セーニョまで戻れ

四季山河

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02:アッチェレランド:だんだん速く

19 波のゆくさき

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 ケヴィンは戻らねばならなかった。あの居心地の悪い強烈な水圧の中へ。
 いずれにせよ公演の中休憩もあって、目に傷をつけた人相の悪い男が二階の通路を彷徨いていることは出来なかった。
 特別観覧室へ戻ると、イゼットとミランの位置は全く変わっていなかった。当然だ、まだ五分と経っていないのだから。
 にも関わらず、ミランの細くすがめた目だけが恐るべき苛立ちを瞼では抑えきれず、雪のように散らしている。体感だが、室温は五度以上下がっていた。
「冗談だろ?」ケヴィンはテーブルに残していたボイスレコーダーを拾い上げた。「イゼット、お前裁判にかけられたいのか?」
「なんで?」
 イゼットは親友が突然何を言い出すのかと不思議そうだ。それが演技ではなく本心のそれなのだからケヴィンはそれ以上冗談を言えなかった。
「お前、うちのボスをどれだけ挑発した?」
「君がその録音機を残していったんじゃないか。なんなら今ここで再生してごらん」
「気にしなくていい、カタギリ」
 ミランが椅子に座ったまま言った。腕を組み、足を組んでいる姿は一枚のフォトグラフのようだ。このオペラホールのいい宣伝ポスターになるだろう。
「興味深い話を色々と聞かせてもらった。あなたたちの故郷の話と、あなたたちの学生時代の話」
「本当に自慢話しかできないのか、イゼット」
「いや僕も初めは仕事の話とかをしてみたんだが、結局アーキテクト君が興味を示してくれる内容となると、君絡みの話なんだ」
「お前もお前だ、ボス」
 ミランは黙って紅茶を飲んだ。もう冷めているだろう。ケヴィンは聞こえるように溜息を吐き捨て、ポットを手に取って中身を注ぎ足した。カップと異なる素材なのか、ポットから注がれた紅茶はまだ湯気を立てている。素晴らしい保温性能だった。
 そしてケヴィンはミランの隣の椅子に座った。イゼットが軽く眉を上げる。ケヴィンも同じことをした。首を傾げながら。
 背後の開けた窓からは観客たちのざわめきと足音が続く。中休憩は十五分だ。手洗いや足のマッサージ、前半部への感想会。やることはつきない。明るさを取り戻したホールの光が差し込み、この部屋の半分ほどまでを照らしている。
「年末のライブは当然666も出るんだろ?」
 イゼットがミランへ言った。「もう曲は決めたのかい?」
「候補は絞ってある。後は他の共演者と演奏順序の兼ね合いで決める」
「楽しみだね。今年は野外の特設会場でやるのかな? 去年は大雪で各地中継になってしまったからね。あれはあれで勿論良かったけれど」
「何処がステージだろうと、俺のやることは変わらない」
「ほら、こんな調子なんだよ」
 イゼットがケヴィンへ視線をやり、肩を動かした。ケヴィンは横のミランを一瞥したが、ミランは沈黙している。まるで問われたことにだけ答える機械のように、目を伏せて黙り込んだまま。
「今年は雪もそう多くない。今のところはセントラル北部のスタジアム内にセットを組むことになっている」
 これは既にクイーンズレコード初め各局メディアからも出回っている情報だ。セントラス北部にある国内最大規模のスタジアムはサッカーやバスケットのコートを保有するスタジアムだが、多目的ホールとしての一面もある。年末になると全ての運動器具は収納され、屋根を開放して大勢のアーティストが歌う舞台になる。
「君にとっても大仕事になりそうだね」イゼットが言った。
「最後の大仕事だな」
 ケヴィンがそう言った時、ミランが目を開けた。その動きをケヴィンは視界の端に認めていたが、わざわざ視線をそちらに向けようとは思わなかった。
 ケヴィンとクイーンズレコード、実質的には666との契約期間は去年の春の音楽祭後に始まり、今年の年末ライブまでになっている。国内の名のあるアーティストも年末ライブ以降は大概オフを取り、春の音楽祭が新年初めての大仕事になる。
 666についていたのは二年足らずだが、それ以前にもクイーンズ所属中のイゼットにも一年以上ついていたのだ、一つの企業と一人の警備員が契約するのは、そろそろ限度があるだろう。もしかすると来年春の音楽祭にも召集されるかもしれないが、それはISCからの派遣チームの一員としてだ。
