セーニョまで戻れ

四季山河

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番外編:本編後のシルヴェストスにて

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 すれ違いざま声をかけられて、ミラン・アーキテクトは足を止めた。
 見知らぬ土地だ。特にミランの生まれ育った公国は内陸にあり、海に面していないせいか、この国の何処にいても感じる水、それも波を伴い常に蠢いているその気配に満ちた雰囲気は新鮮だ。国の中心部に巨大な人工海(あまりに巨大で底が深いために、ミランは初めてそれを目にしたとき、この国の方がむしろ海に浮かんだ建造物なのではないかと思った)があり、それは絶えず、遠く本当の海から吹く潮風に撫でられてさざめいている。
 そんな何もかもが新鮮で異物的な、じっさい異物は自分のほうだとは分かっているが、国において、しかしミランは自分に声をかけた男にだけは見覚えがあった。
「君……」
 その男はスーツを着ていた。ただしネクタイは締めておらず、白いシャツに黒いジャケットという、カジュアルともフォーマルとも判別しがたい絶妙な気品と気安さが溶け合っている。透き通った淡いグリーンのサングラスごしに、その目が細められる。
「君は、もしかしてミラン・アーキテクト君じゃないか?」
 ほとんど確定的な問いかけだった。そしてミランもほとんど確信していた。
「貴方は__失礼ですが」
「その通り」男は答えを聞く前に肯定した。「ヒース・カタギリ。君の最も知りたい点を付け加えるなら、ケヴィン・カタギリの兄だ。はじめまして」
 差し出された右手にミランも同じ手を差し出す。運動中ということを差し引いても、ミランの掌のほうがずっと熱い。
「このような格好で申し訳ない」ミランはランニング用の運動着だった。目立たない暗い色のパーカーにジョガーパンツ、そして今脱いだキャップ。
「謝ることはない。君の勤勉さと健康さがよくわかる。そしてその二つの素養は、俺が弟の関わる人間に対してまず真っ先に求めるものだ」
 ヒースはそっと握手を解き、そして「時間はあるかな?」と尋ねた。「君が屋敷を訪ねてくれた時、俺は不在だった。君に美味しい紅茶を振舞わせてくれないか。使用人が君に失礼を働いたという話も聞いている」
「失礼ということはありません。貴方がたの心情を思えば当然だ」
「まあ、今のは体のいいこじつけに過ぎない。実は俺個人が君と話してみたいと思っていた。だが弟はそれを許さないだろう、許してくれるとすれば、今このときの偶然だけだ」
 ミランはさほど悩まなかった。元より今はオフシーズンで、この国にやってきたのもけじめをつけるためだ。滞在するにも一泊してすぐ去るつもりだったが、それが崩れた今、特に今この時など、急ぐ理由は何もない。 
 滞在先のホテルで眠っている男は、まだ二度寝の最中だろう。そもそも時刻はまだ七時前だ。
 ヒースはミランが走っていた大通りから逸れ、細い路地が音もなく折れ曲がって階段となった先にある小さな喫茶店へ案内した。早い時間から営んでいるらしく、店内に三つしかない丸テーブルには新聞を広げた老人が既に注文したコーヒーの抽出が終わるのをのんびりと待っている。
「二階のテラス席は満席だろうな」
 ヒースがそう尋ねると、カウンターの中にいた青年ははにかんで、店内奥のドアへ促した。
  その喫茶店はもともと店主の自宅を兼ねており、二階建てだった。しかし店主が二階の屋根を取っ払ってしまって、そこを白土で塗り固めて平らになめし、屋上にした。そうしてそこにバザーやなんかで安く仕入れた、模様も形も様々なテーブルと椅子を並べている。
 青を基調とし、様々な種類のタイルをちりばめたテーブルは一点ものに見えた。二つ椅子が添えられており、これも同じ色調のものだったが明らかに作者は違う。
「毎朝ランニングを?」
「時間があれば」
「君は歌手だったな。流行に疎くて申し訳ない、俺は音楽をやらないし、とりわけ音楽を好んでいるわけでもない____意外かな?」
