セーニョまで戻れ

四季山河

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番外編SS:スポーツマンにあるまじき反則

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 昼休み、構内の広い庭園には噴水や中規模の運動場が整然と並んでいる。芝生に寝転がっている学生もいれば、噴水の縁に腰掛けて熱心にノートへ何かを書きつけているもの、トラックを延々と走る運動着のシャツ。
 決められたクラス毎の教室を持たないアカデミーでは、中等部から生徒個人が講義を選択して受講する。算術や歴史、科学の必修科目はあるが、それは極めて割合が小さい。
 したがって大概、講義棟の外は常に学生がぶらついている。ただし、昼休みはその混雑が絶頂に達する。
 ケヴィンは運動場の中でも年季の入ったバスケットコートで友人を待っていた。太陽は近くの実習棟に遮られ、晴れた日の乾いた風だけが吹いていく。子供用のような小さめのコートのため、中央のセンターラインからシュートを打つ。
 ボールはリングにぶつかることなくゴールネットの中心を通過した。これで十五点目だ。
「弟」
 ゴール下へ転がったボールを取りに行く。足元まで来て腰を屈めた時、ケヴィンはいつの間にか閑静なこのコート周囲に随分と学生が増えていることを認めなければならなかった。特に女子学生が多い。誰も彼も見知らぬ顔だ。高等部の学生だろう。
「弟、一人か?」
「そう見えるか?」
「見える」
 振り向けばヒースは既にコート内に入っていた。アカデミー指定のジャケットと白いシャツ、学年と所属を示す青に金色の三本線が刺繍されたネクタイ。グレーのスラックスに革靴。無造作に撫で付けた前髪は満面の笑みを隠すことなく晒している。
「生憎これから決勝戦で調整中だ。運動不足なら他を当たれ」
「調整してやる」
「お前はいつから俺のパーソナルトレーナーになったんだ」
 ケヴィンが片腕でボールを放ると、ヒースは笑いながら受け止めた。「そのまま、そこでいいぞ」そう言って即座に構えると、右手を眼前に構え、左手を添えて膝を曲げる。
 飛魚のようにヒースの全身が伸び上がる。先端から飛沫のように飛び出したボールは放物線を描き、ゴール板を叩いて跳ね戻りながらゴールリングを潜った。
 甲高く淡い悲鳴のような歓声が上がる。なんとかしろ、とケヴィンは口の動きだけで言ったが、ヒースはきょとんとして首を傾げた。終いには耳に手を当てて、もっと近づくように指を折る。
 再びケヴィンの足元に転がってきたボールを手のひらで吸うように掴み、軽く押し返す。
「昼飯食ったか?」ヒースは言った。「何を食った?」
「ボンゴレパスタとキノコの冷製スープ」
「足りないだろ。俺が勝ったら午後の講義までカフェテリアに連れて行く、いいな」
「口煩いトレーナーだな」
「ゴールはどっちがいい? お前の後ろにある方でもいいぞ」
 ボールは息を吹き返すようにバウンドし、徐々に勢いづくようにケヴィンの腰ほどまで跳ね返るようになった。ドリブルをしながらケヴィンは兄を見た。ヒースは一向に退場する様子も、オーディエンスに何がしかのサービスをする様子もない。
「ヒース」
「どうした、もっとハンデが欲しいのか?」
「10点やるから外野を黙らせろ」
「外野だと分かってるじゃないか」ヒースはジャケットを脱いでベンチに放った。「放っておけ、俺とお前の間には誰も入ってこれない」
「スポーツマンシップに反した言動だ、誤解と風評を招く」
「どこがだよ!」
 ヒースの言葉尻は歓喜によって狂った。弟が駆けて来たのである。しかも獣のように。兄としては喜ぶ他ない。だがこの時のヒースは兄でありディフェンスでもあった。ヒースの背後にあるゴールまで、直線距離では5メートルもない。
