セーニョまで戻れ

寒星

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02:アッチェレランド:だんだん速く

18 嵐の夜は静かに話そう

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 ケーニッヒ交響楽団の公演はまさに今始まるところだった。丁度エントランスは客が全員ホールに収容されており、スタッフしかいない。
 だがエイレーの心臓に仕えるような気品あるスタッフでさえ、イゼット・ウィンターとミラン・アーキテクトが並んでいる歩いている様には流石に驚愕を完全に隠しきれなかった。
 ホールは二階層の客席を持ち、それぞれステージから放射状に高さをつけて広がる座席の最大収容人数は三千を超える。
 このままホールの座席に突貫でもすればさぞ大騒動になっただろうが、イゼットはエントランスの階段を先導して上り、そして階段目の前にある一般席のドアの前を右へ過ぎた。そのまま角を曲がり、突き当たりにあった重厚な木製のドアに——そのドアの貫禄とは全く不釣り合いだ——カードキーをかざす。
 解錠音がかすかに鳴る。イゼットがドアを押し開け、ケヴィンとミランに向かってにこやかに入室を促した。
「VIP席だな」
「恐れ入るよ、本当に」
 部屋は下手なLDKのマンションの一室より広い。入ってまず前方にある豪奢な手すりと柵が目につく。部屋というより巨大なバルコニーと呼ぶべきかもしれない。白と黒のダイス状に敷き詰められた床と赤みがかった飴色のニスで塗られた壁、天井、調度品の全て。
 部屋の中央にはテーブルにティーセットがあり、鳥籠を模したような金色のケーキスタンド、同じ金で縁取りをしたティーカップとポットがある。それとは別に前方の柵のそばにも広々とした長椅子に安楽椅子も備えてある。
 遠く外国の豪華な屋敷のリビングとバルコニーを、そこだけ切り取って嵌め込んだような具合の別世界だった。
 ステージ正面に位置する二階層の一般的よりステージに近く、右側面斜め上からの眺望が与える臨場感は大きい。
 同じような部屋は左右対称にステージ左側にもあり、そちらには家族連れらしい年齢もバラバラな男女がくつろいでいた。照明を落とされたホールでこの距離では、目を凝らしても顔まではわからない。子供が柵によじ登ろうとしがみついてはしゃぎ、祖父だろう背の低い男がそばで子供の手を片方握っていることぐらいしか。
 一般席とは距離と高さで隔離され、そしてステージに最も近い個室だ。
「こんな大きな部屋を僕一人で使うのも気後れしていたんだ」イゼットは上着を壁際のラックへ吊るし、室内のテーブルにもたれた。「それで外をぶらぶらしていたら、丁度よく君たちがいたものだから」
 ホール内に涼やかな女性の声が響き、公演中の注意事項を読み上げる。かすかに残っていた観客たちのざわめきが薄れていく。
「外をぶらぶら、ね」
「おや」イゼットは手に取ったティーポットで声の主を指した。「なにか物言いたげだね、そちらの警備員さんは」
 ケヴィンは鼻を鳴らした。そして視線を動かす。
 ミランはステージが見える柵の方に立っていた。それでもカーテンのそばに隠れるようにしているあたり、何かで頭が一杯になっている様子ではない。
 そもそもこの部屋に足を踏み入れることになったのは、イゼットの誘いにミランが応じたからだ。その時点でケヴィンに拒否権はない。今のケヴィンはミランが行く先についていくだけだ。首輪をつけられた犬のように飼い主について歩き、不審者には歯を剥いて吠える。
「ボス、紅茶は」
 ケヴィンが声をかけると、ミランは振り向いた。顔つきはいつも通りだ。「貰おう」声もその通りだった。
「だ、そうだ」
「僕が淹れるのかい?」
「お前が俺のボスを招待した。もてなすのはお前の仕事だ」
「君のボス、すごく嫌そうな顔をしているように見えるけれど」