 路地のほうから上向きの風がテラスへ這いあがり、足元をさらった。まるで波打ち際に足を浸したような感覚をミランは覚え、正直に言った。意外だと。
「特段、音楽が崇高で、誰もが親しむべきものだとは考えていません。ただ、むしろこの国の人々は大なり小なりそうした意識を持っているものとばかり」
「まあ、この国に生まれたからには誰もが聖歌を学び、そして歌うことになる。そういう意味では音楽と無縁ではいられない。必然的にそうした技術を磨く機会を与えられもすれば、その道へ進むものもあるだろう」
「独特な文化だと」
「言葉を選ばなくていい」ヒースは苦笑した。「君は優しい男だな。弟が気に入るわけだ」
「体裁を気にするほど自分が他人に影響力のある人間だとは思っていませんが、少なくとも、気に入られたいと思う相手の家族に対しては、下心が無いとは言えません」
「はは」
 ヒースは空の木箱を転がすように笑った。
「言葉を選ばなくていいと言われて、まず真っ先に下心を暴露するとは面白い」
「公国での一件は、俺に“半端な頭と半端な立場で賢く立ち回ろうとするな”という、これ以上ない教えをくれた」
 ヒースは軽く握った拳を口に当てて笑いをこらえた。間もなく二人分の紅茶とスコーンを乗せたセットが運ばれてきたが、店員が立ち去るまでヒースの口元は隠されたままだった。
 ミランはそれを待つ間、先に紅茶に手を付けた。立ち上る湯気が透明な日差しにかき消され、淡く吹いてくる風に千切られる。それでも蜂蜜のような重さのある甘みを孕んだ香りははっきりと感じられた。
「どんな風に説明したんだか。弟は俺を、君に」やがて笑い終えたヒースが顔を上げた。「あいつはどうも、俺を悪の組織の幹部か何かだと疑っている節がある」
 ミランは黙っていたが、実はその通りだった。いやその通りと評するのも憚られる。ミランが受けた説明の重要な部分を抜粋すれば、ヒース・カタギリと遭遇した場合、ミランは限りなく口数を減らし、主義思想を主張せず、そしてどれだけ古くとも過去の話をしてはならない、ということだった。挙句の果てには
「あと早めに指紋とDNAを警察に登録しておいてくれ」
 と、ケヴィン・カタギリはそう言った。ミランが何故と問えば、まだ正式な交際を始めて一週間未満の恋人はただ黙ってミランの口に嚙みついた(これは比喩ではない)。
「実際のところ、俺は一会社員に過ぎない。残念ながらね。君のように名前や顔が雑誌に載ったことも、テレビで流れたこと__は一度だけあるが__ともかく。
 君さえよければ、困ったことがあったら気兼ねなく俺のことを頼ってくれていい。力になるかどうかは断言できないが、君が何か大切な、あるいは面倒な荷物を遠くへ運びたいときなんかには、助力できるだろう」
「なるほど」ミランは眉尻をやや下げた。「カタギリを公国から連れ出したのは貴方ですね」
「すべてはそう大袈裟な事態ではないんだ、アーキテクト君」
 ヒースはわざわざ肯定もせず肯定した。「家族が家に帰ることに大層な理由や手段は必要ない。であるのならば、それを阻むような謂れも権利も、何処の誰にも持ちえない」
「クイーンズが組織としてISCへ突きつけた訴状を、しかし上は呆気なく取り下げた。最悪の事態が起きたのかと思ったが、ウィンター氏がタゴン氏の家から姿を消したと聞き、その後まもなくオータム区のコテージが新たな入居者を募集し始めたのを知り、その逆だとわかった」
 ヒースが僅かに目をすがめたが、それはサングラスのレンズを支える縁の太さにも及ばない動きだった。そしてミランの視線は自らの手元に向いていた。
 そのとき、ふいにミランは視線を走らせた。
 方角としては北だ。そして北は、丁度ミランから見てヒースの左肩に乗っていた。
 ミランの目がわずかに見開かれ、そして顕微鏡のレンズが倍率を定めるように、薄い色の虹彩の内側にある瞳孔が蠢く。
「なにか聞こえたか?」ヒースが言った。「例えば、人の、あるいはなにかの鳴き声のようなものが」
