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0章
小指の感触
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僕達が出会ったのは幼稚園生の頃だった。僕達はずっと一緒にいた。何をしていても彼女が横にいて、僕は彼女と二人でいることは当たり前のことなのだとさえ思っていた。あの頃は二人でいる時間の方が長かったような気もする。
彼女の名前は保栖蓮。
彼女は綺麗で完璧な女性だった。顔が良いのは勿論のこと、所作や声、とにかく彼女が行動に起こす全てが綺麗に出来ていた。特に彼女の口から出る言葉には魔法でもかかっているのではないかと思うほど、大きな影響力を有していた。
彼女がひとたび何かを意見すると、周りの人間はそれが正しいのだと考えてしまう。反対していた人間も彼女と会話を重ねていくたび、やがて考えを改める。彼女は決して他の人間を使って脅迫している訳ではなかった。対等な立場で、話し合いという手段を用いて相手を自分色に染め上げる。
昔に一度だけ、何故そんな事が可能なのか聞いた事があった。しかし僕は彼女が笑顔ではぐらかしたのを覚えている。彼女自身も理由が分からないのだろうと、僕はそう思う事にした。
僕達の出会いは小学校よりも前だったが、僕達の関係は少しだけ特殊だった。
今でさえ普通の暮らしをしている彼女だが、幼稚園生の頃の彼女は貧しい生活をしていた。それと彼女には父親がいなかった。より正確にいうと、彼女の父親は借金だけを残して蒸発していた。借金返済に追われる彼女の母親は夜遅くまで働き、彼女は夜遅くまで母親の迎えを一人で待つ。だから僕の彼女に対する第一印象は、いつも寂しそうな顔をしている女の子だった。
ある日、そんな彼女の姿を見た僕の母は彼女の母にある提案を持ちかけた。それは彼女の母の仕事が終わるまで、僕の家で彼女を預かるという提案だった。彼女の家と僕の家は歩いて五分ほどの距離にあるのは僕も知っていた。幼稚園生の女の子の食費なんてたかが知れているし、何より元保育士の母は彼女のことを見過ごせなかったのだろう。彼女の母は当然その提案を断ったが、最終的には幼稚園を卒園するまでの二年間、僕達は同じ家に帰り、同じ晩御飯を食べて、まるで家族のように育った。
当時の母には本当に感謝してもしきれない。だって、母があの提案をしなければ僕は彼女との関わりなんて持てなかったはずだ。幸か不幸か、彼女の家が貧乏だったお陰で僕達は出会うことが出来たんだ。
僕は彼女が横にいることが当たり前だと思っていた。ずっとこの関係が続くのだと信じていた。しかし、事実としては小学生になった僕達の会話は著しく減った。ただそれにはしっかりとした理由があった。一つは蒸発した父親の借金が無くなって、普通のアパートに引っ越したこと。そして二つ目は真っ暗な押し入れの中でした二人の約束による物だった。
僕と彼女は僕の従姉妹二人と家の中でかくれんぼをしていた。
僕が二階の寝室で何処に隠れようか辺りを見回していると、扉が開く音が聞こえた。
「あ、周もここに隠れるの?」
「うん、そのつもり」
僕がそう言うと、下の階からは隠れんぼの開始を告げる声が聞こえてきた。
「ほら、早く隠れよう」
彼女は僕の手を引っ張って、僕達は二人で押し入れの中に入った。
カビ臭いはずの押し入れはすぐに彼女の甘ったるい匂いへと変わった。酸素を欲して呼吸を繰り返すが、取り入れられる酸素は次第に減る。少しだけ、息が苦しかった。
「蓮、何処?」
蒸し暑くて額には少し汗が流れる。彼女を求めて、僕は暗闇の中で手を伸ばした。
「ここにいるよ」
耳元から透き通った声が僕の脳を揺さぶったと同時に、ひんやりとした手が僕の手を包んだ。暗闇に慣れてきた目を擦ると、僕の目の前には微笑んでいる彼女が現れた。
「静かにしないとバレちゃうよ?」
「う、うん」
押し入れの中は確かに暑かったが、何か別の要因で僕の体温が上がっている気がした。
この時、妙な雰囲気が流れていることは理解していた。幼い僕はこの妙な雰囲気を理解し切る事は出来なかったけど、この時の僕は彼女と手を離さずにいられる方法だけをずっと考えていた。
「ねぇ、周?」
彼女の声に少しびっくりしたせいで、やや遅れて僕は返事を返す。
「何?」
「私ね、少し良いこと思いついたの」
彼女のその言葉に僕は少しばかり警戒をした。彼女は誰に対しても平等に適切な距離で接する代わりに、気の許せる相手にはとびきり無邪になることを知っていたからだ。
「何を思いついたの?」
「小学生になったらさ、私達、友達じゃないふりしない?」
変わらず無邪気な声で彼女はそう言い放った。
