが音もなく椅子を立った。遅れてミランも席を立つ。続けざま666の収録に移行するようだ。ステージから響く歌声は二曲目のラストサビに入っている。
 ミランとドミトリがステージ脇に搬入されていた楽器を手に取り準備している。ケヴィンは無人になったテーブルのそばに待機していた。これ以上前に出るとカメラに移るし下手な物音はマイクに拾われる。
「いいですね」
 それをケヴィンは独り言だと判断したが、言った当人の男は会話のつもりだったらしい。相槌も返事も無いと、たっぷり十秒以上経ってから「クイーンズが直々にスカウトしただけはある、そう思いませんか」と質問を投げかけた。
「俺に意見を求めているのか?」
 ケヴィンが視線を666から外さないまま答えると、男はその口調にかすかに動揺したようだった。敬語がなかったからか、即座に同意が返ってこなかったからか。
「クイーンズ専属のガードマンともなると、やはり耳が肥えている方が担当なんでしょうね」
 男がどこか卑屈そうにも、哀願するようにも見える曖昧な笑顔を浮かべた。ケヴィンはそれを一瞥した。しかしそれは一瞬のことだ。少し考えて「そんなことはないと思うが」とやや声を小さくして言う。
「耳が肥えたところで、そんなものは殆ど役にも立たない。給料も増えなければ、人生の感動を無為に減らすだけだ」
「崇高な考えをお持ちなんですね……」
「君は随分感受性豊かなようだな、素晴らしいことだ」ケヴィンはもう男の顔を、服装を見ていなかった。「そして君はとても衛生的だ、これも素晴らしい」
「えっ?」
「エレベーターですれ違った時と服が違う。パーカーも、中に着ているシャツも。俺に会うからわざわざ着替えてきたのか?」
 男が自分の服の襟元を握った。ケヴィンはそれを視界の端に眺めていた。エレベーターでは黒いパーカーと赤いTシャツであったのに、今はグレーと白にそれぞれ色が変わっている。特に汚れているわけでも、昨日徹夜の格好のままのはずはない。あのエレベータで見かけた時、男は年配の上司と一緒だった。着替えが必要ならその前に着替えているはずだ。
 そしてもし666やM.E.の為に着替えたと言うなら、もっと上等な服に変える。
「あの赤いシャツは君に似合っていた。俺はあっちの方が好みだな」
 ケヴィンの見ている先でステージにミランとドミトリが上がる。ライトは一時的に切られているが、ステージの足元に置かれやライトのほのかな明かりはそのままだ。
「シャンプーは何を使ってるんだ? それとも香水か? それもいい匂いだな、銘柄を教えてくれ」
 ケヴィンは男の腕を離さなかった。辛うじてフットライトで照らされているステージの外は暗い。暗さに慣れた目なら人とぶつかることはないだろうが、今はまだ、ケヴィンが男の腕を掴んでいることも、男の首に浮いた冷や汗も見分けることはできないだろう。
「何をそんなに震えてるんだ。抱き締めてやろうか?」
「勘弁してください」男の腕は強張って、石のように硬く冷えていた。「ガードさん……まさか、貴方の顔に傷をつけるなんて」男は自由な方の手で口元を乱暴に擦った。「そんなつもりはなかったんです」
「リラックスしろ、スコット君」ケヴィンは男の荒い息に眉を寄せた。視線はステージへ向けたまま。「息がうるさい。俺の顧客の仕事中に、そんな下卑た音を出すな」
 泣くまい泣くまいとこらえる幼い弟をあやす兄のような振る舞いがケヴィンに求められていたが、そういった振る舞いを求められていることをケヴィンは心底辟易をした。
 それはケヴィン自身が弟であるからとか、兄側の振る舞いを求められることに不服であったからではない。
 ただ単に、他人の感情の尻拭のために使い捨てのティッシュでもなく、自分の手を使われることへの不快感だ。よりによって動揺や混乱など、喜怒哀楽としての感情にすらなっていないお粗末な発作への対処は専門家が必要だ。
 法的根拠による説得と威嚇、制圧以外の対処はガードマンの知識にない。
「ランドルー・スコット君」
 ケヴィンはついに考えることを放棄した。元より手っ取り早い話の方が好きだ。精密なチェスで勝利を収めるより、出たとこ勝負のルーレットの方が楽しめる。「君が俺の顔に傷をつけたのは、君自身のためじゃない。そうだろ?」
 ケヴィンは初めて顔ごとその男の顔を見た。二十代後半か三十代前半のまだ若々しい顔だ。少なくとも傷と隈を黴のように生やしたケヴィンより、世間は彼の方を歳下と判断する。その両頬にうっすらと浮いたそばかすと、軽くウェーブがかかったマッシュヘアもその世論を保証する。
 男の目に涙以外による光の反射が映り込んだのをケヴィンは見た。貪欲な光の反射だった。表面が歪な光の反射。ぬめりを帯びた光の動き方。
 許しの匂いを嗅ぎつけた加害者の目。
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