 だがミランは首をねじり、眉をひそめた。いや、と囁く声は半分で掠れた。
「確かにあの方角に大聖堂があるのは知っています、だがさっきの音はそれじゃない……」
「あまり深く考えないことをお勧めする。君は、陸の人間にしては随分耳が良いようだからな」
 ヒースは二つに割ったスコーンを一つずつ口に入れた。付け合わせのジャムも何もつけず。「君と我々のルーツが存外そう遠くないとしても、それは遥か昔のことだ。今日の聖歌は、当時のそれとはあまりに違う。君があれを歌として認識しようとすれば、君が辿る歴史はあまりに深く、君の骨は柔らかすぎる」
「__ルーツ?」
 ”君と我々のルーツが存外そう遠くないとしても”
 少なくともそれだけは聞き流せない言葉だった。ミランが意識を自分に切り替えたことに、ヒースはひどく満足そうに頷いた。だが、彼はミランの質問には答えなかった。
 再び北の方角から、きっと間違いなく(何故かミランにはそう断言できた)、あの北に聳え立つ大聖堂からなにかが響いてきていた。だが今度はヒースの眼差しがミランの意識を強く引き付け、強く引き縛り、離さなかった。
 まるで優れた調教師のように、ヒースは一切の暴力に頼らずミランの意識を自分に集中させていた。
「スコーンが冷める」
 と、ヒースは言った。「食べるといい。プレーンとオレンジュ、一口目はそのままで、二口目はジャムをつけるのがおすすめだ。眼が醒める」
 ヒースも新たに自分の皿からスコーンを手に取る。スパイスとグリューワインに丸ごと漬けたオレンジが細かく刻まれ、生地に練りこまれている。やはり今度もヒースは何もつけなかった。
「帰るときに、下で焼き立てのものをいくつか弟に持ち帰ってくれないか。弟もこの店の焼き菓子が好きなんだ」
「貴方は?」
「好きだとも」ヒースは心からの微笑みで応じた。「弟が愛し、弟に喜びを与えるものは、俺にとっても喜ばしい存在だ」
 ミランは二秒黙った。それからスコーンを一つ食べ、飲み下して、言った。
「カタギリが貴方に気をつけろと言った理由がよく分かりました」
「弟はその助言を多くの者に与えるが、しかしここまで遵守したのは君だけだ」
「花を育てたご経験は?」
 唐突な質問だったが、ヒースはまるでこの瞬間までずっとミランと園芸の話をしていたような滑らかさで首を振った。横に。
「植物を育てるうえで大事なことは、水やりを忘れないことよりも、水やりに夢中にならないことです」
「水をやりすぎると枯れるというのは、どうも理解できないな」
「水やりを日課にして、毎日日記をつけて、それが終わらないうちは一日を終えられないほど夢中になると、いつしか使うジョウロはどんどん大きくなっていく。育っていく花は全ての自分の手柄だと、どこかでそんな風に考えて、雨の一粒も花壇の土に染みないよう、溢れるほど水を注がないと気が済まなくなる」
 ヒースは黙っている。穏やかな沈黙だった。水のように空気に染み入り、風の途切れた今、それはミランの肌をくまなく撫でた。
 言葉を話すために口を開けば、その舌先にまで冷えた水気が滑り込み、それは肺まで凍みた。
「俺はそう遠くないうち、また公国へ戻ります」
「残念だ」ヒースはのんびりと言った。「弟は悲しむことになる」
「説明はしますが、説得は必要ないでしょう」
「そうか……」
 はじめてヒースが何かを思案するそぶりを見せたので、ミランは少しの間、待った。
 案の定、ヒースはそうミランを待たせなかった。
「君が弟のそばにいてくれるなら、ウィンター君ともう一人……彼らに取り損ねた学位を得る機会を与えられると思ったが。まあ、元よりあの二人は自分たちが取り損ねた学位のことなど覚えてはいないだろう。愚か者が更生するかどうかの社会福祉に、客人を巻き込むのは本意ではない」
「随分とウィンター氏に辛辣だ」
「君ほどじゃないさ。俺個人にとっては、ウィンターもグウィンも、家族以外の人間は、さほど見分けがつかないんだ。勿論、今の君は別だがね」
「それは俺がカタギリの恋人だからですか」
 もしこの場にケヴィンがいれば。