 懐を潜るように突進してきた攻め手をヒースは垂直に受け止めた。二人の体は接触したが、そのことに笛を鳴らす審判はいない。
 ケヴィンは一度ぶつかり、そして壁の硬さを確かめると、潔く数歩引いた(ボールを掠め取ろうとする手から逃れるためでもある)。そして薮から飛び出し、それぞれ肉食の動物が会敵したように互いを直線上に置いて睨み合う。
 ボールは吸い付くようにケヴィンの手へバウンドを繰り返す。
「5秒止まっていようか?」
「さっきので足首ひねったならそう言え」
「ハハ」
 会話の中で唐突に攻め手が差し込まれ、即座に防衛が動く。スポーツというより武道の打ち合いに似ていた。
「フェイントしかないと思ってるな」ヒースは何度目かのそれを退けて言った。「力押しを最後に取っておくのは賢明な判断だ」
「老人をいたぶるのは気が引ける」
「偶には乱暴にしたっていいんだぞ」
 ケヴィンは一度強くボールをコートに打ちつけた。そして跳ね返る時間で左手首を右手で握り、頭上に掲げる。反則のジェスチャー。そしてあさっての方向を指さす。
「アンスポーツマンライク“スピーチ“」
「だから……」ヒースは心底可笑しそうに肩を震わせた。「思春期か?」
 ケヴィンも薄ら笑みを浮かべ、バウンドを終えたボールを再び手で受け止め、跳ね上がる高さを短く押し込めていく。
 右へ。
 ケヴィンの体はヒースに対して右斜めを向いていて、右手でボールをバウンドさせている。ディフェンスからのカットを警戒して自分の左腕と体を壁にする。
 自然と右手のコースから攻めるだろうという先入観が無意識に周辺に充満し、それが冷静な兄の脳にまで染み渡る。
 やや膨らみながら右手に切り込めば、ヒースはすぐに前に出て牽制した。
 ケヴィンは急ブレーキをかけ、外側に体を回転させる。
 一瞬だが、ヒースの反応が遅れ、攻め手のルートを完全に塞ごうと先走ったディフェンスと背中合わせに中央へ切り込む。
 均衡が崩れ、微かに周囲もどよめいたが、それは兄弟の耳には入っていなかった。猛然と加速してゴールを目指すが、レイアップの手からボールが離れる一瞬前にヒースの手がボールを弾いた。
 しかしかすかな接触だ。ボールは勢いのない放物線を描いてコートに転がり、それを拾ったのはケヴィンだった。だが小休止を目論む攻め手に、冷酷な守り手が襲いかかる。
「足を止めるな!」
 ヒースは監督のようなことを言いながら、針で刺すようにバウンド途中のボールを弾いた。ボールは外のフェンスにまで弾かれ、外野を驚かせてから跳ね返ってくる。
 本来なら仕切り直す場面でも、二人は即座にまた睨み合った。
 一進一退の攻防はそれからなおも続いた。何度かシュートの場面もあったが、どちらが狙っても必ず阻害され、ボールはリングを通ることがない。
 攻防は再びセンターラインにまで押し返された。
 その時、突然ケヴィンが後ろへ下がった。両足を揃え、膝が曲がる。
 ボールを両手で胸の前に構え、視線はやや仰ぎ見るように上。
 何をしようとしているのか、即座に理解したヒースでさえ、動いた瞬間ケヴィンはボールを両手から打ち出していた。右手に左手を添え、全身をバネにしてボールを打ち上げる。
 この光景を左右反転させれば、ほんの数分前のヒースそのものだったろう。
 ただし、ボールの放物線がやや低い。
 息を呑んだ周囲が、しかしすぐに気づく。あるいは安堵する。
 あれではゴールに届かない。
 だがその安堵をぶち壊すように、突然コートの中に何者かが躍り出た。
 奇しくもそれは先ほどケヴィンが指で示した通り、明後日の方向からやってきた。
 友人を待たせてしまったことに気を急かして走るまま、イゼットは長い髪をたてがみのように靡かせてコートに突っ込むと、ゴール手前に出された“パス“を受け取った。