 ケヴィンはミランを見た。そして再びイゼットを見る。
「いつも通りだ」
 イゼットが肩をすくめ、テーブルにもたれたまま自分の分と、それから二人の紅茶を用意した。
 一階の客席のあちこちでチカチカと白い光が点滅する。携帯画面だろう。マナーモードになっているかを確認し、そして仕舞い込む動作が連なって、まるで暗号を送っているように見えた。
「どうぞ」
 紅茶を注がれたカップがソーサーに乗り、そしてイゼットの手に乗せられてミランの前に差し出される。
 イゼットは笑顔だった。いつもとなんら変わらない慈愛に満ちた顔だ。
 ミランもいつも通りの顔をしていた。これまで何度か見せた感情の波が一切無い。ケヴィンのコテージでテーブルを蹴り飛ばした張本人とは思えないほどに。
「どうも」
 と、ミランがソーサーごとカップを受け取る。
 ケヴィンはその妙なひと場面を一人掛けのソファに座って眺めていた。もしこれが映画なら、この二人はこれから麻薬の取引か、自らが過去に犯した時効寸前の犯罪について語り出しただろう。
 しかしミランは受け取ったカップを睨みつけたままだし、イゼットも我関せずと言った風にテーブルへ戻り、自分用のカップを口につけている。
 B級映画なら、今すぐにでもホールの天井を突き破って宇宙人が降臨してくるはずだったが、その様子は無い。
 ケヴィンはさらに五秒待ったが、宇宙人は来なかった。
 そのため、ケヴィンは席を立った。
「——失礼しました、ボス」
 そう言ってミランの手にあるソーサーに乗っているカップを手に取る。そして注がれた紅茶を一口飲んだ。
 口をつけたカップをそのままソーサーに戻す。意味ありげに目を閉じて、頷く。「毒は入っていないようだ、安心して飲んでください」
 ミランは顔つきこそ変化がなかったが、目がいつもより大きく開いていた。
「僕のも確認するかい」既に紅茶に口をつけていたイゼットが朗らかに言った。
「お前は俺のボスじゃない」
「僕と契約してた頃、君にそんなサービスをしてもらった覚えがないな」
「歳を取るってことはそういうことだ」
 ケヴィンは再びソファに戻った。
「イゼット、言っておくが」テーブルから少し離れた壁に面して置かれたそれは、部屋の全てを見渡すことができる。目に入らないのはステージだけだ。「俺の目の届くところで俺の顧客をいじめるな。いじめるなら俺の目の届かない場所でやれ」
「それを言うなら、君こそ僕をいじめないでくれないか? 僕は君のご主人じゃないが、ご主人を招待したホストだ。君の礼儀知らずな行動は、他でもない君のご主人の無礼として扱うほかない」
 言葉面とは裏腹にイゼットは優しく微笑んだままだ。「ふふ、」溢した笑い声も心の底からのものだった。
「こうして君と喧嘩できるなんて、アーキテクト君には感謝しないといけないな」
「感謝されることはしていない」ミランが口を開いた。カップに口をつけて紅茶を飲む。「それと、先ほどまでのカタギリの無礼は俺の無礼で構わない。彼がしなければ同じことを俺がしていた。俺があなたを咎めたら、あなたは気にも留めなかっただろう」
「君に逆らったら後が怖そうだもの」
 イゼットが首を回した。「ああ、始まるね」
 その声を合図にしたかのように、細い川が流れてゆくようなフルートが響いた。ケヴィンには見えなかったが、この時観客やミラン、イゼットには幾重ものライトを浴びて黄金に輝くステージと、そこに立ち並ぶ楽団員たちが見えていた。指揮者が指揮棒を手にし、ただ一人立ち上がったフルート奏者がかすかなステップに身を任せ、指揮者と視線で踊るようにテンポを合わせて銀色の冷えた無機物へ息を吹き込み、あたためていく。
 フルートの独奏は短かったが、それが止んだほんの数秒を観客は逃さなかった。
 雨のような拍手が鳴り、その拍手を足がけに次の曲が始まる。
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