 ミランの脛を蹴り飛ばしたか、あるいはミランの肩を抱いただろう。これ見よがしに。そういう風にして、そういう体裁でミランを抱き寄せて、あらゆる危険から彼を守るための体勢を取っただろう。
「違う」
 ヒースの声は一貫して落ち着いており、低くたおやかだった。否定の言葉さえ、ぼんやりとしていたら肯定か賛辞と聞き間違えてしまいそうなほどに。
 まるで子供をあやすようにヒースは穏やかだった。
「恋人、友人、そんな肩書は無意味だ。友人と名乗るものが友の宝を盗み、恋人と名乗るものが愛するものの尊厳を踏みにじるのを、俺は目にしてきた。肩書は偽名のようなものさ。安い服にも似ている。自分の思想と行いに確固たるものがないものがそうして着飾れば飾るほど、体は重く、輪郭は醜くなる。重要なことは、それを重要だなどとそれ以外と比べるまでもなく、その者が何を為そうとし、そして実際に何を為すかだ」
「これは他でもない、俺自身が犯した数々の失態から得た血生臭い事実だ。異論は認めない」
「ミラン・アーキテクト君」
「俺は君に期待している。俺は君という存在を、君がもたらす成果を、本当に、心から歓迎する。君は実際に、弟に喜びを与えようとし、そしてそれを為したからだ。それも一度や二度ではない」
「君がこれからも弟に喜びを与えてくれる限り、俺は常に君の味方だ。弟が心配しているようなことは、決して起きはしない」
「どうか俺を裏切らないでくれ。俺にも痛む心はあるんだ」
「弟が一瞬でも愛した友人、恋人、そういうものを葬るのは、ああ、本当に心が痛むよ」

「_____弟がこんな裏切り者の為に、時間と愛を費やしたのかと思うと、じつに心が痛む」

 薄手のレースのような風が吹いた。やわらかくざらついたそれが頬を撫で、二人の間をすり抜けていく。
 ミランは瞬きをしなかったし、ヒースもしなかった。屋上は相変わらず二人きりで、そばの通りを歩く早起きな市民もいなかった。早起きな市民は大概、朝の祈りを聖堂で捧げていることだろうし、まだ眠りのうちにあるものは夢の中でそれをしている。
「これから先、」
 口を開いたのはミランだった。彼は目の前にまで迫った嵐を見据えるように、厳しい眼差しをしていた。
「何が起きようと、俺はその全てに対して、自分の意志でやった、と断言できる。その全てに責任を負う。それだけはお約束します」
「豪胆だな。君のような有名人は、たいがい言質を取らせたがらないものだが」
「誰しも自分の理念があり、それに従って行動するなら、言質なんていくら取られようと構わない。そうでしょう」
 ヒースは数秒、悩んだようだった。彼にしては珍しく。表情を取り繕うべきか、この青年にもっと圧をかけてみるべきか? 
 だが結局、ヒースは止めた。すべて止めて、まったく呑気に心からの敬意を示すことにした。それは軽やかな笑い声として。
「使用人たちの非礼を詫びるつもりが、まず俺の非礼を詫びなければならないようだ。すまなかったね」
 いいえ、とミランは短く応じ、そして紅茶を飲んだ。
 カップがソーサーに戻されるのを待って、君が、とヒースが言った。それからゆるく首を振った。
「弟と仲良くしてやってくれ」
 別れ際、ヒースは焼き立てのマフィンやスコーンが詰まった紙袋と共に、ミランへその言葉を渡した。そしてミランが滞在するホテルへ戻りがてら、特に街並みの美しいルートを細かに教えた。
 そしてヒースは、ミランが磨かれた石畳の路地から見えなくなるまで見送った後、真逆の方向へ歩き出した。来た道を戻るように、路地からゆるやかな下り階段へ曲がり、さらに路地と路地の交わる町家の裏庭にあたる子供たちの遊び場を抜けて。
 そうしてしばらく慣れ親しんだ故郷の町を無為に散策し、散歩して。
 背の高い家々がまばらになり、公共施設の整然とした街並みを通り過ぎて。
 やがて建物もなく開けた、整備された海沿いの一本道へ入ったところで。
 ヒースは向かう先、まだ私有地手前の遊歩道沿いに置かれた閑散たるベンチに座っている影に気づいた。わざとらしく、わざわざデスクから持ってきたのであろう、このあと一時間たってようやく市民の手に渡る今朝の朝刊を広げている男。
