セーニョまで戻れ

四季山河

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02:アッチェレランド:だんだん速く

19−2 波のゆくさき

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 それからのことをケヴィンはよく覚えていない。ただホテルに戻った時、ドアマンが不思議そうにケヴィンの手元を見つめてきた時に初めて、ケヴィンは自分がまだマカロンを手に持ったままでいたことを思い出した。
 そして案の定、ミランはホテルに戻ってからもひどく不機嫌だった。
 まだオペラホール内ではこらえていた部分もあったのだろう、特にイゼットの前では。それが此処へ来て体裁を保つ必要が薄れると、まるで卵の殻を突き破り太古の恐竜が牙を剥くように、ミランの全身が不機嫌を訴えた。
 ——ケヴィンが交通事故後、初めてイゼットの元を訪ねた日の夜、ミランがプライベートジムで深夜までサンドバッグを殴り続けていたようだと、同じジムを利用しているドミトリから聞かされたことがあったが。
「ほら、カルシウム」
 ホテルの部屋にも備え付けのティーセットがあった。観覧席に備え付けのものより質素だが、好感の持てる清潔さと気品を讃えた質素なものだった。ミルクには少なからずカルシウムが含まれてあるだろう。なくても構わない。
 ともかく今はミランから湧き出る冷気を堰き止めるために、微温湯でもなんでもかけ続けなければホテルが氷漬けになるのも時間の問題だ。
 ケヴィンが手早く用意したミルクティーを、ミランは一瞥しただけだった。「置いておいてくれ」そう言って窓際のソファで瞑想に戻る。
 夕食がこの部屋に届くまでもう少し時間がある。もし夕食のメニューにスープがあるなら沸騰寸前まで加熱して持ってきて欲しいものだとケヴィンは思った。
 ケヴィンはミランの対面にもう一つあるソファに座った。二人の間にテーブルはない。ミランの横に小さなサイドテーブルがあるだけだ。すぐそばの窓はカーテンを開けていて、エイレーの夜景が見えた。道路に沿ってぽつぽつと灯る街灯とその中心に聳える大聖堂。まるで一つの大きな薪へ当たりにゆこうとする行列のようだ。
 ミランは黙っていた。辛うじて上着は脱いだが、それ以降はソファに座り、腕を組んで瞑想している。おそらくは感情をコントロールしているのだろう。
 ケヴィンはスーツの上着を脱いでいた。部屋の中は適温だ。体感温度はともかく。
「ボス」
 と、ケヴィンが呼んだ。「あまり気にするな。お前が今悩んでいることは、本来お前が頭を使う問題じゃない」
 ややあって、ミランが目を開けた。ケヴィンの予想していたより、その目は凪いでいた。
「俺は俺の問題にしか手を出さない」
「そうか?」
「だから、どうやってもあなたの問題に俺が介入できないのが歯痒い」
「ふん」ケヴィンは笑った。口で笑った。「贔屓にして頂き大変光栄だ」
「年が明けたら、シルヴェストスに戻るのか?」
 イゼットと共に、とはミランは言わなかった。
「どうだろうな。誰がどんなつもりだろうと、今の俺は会社員だ。上が行けと言えばそこへ行く。そこがこの国でも、シルヴェストスでも、未開の土地でもだ」
「あなたはISCの仕事に誇りを持っているんだな」
「ISC自体にこだわりがあるのとは少し違う。俺は俺にできる仕事を完遂したい。ISCに就職したのは、仕事をする上での待遇が一番良かった。それだけだ」
「それは、ステージで指揮棒を振るよりも?」
 ケヴィンは驚かなかった。「イゼットか?」寧ろ笑いすらしてソファに深くもたれた。足を組んでくつろぐ。
「元々あなたがクラシックに造詣があることは察していた」
「大昔の話だ。人気バンドの専属ガードをしてる今の方がずっと良い」
「別に音楽が何より高尚だと言うつもりはない。ただ、あなたの歌が聴いていて心地いい。だからその背景に興味を持つのは、俺にとっては自然なことだ」
「歌ってない」
「なんであなたはこの話題になるといつも嘘をつくんだ?」
「歌ってないからだ」
「嘘をついても分かる」ミランはまるで子供を相手にするように言葉を重ねた。「歌詞とメロディがなくても歌になる。あなたが歌ってるのはそういう類のものだ」
