セーニョまで戻れ

四季山河

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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに

23−2 手は膝の上へ

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 車の窓から見える景色は、そこがイーゼイ区であることをケヴィンに教えた。遠くには隣国との国境地帯を見下ろすために聳え立つ城塞がある。かつては真実城塞だったそれは、この国が王国から公国へ名前を変えた時から文化財となった。かつての王国首都にふさわしく、イーゼイにある家々は揃って堅牢な煉瓦造りの伝統的なものが半分以上を占めている。
 道ゆく人々は買い物や散歩を楽しんでいた。中央線もない石畳の車道を、バンが法定速度上限いっぱいで進む。
「俺の可愛い息子は?」
「なんのこと?」
 ケヴィンは首を回し、座席のさらに後方にあるトランク部分を確認したが、そこにはISCの一般的な備品があるだけだ。多重圧縮されたステンシールド、炭素系圧縮剤が使用された警棒。ビームライト、警告用の噴煙。防寒着、スパイクストリップ。ガムテープ。
 そこにケヴィンの探しているようなものは無かった。
「あの女……」
 チッ、とケヴィンが舌打ちする。ハンドルを握っていたティアが前方を見据えたまま「なんなの?」と言った。「これ以上私に変な試験を受けさせないで」
「キルヒャーは俺を何処に連れて来いって?」
 車は高速道路の入り口へ向かっている。まず間違いなくセントラル区内に目的地があることは確実だ。だが詳細までは聞いていない。詳細を聞くよりもキルヒャーがフリーランスの医師を見つけ、手配する方が余程早かった。
 高速道路の料金所を通過する。路肩に立てられた電子看板に道路状況の警告が流れている。それによると、午後には雪が降るかも知れないということだ。
 空はまだ晴れている。だが東側の空には灰色の影をぶら下げた雲が浮いていた。車はそれから逃げるように西へ進む。
「点滴は好きな時に抜いていいわ。パッチが紙袋の中に包まれているから、注射口に当てておいて。眩暈がするようなら言って——車は停められないけれど」
「もう抜いていた場合は?」
「パッチだけ貼っておいて。それから水分補給を」
 後部座席に無造作に置かれていた紙袋の中には、言われた通りのものがあった。それだけ二重に袋に入れられた医療用品。生理食塩水。そして愛飲している銘柄のタバコとライター、携帯——これらはケヴィンの私物だ。
 ケヴィンはもはや点滴の針がどこに刺さっていたか覚えていなかったが、それらしい場所に貼った。そしてペットボトルの中の水を飲む。一口飲んで一度蓋をしたが、思い出したように喉が渇いていたことに気づいて、結局半分近く飲んだ。
「あなたをこれからセントラルの駅に届けるわ。それで私のテストは終わり」
「駅前の道路は混雑してるぞ、車線移動に注意しろ。ターミナルを何周もする羽目にある」
「正面口からは行かない。国際空港行きのモノレール口につける」
 国際空港行きのモノレール乗り場は駅の裏側だ。構造上は駅と一体化しているが、多くの人が利用する地下鉄やセントラル内、各区へ広がる路線へのホームとは離れているため、駅構内の売り場やショップに用がないものは裏側から入れば混雑を避けられる。
 何より駅裏側は正面と異なり、空港との行き来が多いためか旅行会社のバスやタクシー会社のための広い駐車場がある。
「あなた……今度は何に巻き込まれているの?」
 ティアがルームミラーごしにケヴィンを見た。「中央病院にいた頃より顔色が悪くなっているんじゃない?」
「俺にもよく分からない」
 ケヴィンはようやく座席に体を完全に預けた。曲がり角も何もない高速道路では車が揺れることもない。眠ってしまいそうだった。
「俺は面倒ごとは嫌いだ。だからいつもその場その場で、後腐れの無いように物事を決めてきた。なのに何故かいつもトラブルが起きる」
「分かる気がするわ」
 ほぼ即答でティアがそう言い、言ってから彼女は「気分を悪くした?」と聞いた。
 ゴー、と風を切る車の走行音がノイズのように耳に馴染む。ケヴィンは、いいや、と言った。それはひどく気の抜けた声だった。
「あなたって冗談ばかり言うから、見ているとむしゃくしゃするのよ。今日だけで私がこうなんだから、あなたの恋人なんかは大変でしょうね」
「今は堅物な男がモテるのか?」
「いつだってそうよ、カタギリさん。あなたなら分かるでしょ」
 ケヴィンが首を傾げると、ティアは大きく息を吸った。そして弾丸のように吐き出す。少し緊張がほぐれてきたようだ。
「病院にいると色んな人を相手にするの。病気になって、まるで他人の罪を着せられたような気でいる人や、運動不足と酒の飲み過ぎが神の御意志であるかのように訴える人なんかね。珍しくないわ。私たちもそんな勘違いにいちいち目くじら立てるほど暇じゃないの」
「でもね、偶にいるのよ。何が起きても平気な顔をしている人が。まるで私を自分の娘か孫かだと勘違いしているのか、病室に監視カメラがついていて、患者が弱音を吐くたびそれを見ている誰かに笑われるんじゃないかって思っているのか知らないけれど、彼らはいつも黙って、口を開けば楽しい嘘の作り話しかしないわ」