「約束でもしていたかな?}
 男の前を通り過ぎる寸前、ヒースは足を止め、横目でそう問いかけた。「今や聖歌隊長ともあろう人間が、息抜きをするにしても少々足を伸ばしすぎじゃないか」
「今日は非番だ」
「だがお前が言えば、取り巻きは非番だろうと喜んで駆けつけて、ページを一枚一枚捲ってくれる」
「彼が戻ったと聞いた」
 ヒースは視線を前に戻した。左手の海岸から吹いてくる風を遮るものはなく、この遊歩道は少なくとも今の時期、人気はない。朝方の特に空気の冷えた時刻は、こんな場所で新聞を読むなど、修行のためでなければなんだというのか。
 だが、アルヴィスはまた新聞を捲った。縁のないアルミフレームの眼鏡ごしに紙面に注がれる視線は機械のように一定間隔で横移動を繰り返す。潮風に黒髪が靡いても(その長めの前髪が眉間の間で揺れても)、アルヴィスは機械のように指先と視線だけを精密に動かしている。それ以外は微動だにしない。組んだ足の、上になった右のつま先さえ。
 アルヴィス・L・グウィンは石像のようにそこに座っている。
 彼の着ているグレーのコートの裾が揺れるのが、いっそ不思議に思えるほどだった。
「ウィンターの小僧は人に手間をかけさせる天才だな……それで、弟になにか用があるのか?」
「それを確かめるために、此処にいる」
「確かめる権利がお前にあると思っているんだな」ヒースは溜息をついた。「六年も学ぶ時間を与えてやったというのに、その傲慢さを顧みることもしなかったとは、嘆かわしいことだ」
「人に傲慢を説くのは、己もまた傲慢だからだ。実の弟さえその役割と成果でしか測れない人間が説く教えに、さほど目ぼしい学びがあるとは思えないがな」
「なら、どうしてお前はこんなところで座っているんだ?}
 ヒースは身じろぎもせず、スラックスのポケットに手を突っ込んだまま答えた。風を浴びてただ立っているだけでも、それはポラロイドになりえる風景だった。
「お前に権利と教えがあるなら、お前はどうしてこんなところで待ちぼうけをしているんだ? 昨日までの六年間も同じだ。お前は一度も弟に会えなかったし、弟はお前と会わなかった。これ以上ない時間の事実から目を背けて、今日び何を確かめる?」
 アルヴィスが沈黙した(それでも依然、彼の目と指だけは動いていた)。
「弟はお前に用が無い。だからお前は弟に会わなくていい。悪いが弟は恋人と休暇中なんだ、邪魔しないでやってくれ」
「……」
「それとも、弟は建前で俺に釘を刺しにでも来たか。上の連中からしてみれば、俺がついでに連れ帰ったウィンターを管弦楽団に放り込んだのはさぞや恐ろしい陰謀に見えるだろう」
「そういったことは確かにあったが、今日の件とは無関係だ」
「そうだな」ヒースが穏やかに応じた。「俺たちからしても無関係だ。お前たちと俺たちは、もうとっくに何の関係もない。弟とお前が友人だったことも、弟がアカデミーで学んでいたことも、俺がそこにいたことも。今日の俺たちの誰とも、何の関係もない」
 ヒースは振り返り、そしてまったく無垢で見惚れるような微笑みをアルヴィスへ向けた。アルヴィスもまた、はじめてこのとき紙面から視線を外した。
 冷徹な視線と怜悧は視線は交錯しても音を立てなかった。
「安心しろ、ウィンターは俺の密偵でもなんでもない。彼がこのまま正式に管弦楽団長の椅子に収まったとして、俺が聖歌隊を支配しようなんて企む日は永劫来ない。俺はお前と違って、時間を無駄にする趣味はないのでね___ではご機嫌よう。どうか有意義な一日を」
 そう言ってヒースは小首を傾げるように会釈した。それから、前へ向き直り、ゆっくりと歩いていく。
 少なくともヒースが家に戻るまで、アルヴィスは同じベンチで新聞を読んでいたようだ。その後彼がどのタイミングでベンチを離れたのかは定かでないし、誰が確かめたわけでもない。
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