セーニョまで戻れ

四季山河

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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに

23 手は膝の上へ

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 ケヴィン・カタギリの人生はおおよそ全てが順調だ。生まれた時から、二十八年間の全てに評価を求められれば、ケヴィンは迷わず全てが順調だと答えただろう。
 やり直したいかと聞かれれば、笑顔で断るだろう。
 両親は忙しい人だったが、子供たちのことを忘れず、全てにおいて兄弟を差別しなかった。
 友人は多く、親友もいる。兄がいて、家族が皆元気でいる。
 アカデミーで多くを学び、首席で卒業した——そのことを覚えているのはもうごく一部だろうが。
 卒業式展のコンサートはシルヴェストスの一大行事だ。
 今でも、夜に見る夢のレパートリーが尽きればあのステージを夢に見る。完全が暗がりに覆われた舞台袖から見る、白く輝く珊瑚礁のような舞台。
 卒業生で構成されたオーケストラがそれぞれのあるべき席に着く。
 最後に指揮者が舞台へ歩み出る。細波のように寄せられた拍手は、そこで勢いを増して津波のように押し寄せる。
 観客席を立つ姿に気づいたのはケヴィンだけだった。何千という人の二倍ある手が激しくぶつかり合う最中、席を立った兄は静かにケヴィンの元へやってきた。
 どういうことだ? とヒースはケヴィンに聞いた。何故お前はこんなところにいるんだ? とも。
 舞台袖には既に演奏を終えた卒業生や、調律師が控えていた。ヒースが入ってくるのを止めるものはいなかった。
 演奏が始まる。音に引かれてケヴィンの視線は兄から舞台へ移った。
 一斉に構えているオーケストラの中で、一人だけ椅子に深く座ったままの男がいた。手に持った弓を弦につがえることもなく、イゼットは待っていた。
 指揮者が壇上に立つのをイゼットは待っていた。他ならぬ指揮台の上から無言の催促を受けても、イゼットは厳しい目でケヴィンを見つめていた。
 いいんだ、とケヴィンは言った。その言葉は兄に向けてのものでもあり、親友へ向けてのものでもあった。終わったらゆっくり話そう。
 イゼットの表情が歪み、ようやく手にぶら下げていた弓をチェロの弦に添える。
 ヒースはもう何も言わなかった。ケヴィンが舞台袖からも降りてしまうと、ヒースは黙ってそれに続いた。誰もそれを引き止めなかった。その日の演目にケヴィンの名前は無いのだ。引き止める理由が無かった。
 観客席にいた父と母は演奏会が終わってから帰ってきた。彼らも何も言わなかった。ただ母は首を傾げて、楽しみにしていたほどでは無かったわ、と言ってケヴィンを抱き締めた。すっかり全ての演目を静聴しきって家に帰ってきた両親は平然としていたが、その日の夜まで二人が長い間起きていたことをケヴィンは知っていた。
 屋敷の一階にピアノがあった。譜面台にはまだ楽譜が乗ったままだった。手書きの譜面はもはやケヴィンにしか読めないような文字で埋め尽くされていた。ケヴィンはそれを執事たちに回収される前に片付け、海辺で燃やした。
 あの曲はまだタイトルすらつけていなかった。曲を聴いた誰かにつけてもらおうと思っていた。両親か、兄か、親友か、執事の誰か。誰でもいい。ちゃちな言葉で構わなかった。
 海辺でそれを燃やした時、燃え残った紙切れに残っていた“D.S.”の文字を、いつも夢の最後に思い出す。ダル・セーニョ。意味はセーニョまで戻れ。
 ——あの日に戻りたいかと問われれば、ケヴィンは否と答える。
 ——あの日に戻ることに価値を感じるほど、あの日から進んでいない。海を離れ、時間が過ぎた。それでもあの日の夢を見るたび、まだ自分はあの場所にいる。
 あの暗い舞台袖に今も立っている。
 今もあの暗がりの中に立っている。
 白く熱い光に目を細めて、心地よい暗闇の中に沈んでいる。
 そしていつものように——夢から目覚める。
「……のよ、なんなのよ!」
 苛立った女の声。淡いフローラの香り。
「こんなの聞いてないわ……」
 囁くような声だが、震えてはいない。言葉を発しているのは彼女自身を落ち着けるためだ。そして落ち着こうと努める人間は頭が止まっていないことを示している。よりよく物事を考えるため、より早く決断に至るため、己に冷静さを求める。魔法道具でも、全てを壊す宇宙人の後輪でもなく、自分の知識と経験に答えを探す。
 そんな後輩に先達がすべきことは差し出がましい助言のみだ。
「落ち着け」
「だから……
 彼女が振り返る。その仕草によって髪が靡いた。ついさっきまで結えていたのか、ウェーブがついている。