 そして片手で受け取ったボールをそのままゴールリングに叩きつける。
 雷が落ちたようなけたたましい音と共に、見間違いも聞き間違いようもなく、遠くの芝生で昼寝していた学生すら叩き起こすようなそれは見事なアリウープだった。
 ゴールリングにぶら下がったままのイゼットがふうっと息を吐いた。
「これで何点差?」
「2点差だ」ケヴィンが口に手を当てた。「今ので2-0」
「え? 僕たちの勝ち?」
「そうだな」
「やったー」
 イゼットがゴールリングを手放して着地する。乱れた長い髪を手で払い、首筋に張り付いているものを乱暴に掴んで背中へ流す。「今の活躍に免じて、明日の朝起こしに来てくれよ、ケヴィン。それか僕の代わりに近代史のレポート書いてくれない?」
「ふざけんな」
「ああ、君ってばお兄さんの前でそんな口の悪い……」
 そこでイゼットはふと横を見た。
 そこにはヒースがいた。腰を屈めて、ボールを拾っている。
 ケヴィンもようやく気づいた。目の前にいたはずの兄がいつの間にか数メートルも歩いて、ゴール下でボールを持っている。
 ヒースはボールを右手に持ち上げ、二人の視線に気づくとにっこりと笑った。
「その油断がなけりゃ100点だったな」
 ヒースが投げた。野球のようなスローイングで投げた。
 バスケットボールを。
 歓声が上がった。それは見事なアリウープに対しての歓声でもあり、コートの端からもう一方の端にあるゴールへの超ロングレンジシュートへの歓声でもあった。
「これで2-3」
 ヒースは使わなかった左手をスラックスのポケットに突っ込んだ姿勢でにこやかに言った。「“往々にして勝利を奪うのは強大な敵ではなく、矮小な慢心である”。素晴らしい、明日の近代史より得難い学びを得たな。後輩たち」
「その学びが本当に必要なのは、ほんの一点差で大口叩くような男の方じゃないか?」
「俺は二対一でも構わないが、午後一で必修科目がある」ヒースは大袈裟なほどため息をついた。「続きは家に帰ってからだ。明日の昼は誰も誘うなよ、弟」
「さっさと行け」
「そうぶすくれるな、俺だって離れがたい」ヒースは気障ったらしく両手を広げた。「中等部と高等部の校舎はどうしてこんなに離れているんだ?」
「お前が単位不足で留年するのは困る。同じ学年になったら俺は学校を変えるぞ」
「それも悪くない」
 背筋を寒くするケヴィンに対し、ヒースは本気か冗談か怪しげなほど楽しそうに、そして名残惜しそうにジャケットへ袖を通した。「じゃあな、お前も励めよ」
 ヒースが後ろ手を振って運動場を去ってゆくと、午後の講義の開始時刻のことを思い出して集まっていたオーディエンスもその大半が引き上げていった。
「うーん」
 ふいにイゼットが悩ましげな声を上げた。「なあケヴィン、もしかして僕って君にしか見えない幽霊だったりするのかな」
「は?」
 ケヴィンは向こうでまだバウンドしているボールの方へ向かった。イゼットはまだヒースが去って行った方向を難しい顔で眺めている。
「少なくとも君のお兄さんには僕が見えてないみたいだね」
「最高だな。ちょっとあいつに足引っ掛けて転ばせて来い」
「そんなことしたら明日から君の目にも映らなくなるぜ、僕」
 ケヴィンはボールを拾った。特に前触れもなくパスを出すが、イゼットはくるりと振り向いてそれを受け止めた。
「俺は霊感が無いからな」
「幽霊になったらまず君の股間を思いっきり蹴ってやるよ」
 ケヴィンは険しい顔をした。それから左手首を右手で握り、軽く掲げる。数ある反則の中でも極めて悪質なファウルに対する指示。アンスポーツマンライクファウル。だがそれを食らったイゼットは楽しそうに笑っていた。
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