セーニョまで戻れ

四季山河

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02:アッチェレランド:だんだん速く

12 ミスター・パーフェクト

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 セントラルの目抜き通りにある三角形のケーキ屋。一つ四百五十円のアップルパイが売られている。
 それだけでも候補は絞られたが、その片手の数まで減ったケーキ屋の一つもケヴィンは実際に足を運ばなかった。ドミトリから都合のいい日程を、それはテレビ局での収録から一週間以上経った土曜日の真昼間だったが、指定されて、十分な時間があったにもかかわらず。
 その店は午前九時から営業していた。目抜き通りとその名の通り、面した通りは広く、広い二車線道路はそのままセントラル駅前に続いている。二重のペデストリアンデッキにバスターミナル、地下道への入り口、街合わせに使われる女神像、それらが遮る者なく見通せる。
 ケヴィンは仕事着のスーツ姿で指定時刻の十分前に店に入った。
 時刻は間も無く十一時に差し掛かろうとしていた。店内にはケーキを並べたショーウィンドウとレジスター、そのそばに掃き出し窓を改装したテイクアウト専用の受け渡し口がある。客足は絶えないが、店内で席についている人数はそう多くない。
 通りに面した窓際の席を擦り抜け、奥の壁に寄せられたボックスソファの席につく。
 すぐに店員が水入りのグラスとナプキンを二つ運んできた。既に待合であることは伝えてある。他の客が皆善良で和やかな私服だというのに、まるで葬式帰りか、債務の取り立てに向かうような格好の男に対しても、店員は極めて礼節を持ってメニュー表を示し、今月のおすすめのケーキを案内した。
 メニュー表はレザー素材のカバーが被せられている。表紙の中央にはコック棒を被った熊が金色の糸で縫い付けてあった。
「コーヒーと、アップルパイ、ベイクドチーズケーキ」
「アップルパイに」店員が小さく唾を飲んだ。「バニラアイスをかけることもできますが」
「じゃあそれも」
「はい」
「それと、コーヒー一つ追加で」
 予想だにしなかった真後ろからの声に、店員が手にした小さなバインダーを取りこぼす。しかしそれが木目の濃いフローリングに転がる前に、ドミトリが「あっと」と声を上げてキャッチした。
「すみません、驚かせてしまって」
 そう言って汚れてもいないバインダーと挟まれたメモ紙の表面を手のひらで掃き、ドミトリが差し出す。
 店員は数秒固まっていたが、すぐに差し出された小さなバインダーを受け取った。表彰状を受け取るように、両手で。
「早いな」
 店員がショーウインドウのさらに奥、厨房へ戻ってからケヴィンが言った。ドミトリは既にテーブルを挟んで左右対称なソファに腰掛けている。人気バンドのメンバーだというのに、昼間の土曜日、ドミトリは帽子も眼鏡もかけていなかった。黒のハイネックに厚手のジャケット、黒のパンツにフェイクレザーのスニーカー。
 既に窓際で文庫本を開いていた女性客の一人が一度こちらへ視線をやってからというもの、どこか緊張している様子だった。捲ったばかりのページがもう二回も戻されている。
「それを言うなら、カタギリさんこそ」
「ボスが相手だからな」
「本当に間違えず会えるとは」ドミトリは子供のように目を輝かせた。「このあたりは毎晩走っていますが、一度もカタギリさんをお見かけしませんでした。この店のことは覚えていたんですか?」
「いや」
「じゃあ、勘で?」
「この店のテイクアウトに付いてくるコーヒーシュガーが家にあった」
 ドミトリはすぐに合点がいったらしい。ああ、とそれだけ言った。店員が二人の注文を運んできていることに気づいていたというのもあるだろう。
 店員はソーサーに乗ったコーヒーをそれぞれ二人の前に置き、そして飴色にシナモンと焼き目でコーティングされたアップルパイと、卵色の、気泡ひとつない断面を晒すベイクドチーズケーキをテーブルの中央に置いた。ごゆっくり、とかすかに低頭した際、視線が確かめるように一瞬ドミトリを見たのを、ケヴィンもまた見ていた。
「砂糖とミルクは?」
 テーブル席にはそれらを収めた小ぶりなポットがあった。陶器のそれは、表面に触れると冷たく、つるつるとしている。
 ドミトリは何も言わず微笑んで、コーヒーカップを口に運んだ。
 ケヴィンは氷が一つ浮いている水入りのグラスを手に取った。一口飲んでテーブルへ戻す。グラスの表面に指の輪郭を結露が縁取っていたが、まもなく消えた。
「お加減はどうですか、あれから」
 カップをソーサーに戻し、ドミトリが言った。
「どっちの加減だ? 体か、頭か」
「頭ですね」
「お前は驚いていなかったな、結局」ケヴィンはチーズケーキの皿に添えられたフォークを手に取った。「ただの一度も。恋人が轢き逃げに遭っても、目が覚めたと聞いた後にのんびりやってきた」
「本当なら毎晩手を握っていても良かったんですけどね。先ほど言ったように、毎朝のランニングがありますから」
「俺は健康的な習慣以下か?」
「以下だと言ったところで、悲しまないでしょう、あなたは」
 ドミトリがかすかに首を傾げた。瞼の線は柔らかく山なりにたわみ、口元と頬、全てに余計な力が入っていない。
 チーズケーキはフォークが差し込まれても無音だった。よくなめされ、焼き目がついた表面は冷えた溶岩のように複雑な凹凸があったが、その膨らみを潰された時でさえ、その奥にあるクリームが金属も物音も飲み込んだ。
 先端を小さく削ぎ落とし、ケヴィンはそれを口に運んだ。ねっとりと冷えたチーズ、底に敷かれたビスケット、それらが舌の上で混ざり合って広がる。バニラビーンズとレモンの匂いがした。
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