「契約更新も無さそうだしな。クイーンズもISCと癒着してるんじゃないかって言われる前に、この辺りで引き上げる算段だろう」
 ケヴィンはケーキスタンドにあるマカロンを見た。上品な色合いから推測するに右からベリー、ピスタチオ、チョコレート。
「来年以降の仕事はもう決まっているの」
「いいや。だがまあ、しばらくは本社勤めになるだろうな。俺個人として営業もかけてない、経歴書の写真を撮り直したら指名も減りそうだ」
「じゃあ、ここで僕が指名したら?」
 ケーキスタンドのマカロンへ伸ばした手が止まる。
 ケヴィンはベリーを取ろうとして止まった手を、横へずらした。チョコレート色のそれを手に取る。
 生地表面に金箔が散らされたそれをケヴィンは間近に眺めた。
「俺からも一つ自慢をさせてもらうが、イゼット、俺の時給はISCでも高い方だ」
「分かってるよ」
「生憎だが、一般人のハウスキーパー募集に飛びつくほど、ISCの業績は悪くないんだ」
「契約するのは僕じゃない」
 そこまでイゼットが言った時、再び辺りは暗闇と静寂を取り戻した。
 イゼットが席を立った。そしてテーブルの天板を指先でなぞりながら、反時計回りにテーブルの周りを歩き、ケヴィンの横を通り過ぎる。
 イゼットがバルコニーの方へ出た時、遠くに狼煙のような光が立ち上る。ステージに再び光が降り注ぐ。整列した楽団員と指揮者が優雅に一礼する。
 拍手が鳴り響く。それはもはや雨ではなく一粒一粒が重く鋭い霰のようだ。
「ただのハウスキーパーに興味が無いと君は言うけれど、もし君が守るその家が、歴史的で伝統ある城だったら、それでもISCは興味ないなんて言うのかな」
 イゼットがバルコニーの柵にもたれ、ケヴィンに微笑みかけた。
 それを待っていたかのように、後半の演奏が始まった。
「悲しいことに、世界にはチェリストが足りていないらしいんだ」
「——ケーニッヒに入るのか」
「まだ決めていない」イゼットはまるで風が吹いたように平然としている。「正直気乗りはしない。だが、楽団は是非にと言ってくれている」
 ヘーゼルの瞳が室内を一巡する。その視線の動きが、何故イゼットがこの部屋にいるかをケヴィンに教えた。これはケーニッヒ交響楽団からイゼットへの愛の告白だ。
 そして今まさに奏でられている音楽こそ、美貌のチェリストへの求愛の歌でもある。
「俺の仕事はともかく」ケヴィンはくれぐれも前置いてから続けた。「お前に断る理由は無いだろう。お前だって、フロストのバーはいつでもお前の為にドアを開けてくれるが、ケーニッヒは違う。いつまでもお前一人に一途じゃいられない」
「そうだね、でも君ほどせっかちではないようだ」
 イゼットに贈られた年間チケット——少なくとも今年中はケーニッヒはイゼットに一途でいる。
 ケヴィンは舌打ちをした。すぐ横で沈黙を貫いているミランがひどく不気味だが、ミランに意見を求めるような場面ではない。
「スカウトを受けてるのはケーニッヒだけか?」
「ふふ」イゼットは口元に軽く握った手を当てた。「勘がいいね」
「シルヴェストスか?」
「そう。離婚のことが耳に入ったのか、里帰りする気はないかって」
 クイーンズ・レコードはスポンサーの令嬢を弄んだ男を引き戻すことは出来ない。クイーンズを除くと、この国にケーニッヒ交響楽団と肩を並べられるレベルの団体は他にない。
 だとすれば候補は必然的に国外になる。その中でイゼットと関係があるという条件に合致するのは、彼の故郷シルヴェストスだけだ。
「聖歌隊の管弦楽団長が去年亡くなって、今は頼りになる年長者三人が輪番で団長をしているようなんだが、若い人に出来るだけ長く務めてほしいということで正式な団長が不在のままなんだそうだ。それで僕に声がかかった」
「年長者?」ケヴィンはわざとらしく哀れっぽい顔をした。「どいつも精々四十代だろ、どうせあの聖歌隊長の横に並びたくないとかそういう見栄だ。寝る前のスキンパックでも寄付してやろうか?」
「相変わらず君は嫌いだねえ」
「時給の高い方にしろ。俺からはそれだけだ」
「じゃあ僕からも」
 イゼットがケヴィンの座っている椅子の背もたれに手をついた。
「僕と一緒にシルヴェストスに帰ろう。それだけだ」
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