 プールサイドで見た時と左右対称のウェーブがそのブルネットについている。
 ティア・サンテゴは目覚めたケヴィンを驚愕の瞳で見た。
「起きたのね」ティアはサッと身を翻し、ヒールを鳴らして枕元へ寄った。そして身を起こそうとするケヴィンの胸に手を当てた。「動かないで。安静に……」
「今、何月何日だ?」
「まだ年は明けてないわ。十二月の第一週、日曜日よ」
 その日付はケヴィンが最後に見たカレンダーの日付から二日後だ。すこぶる経過が良い。全てにおいて。
 ひどく殺風景な病室だった。セントラルの大病院とは比べ物にならない。壁はクリーム色で平和に塗られているが、四隅が若干剥げている。床の淡い緑と白のタイルはいかにも安っぽい。
 ただそれに反して、ケヴィンが寝ているベッドはセントラルの大病院で使用されているベッドと全く同じだった。救急治療室で使用されているキャスター付きのベッド。そばに備え付けの心電図や点滴を吊るすラックも新品同然の輝きを持っている。
 ティアは黒いタートルネックのニットにグレーのスラックス、そして黒いヒールを履いていた。細いチェーンのネックレル以外にアクセサリはつけていないが、彼女のはっきりした顔立ちを引き立てる化粧がなされている。
「ナース服より似合うな」
 ケヴィンがそう言うと、険しい顔で機材を見ていたティアはハッとしたように顔を上げた。そしてケヴィンの顔を見て、ようやく微笑む。口の左端だけを上げてニヒルに笑った。
「ありがとう。あなたは……やっぱり入院着が死ぬほど似合わないわね」
「なんでこういう服は馬鹿の一つ覚えみたいにパステルカラーしかないんだ?」
「そのコスチュームに懲りて、病院にお泊まりするようなお馬鹿さんが一人でも減るようによ」
「賢いな」
「口が回るわね。あなた、車に轢かれても碌に怪我しないし、今もテストが終わった学生みたいに元気だわ」
「君が本当にISCに入社したら、その時はきっと俺が恋しくなる」
 ティアは大きく肩を上げ、それから勢いよく落とした。「ねえ、あのキルヒャー……いえ、ミハイレ人事統括みたいな人ばかりなのかしら、ISCって」
「君をISCに紹介するのは、キルヒャーがもっと昇進した後にするべきだったな」
「ええ。でもその一点を除けば、あなたに感謝してるの」
 ティアはラックに吊り下がっていた点滴の密封袋をラックから外し、自動厚弁を装着してからケヴィンに持たせた。「これでいいわ。さあ、着替えて。あなたを目的地まで送り届けなきゃ、私のこれまでの転職活動の苦労がパアになる」
 機材が乗せられていた台の下に据え置きのボックスに衣服が入っていた。いかにも今日、医療量販店で買ってきたばかりと言わんばかりの無地の服だ。黒のパーカーにズボン、白いシャツ。季節を思えば薄手だが、文句を言える立場のものはいない。
 ケヴィンは身体中についていた電極を剥がし、点滴元のパウチを口に咥えて着替えた。ティアは慣れているのか、ケヴィンが全裸になってもすぐそばで機材の操作をしている。次々に画面のウィンドウが閉じていき、最後に彼女は外付けの端末とコードで繋ぐと、タッチペンでいくつかの作業を行なった。
「ほんの一ヶ月で随分手慣れたな」
「講師が良かったのよ。通信教育だし、随分ぼったくられたけど」
「それ以上の見返りをすぐに手に入れる。君は筋がいい」
「あなたからの招待状、もう一枚くらい書いて貰えば良かったわね」
 ケヴィンは声を出さずに笑った。着替えを終えると、既に上着を着込んでいたティアが先立って部屋を出る。
 部屋の外も同じタイルの床とペンキの塗り替えが必要な壁が続いた。他の部屋には当然のように別の入院患者がいて、白い制服を着た看護師たちが様子を見ている。とはいえどちらも数は少なく、小規模な診療所のようだ。
 待合室のような広い部屋が奥に見えたが、ティアはその手間の非常口のドアへケヴィンを促した。診療所の裏に車を用意していると彼女は言った。うんざりした顔で。
「バックオフィス志望だっていうのに、入社試験が要人移送ってなんなのよ?」
「社用車を使う機会はあるだろうからな。傷をつけなければ上等だ」
「突然呼び出されて、そこに寝ているあなたを見た時の私の気持ちが分かる?」
「さあな。だが一つだけわかることはある。ここで俺が分かるよと言った時、君はさらに機嫌を損ねる」
「あなたって本当にお喋りだわ!」
 外は青空に反してひどく冷たい風が吹いていた。気にも留めなかった腹部の引き攣るような嫌な痛みがぶり返す。
 黒いバンの助手席に乗ろうとしたケヴィンを、ティアは押しのける様にして後部座席へ詰め込んだ。そして自分は運転席に乗り、シートベルトを装着する。ルームミラーの角度を直し、座席の位置を調整する。
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