セーニョまで戻れ

四季山河

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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに

20−3 カタギリ・ファミリー

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 コンコン、と軽いノックがあった。
 ケヴィンを抱えている男は、まるで初めて一人で眠る子供がぬいぐるみにするようにケヴィンを抱きしめた。もう一人の男は、ケヴィンの口に布を押し付けていたが、緊張した面持ちはドアに向けられていた。
「……入ってますよ」
 男が言った。どちらが言ったのかは、ケヴィンには判別できなかった…
 だが、もう一度ノックがあった。コンコンコン、と。三度。
「入ってます」
 同じ声がもう一度言った。顔に汗が浮いていた。個室の中はひどい湿度だった。
 すると初めて、ノック以外の音があった。
「弟」
 と、声。
 ドアの向こうから声がした。
 寂れた公衆トイレにそぐわない優雅な声だった。
「弟、そこにいるんだろ?」
 サリ、と音がした。
 ドアの表面を撫でている。指が。
「顔を見せてくれ、弟」
「すみません」男が淡々と言った。だが顎から汗が流れた。「人違いです、他の場所を使ってください……腹の調子が悪いんです」
 ドアの向こうが沈黙した。
 カチャ、とごく小さな音がした。ごく小さな音だというのに、それを聞き逃したものは、意識に靄がかかっていたケヴィンも含めて、いなかった。
「弟、」
「——人違いだって言ってんだろ!」
 その瞬間、叫んだ男が縦に痙攣したかと思うと、その場に倒れた。狭い足場に丸められた雑紙のように折れ曲がり、それからピクリとも——小刻みにピクピクと震えている。
 個室のドアが開いた。鍵は開いていた。倒れた男が開けたのだろう。
 倒れた男は、つまり金属の施錠器具に触れたのだ。
 そしてドアの向こうの人物は、ヒュウ、と口笛を吹いた。
 スタンガンを右手に。
「兄と弟の再会に水を差すのがどれだけ罪深いことか分かるか?」
 そう言ったのも男だった。薄いグリーンのサングラスをかけている。痛みのないブロンドは無造作になでつけられて、いくつか額に下りてきていた。涼しげな眉を覆い隠し、薄い青の瞳はレンズの色と混じり合って遠洋の海の色に化けている。
 全体的に仕立てのいいダークグレーのスーツだが、ジャケットはまさか内勤とは思えない重厚な生地で、極め付けは足元のブーツだ。まるで雪山に登るようなブーツを、しかしちぐはぐには感じさせない光沢のある造りで黙らせている。
「なあ」
 と、その男は言った。「一体全体、お前は誰の許可を得て、俺の弟を抱きしめているんだ?」
 お前、と呼ばれた方の男はジャンパーの表面をクシャクシャと鳴らした。駄々っ子のようにケヴィンを抱えて離さないが、それは男の本意ではないだろう。大柄な男がテディベアを愛することは罪ではないが、この男は別に寂しさを紛らわせたくてケヴィンを抱いているわけではない。
「兄の俺がいるにも関わらず、兄の俺を差し置いて弟を抱く権利がお前にあるのか?」
「なんでだ? 誰がお前に許可した?」
「裁判所か? 行政か? お前の親か? 違うのか? そこで寝てる不細工か?」
「責めているわけじゃないんだ。怖がらなくていい。教えて欲しいだけなんだ」
「——答えられないなら、とっとと俺の弟を返してくれないか?」
 そして弟は兄の腕の中へ戻された。差し出された弟を、兄は優しく受け止めた。
「どうもありがとう」
 そう言って個室のドアを閉める。
 そして兄は弟を連れ、水が溜まった洗面器にその頭を突っ込んだ。
 前触れもなくケヴィンの首から上にある穴に水が入り込む。生存本能が一斉に目覚め、一秒となく跳ね起きる。
 激しく咽せる。水滴が散った。前髪が濡れて顔に貼り付く。
 鏡に映る男は、ずぶ濡れの男のすぐそばで携帯を操作していた。
「——ズィズィ、俺だ。オータム手前のパーキングの男子トイレで不良が喧嘩をしていると交通警備隊に通報しろ。それが終わったら今日は終業だ。明日以降のスケジュールは正午に連絡する」
 通話を切る。
 ハア、と文字に書き起こすに十分な大きさでため息をついた。つい一瞬前まで部下に指示を出していたその口で。
 古ぼけたトイレの蛍光灯が危うげに一瞬点滅する。
「174通だ」
 唐突に男が言った。「174通。今年になってから十一ヶ月で俺がお前に送り、お前が定型分のひとつも返さなかったメールの数だ」
「……送り過ぎだ。今時のメールボックスは賢くてな、俺が目を通す前に自動でフォルダ分けする」
 それは嘘だった。アドレス帳に登録のある相手からのメールがゴミ箱に放り込まれるわけはない。ケヴィンが定期的に一括選択し、焼却炉に放り込んでいる。
「弟。さっきのは友達か?」
「そう見えたか?」
「一応聞いてみただけだ。友達だったら一言謝らないと」
 一言謝る、それだけでスタンガンで感電させた罪は帳消しだ。その思考回路にケヴィンは素直に呆れた。今も個室の方は沈黙している。その状況を作り出した元凶は、携帯を持つ手とは逆の手にまだスタンガンを持っている。
「ヒース」
 ケヴィンが呼んだ。その男の名前を。
 兄の名前を。
「ヒース、なんで此処にいる?」
「弟がいる場所に兄がいることが不思議か?」
「それは……」
「まあ待て、感動の再会はもう台無しだ。仕切り直そう」ヒースは携帯とスタンガンを仕舞うと、ケヴィンの肩を持った。「お前の別荘に案内してくれ。そこでもう一度、最初からやり直そう。俺がドアを叩いて、お前がドアを開ける」
 ヒースに押されるようにして、そして同時に肩を貸されながらケヴィンも公衆トイレを出た。数人出歩いているものがいたが、ヒースが自然にその視線を遮っている。
「ドアを開けたら抱きしめあおう——その前にシャワーを浴びて。運転は出来るか? いや、無理するな、俺がお前の車で行く。俺の車は置いていけばいい、どうせ社用車だ」
「ヒース、」
「ケヴィン」
 にこやかだったヒースの声音が変わった。不意にケヴィンの肩を掴む手が強烈な圧力を発生させた。
 それで十分だった。
 そしてヒースはケヴィンのスーツから車の鍵を抜き取ると、助手席へケヴィンを乗せた。ドアが開くと、自動的に車内のライトが点灯した。暖かなオレンジ色の光が。
 開いた助手席のドアに手をかけ、ヒースは笑顔でケヴィンの胸元へシートベルトを回した。
「逆らうな」ヒースが言った。「俺に任せろ。いいな?」
 ヒースは笑顔だった。精悍な顔つきに晴れやかな笑顔を浮かべ、力の入らないケヴィンの手足をリクライニングのあるべき位置へそっと置く。
「お前はよくやった。だが、俺が許せるのはここまでだ」
 そう言って、ヒースはドアを閉めた。
 ドアが閉まると、車内は暗くなった。フロントガラスの向こうに星空が見える。
 ケヴィンはついに目を閉じた。
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