「もしかして俺を何かのセミナーに勧誘してるのか? 悩みがあるなら相談しろ、消費者相談センターに繋いでやる」
「ニケでは」ミランが言った。「はっきり歌っていた。あの時は意識して歌っていたはずだ」
 ケヴィンは口を開き。
 けれども何を言うこともなく口を閉じた。
「あの歌はとても良かった」
 と、ミランは言った。目は窓の外に向けられていたが、夜の暗がりに鏡と化した窓硝子はミランの視線を跳ね返し、その先にはケヴィンがいた。
「あなたと初めて会ったときのことをを思い出した」
「いつ?」
「去年春の音楽祭」
「まだ専属じゃないだろ」
「でもあなたはあの場所にいた。騒がしい会場で、俺は緊張していた。単独ライブもそれなりの場数を踏んでいたが、あの規模で、しかも他に大勢のアーティストのいるイベントは初めてだった」
 緊張という言葉をミランが使うと、まるで宇宙人の言葉をむりやり引用しているようだ。緊張という事象とは無縁そうな男だし、ミランの言葉は常に淡白で混じり気がない。だから強烈な印象を残す。
「野外の喫煙所なら、会場から距離もあるし今どき好き好んで使う人がいないだろうと思ったが、あなたが煙草を吸っていた。一人で」
「名だたるアーティストが今も演奏していて、観客は煽られて、誰もが興奮しているのにあなたは退屈そうだった。半分寝ているような顔で煙草を吸っていた」
「あの時のあなたは煙草の歌を歌っていた」
 部屋のドアがノックされた。夕食を運んできたと言う。ミランが席を立った。
「あの歌もよかった」
 ミランがドアを開けてから、ドアの向こうにいるのがホテルのスタッフではなく銃や刃物を持った人間だったらどうするのかとケヴィンは思ったが、幸いにして室内へ入ってきたのは正真正銘のホテルスタッフで、彼らは入室の際の一礼を欠かさなかった。
 ものの数分でスタッフは客室のテーブルに完璧な配置で夕食を飾り立てた。前菜の食用花をあしらった生ハムのサラダに、南瓜のスープ。魚料理はカルパッチョ、桃のソルベは室温と食べられるまでの時間を考えてか霜を的破らせたまま。旬野菜と牛のソテー、デザートはホイップを絞ったフォンダンショコラ、みずみずしいオレンジ添え。
 二十二時という時間を考慮すべきかどうかシェフは悩んだだろう。だがホテルに戻ってきた時のミランやケヴィンの顔を見て、量を減らすべきではないと判断したらしい。それは正確な判断だった。
 酒類は断っていたので炭酸水が出されたが、うっすらと柑橘系の香りがした。レモンかグレープフルーツだろう。
「前にこの近くにあるISCの支所から異動してきた派遣員からエイレーの土産を貰ったことがある」ケヴィンはグラスの水を飲んだ。「ガラス瓶に加工された花弁が詰まっていて、インテリアだと思って玄関に置いていたら蟻の巣になったもんだ」
 ミランが笑った。食用花はエイレーの土産として有名だ。砂糖漬や茶花として加工されたそれは、一見すれば美しいインテリアにも見える。
「エイレーに生まれれば、幼稚園児でも自分の花壇を持つようになる」
「お前も育てたのか? 毎日水やりをして観察日記をつけた?」
「水をやりすぎて枯らした。庭で大泣きして、祖父母が何時間もかけて慰めてくれた」
「お前らしいな」
「花を枯らしたところが?」
「いや。花を枯らして大泣きするところが」
 ミランがサラダを咀嚼しながら妙な顔をした。ケヴィンはフォークを握った手を小さく振った。
「ボスは感情豊かだからな、俺の周りにはあまりいないタイプだ」
「あまり言われたことはない」
「ドミトリには言われるだろ?」
 ミランが視線を明後日の方へ向けた。言われた回数を数えているのかもしれない。ミランが冷酷に見えるのは表面的なものだ。不活性状態の火山と同じく、表面はひどく冷えて乾いているが、その下には赤々とした灼熱の溶岩が流れている。
 問題は、わざわざ火山を登り、火口を覗き込んだりする物好きは少なく、またこの理性的な火山は自らを冷やす手段を持っている。
 逆にそんな物好きにとってすれば、ミランはとても感情豊かな男だ。花を枯らして大泣きしたと聞いて、それがただ子供時代の一時的な性格とは思わない。それは間違いなくミラン・アーキテクトの根幹を成す性格だ。
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