「むしゃくしゃするのよ、そういう人を見ていると。そういう人のために、私は……」
 そこまで言うと、ティアはもう一度短く息をついた。
「——それによくよく時給を数えたら低いんだもの。他人のことを考える前に自分の身の振り方を考えなきゃ。あなたも転職したら?」
「君は知らないかもしれないが、俺は割と給料がいいんだ」
「私がそう言えるくらいになるのは何年先かしら」
「チームプレーが出来る時点で重宝されるはずだ。上に行くほどワンマンプレーのやつばかりだからな、俺みたいに」
「私はチームでいいわ。あんな寂しい病室で目覚めたくないもの」
「信用できないかもしれないが、福利厚生に関してはそれなりにしっかりしているから安心しろ」
「ええ、期待してる」
 会話の最中でも、ティアがケヴィンの滑舌や反応を観察していることをケヴィンは感じていた。意識してそうしているのか職業病か、どちらでも構わない。まさか自分が誰かをスカウトすることになるとは思わなかったが、紹介状を書いたことは間違いではなかった。
 その運転席から漂う空気が微かに変化したのは、高速道路を降りて間もない頃だった。
 ケヴィンは半分微睡んでいた。それでも戸惑いの気配を感じて顔を上げた。
「どうした」
「気のせいかもしれないけれど、同じ車がずっと後ろにいるの。高速道路ではいなかった」
「どの車?」
「間に一台入って後ろにある車。黒の……ごめんなさい、車種には詳しくないんだけど」
「運転を続けて」
 ケヴィンはルームミラーに視線を当てる角度を調整した。バンの真後ろは老人が運転する軽自動車だ。助手席にボーダーコリーがいる。
 半円状にくり抜かれたその軽自動車のフロントガラスとバックガラスを透かしてさらにその奥を見る。
 黒い車が走っていた。ただの黒と呼ぶのも少々躊躇われるような、純黒の車体。滑らかなボディラインは前方がなだやかに盛り上がり、後方へかけて窄まり、小さな山を描いている。
 横から見ると、走る犬のようだ。
「停めてくれ」
「えっ?」
「俺はここまでだ」
「待ってよ、何を言ってるの?」
 ケヴィンは運転席の方へ身を乗り出した。道路状況は平常だ。セントラルの中心部からはまだ距離がある。駅の外側を迂回して裏口につける、そのルートに入ったばかり。まだ横道はいくらでもある。
「この先で適当に横に折れて、停めてくれ。俺はそこで降りる」
 ハンドルを握る手の間を擦り抜けて腕を伸ばし、ウィンカーを上げる。ティアが短く悲鳴のような声を上げたが、車は外から見る限りでは礼儀正しく右折レーンへ移った。
 右折先には商工会議所の建物があったが、日曜日は休業しているのか、駐車場に停まっている車も、その前を歩いている人もいなかった。ガラス張りになった正面側にはスクロール式のカーテンが降りている。
 ティアが何度も質問の切れ端を投げかけたが、ケヴィンは無視して車を降りた。紙袋から煙草とライター、携帯だけ持ち出してポケットに突っ込む。
「キルヒャーには五分遅れると伝えてくれ」
「ちょっと!」
「これもテストの一つだ。先に行って場を繋いでおいてくれ、初任給が上がる」
 そう言って後部座席のドアを閉じて離れようとしたケヴィンの腕を、ティアが開けた窓から伸ばした腕で掴んだ。
「あなたを無事に送り届けなきゃいけないのよ」
 無事に、という部分は彼女のアドリブだろう。無意識に強調されたその部分には、やはり彼女の思想が強くあらわれていた。
「無事に追いつく」とケヴィンは言った。背後の商工会議所の駐車場へ黒い車が滑らかに入っていく。「尾行なんてするな。お互いもう相手の車は覚えた。それに五分なんてすぐだ。キルヒャーに俺の愚痴でも言わせておけばいい」
 濃いブラウンの瞳がケヴィンを睨みつけた。検視官のような目つきだ。
「五分過ぎたら、その時点であの車のナンバーを警察に言いつける——私の上司を拉致した車だと」
 ティアは外していたシートベルトを付け直すと、突き飛ばすようにケヴィンの腕から手を離した。「五分よ。遅れないで」そう言って車を発進させた。
 ケヴィンがバンが道路を行き、先ほどの本筋へ戻る方向へ左折して行くのを見送った。
 そして振り返ると、すでにペルシアンはケヴィンの真後ろにつけていた。ケヴィンが腰をかがめれば、犬の鼻のように長く、濡れたように艶めくボンネットへ腰掛けることができた。
 運転手が少しでもアクセルを踏めば、再びその車はケヴィンを撥ね飛ばしただろう。
 しかしその車は静かに後部座席のドアを片方開けた。
 空が曇り始めていた。まもなく雨か、今年初の雪が降るのかもしれない。
 いずれにせよ足を動かさなければならない。ケヴィンは踵を返し、その車へ乗った。
「どうも」
 スエード生地の白いリクライニングに手をかけ、滑り込むように乗る。ドアは自動的に閉まった。
「どうも、お嬢さん」
 車が極めて静かに動き出す。運転手はスーツ姿の男だ。顔は若く、短く刈り上げた金髪に悪い印象を抱くものはいないだろう。
 ケヴィンが後部座席に座った時、何気なく内側へ投げ出したその手にひんやりとした細い指が絡みついた。
 後部座席は小さなリビングのように四つの座席が向き合っている。中央にある据え置きのテーブルには窪みが四つあり、その一つに飴色の液体で満たされたグラスが二つあった。
「お久しぶりです」
 と、アリエル・タゴンが女神のように微笑んだ。
 
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