予想外の質問に僕は思うように言葉が出なかった。何より彼女に嫌われたという可能性を考えると、胸の中にはドロドロになった何かが生まれた。さっきより薄くなった酸素を掻き集めて、僕は声を振り絞る。
「どうして……そんなことするの?」
「スパイみたいで面白いじゃん」
「スパ……イ? この前に見たアニメみたいなやつ?」
「うん、そう! 誰にも私達が幼馴染だってバレちゃいけないの」
彼女が提案した理由を考える前に、素直に面白そうだと僕は思った。何より安心感からか、この時の僕だったら彼女の提案を何でも受け入れていたと思う。
「……ちょっと面白そうかも」
「でしょ! じゃあ、小学生になったら私達は友達じゃないフリをする。けど、誰にもバレないように二人でお喋りする。それでいい?」
「うん。いいよ」
「じゃあ決定。指切りね」
暗くて暑い押し入れの中で僕達は指切りをした。そして指切りをした瞬間、僕は彼女の冷たくて細い小指の感触を一生忘れることはないのだと確信した。
この約束は彼女の気まぐれで一年程で終わると予想していた。けれど、これは何年も続く誓いとなった。秘密裏に同じ委員会に所属したり、偶然を装い二人きりになったり、制限をかけることによって僕達の関係はより綺麗になっていた。彼女は初めからこれが目的だったのだと、僕は後から理解した。
この頃の僕は彼女に抱いている感情が恋心だと気づいていない。
彼女は顔が良くて、性格が良くて、運動が出来て、勉強が出来る。自我が芽生え始めた小学生がそんな子を放っておくわけなくて、男女関係なく誰もが彼女に好意を寄せていた。僕は彼女に恋心を抱かないほうが難しいとさえ思う。
しかし、僕は誰よりも長く彼女の横にいたのにも関わらず、誰よりも彼女に対する恋愛感情を自覚したのが遅かった。そして僕は彼女に恋をして、すぐに失恋をした。
彼女の名前は保栖蓮。
彼女は綺麗で完璧な女性だった。顔が良いのは勿論のこと、所作や声、とにかく彼女が行動に起こす全てが綺麗に出来ていた。特に彼女の口から出る言葉には魔法でもかかっているのではないかと思うほど、大きな影響力を有していた。
彼女がひとたび何かを意見すると、周りの人間はそれが正しいのだと考えてしまう。反対していた人間も彼女と会話を重ねていくたび、やがて考えを改める。彼女は決して他の人間を使って脅迫している訳ではなかった。対等な立場で、話し合いという手段を用いて相手を自分色に染め上げる。
昔に一度だけ、何故そんな事が可能なのか聞いた事があった。しかし僕は彼女が笑顔ではぐらかしたのを覚えている。彼女自身も理由が分からないのだろうと、僕はそう思う事にした。
僕達の出会いは小学校よりも前だったが、僕達の関係は少しだけ特殊だった。
今でさえ普通の暮らしをしている彼女だが、幼稚園生の頃の彼女は貧しい生活をしていた。それと彼女には父親がいなかった。より正確にいうと、彼女の父親は借金だけを残して蒸発していた。借金返済に追われる彼女の母親は夜遅くまで働き、彼女は夜遅くまで母親の迎えを一人で待つ。だから僕の彼女に対する第一印象は、いつも寂しそうな顔をしている女の子だった。
ある日、そんな彼女の姿を見た僕の母は彼女の母にある提案を持ちかけた。それは彼女の母の仕事が終わるまで、僕の家で彼女を預かるという提案だった。彼女の家と僕の家は歩いて五分ほどの距離にあるのは僕も知っていた。幼稚園生の女の子の食費なんてたかが知れているし、何より元保育士の母は彼女のことを見過ごせなかったのだろう。彼女の母は当然その提案を断ったが、最終的には幼稚園を卒園するまでの二年間、僕達は同じ家に帰り、同じ晩御飯を食べて、まるで家族のように育った。
当時の母には本当に感謝してもしきれない。だって、母があの提案をしなければ僕は彼女との関わりなんて持てなかったはずだ。幸か不幸か、彼女の家が貧乏だったお陰で僕達は出会うことが出来たんだ。
僕は彼女が横にいることが当たり前だと思っていた。ずっとこの関係が続くのだと信じていた。しかし、事実としては小学生になった僕達の会話は著しく減った。ただそれにはしっかりとした理由があった。一つは蒸発した父親の借金が無くなって、普通のアパートに引っ越したこと。そして二つ目は真っ暗な押し入れの中でした二人の約束による物だった。
僕と彼女は僕の従姉妹二人と家の中でかくれんぼをしていた。
僕が二階の寝室で何処に隠れようか辺りを見回していると、扉が開く音が聞こえた。
「あ、周もここに隠れるの?」
「うん、そのつもり」
僕がそう言うと、下の階からは隠れんぼの開始を告げる声が聞こえてきた。
「ほら、早く隠れよう」
彼女は僕の手を引っ張って、僕達は二人で押し入れの中に入った。
カビ臭いはずの押し入れはすぐに彼女の甘ったるい匂いへと変わった。酸素を欲して呼吸を繰り返すが、取り入れられる酸素は次第に減る。少しだけ、息が苦しかった。
「蓮、何処?」
蒸し暑くて額には少し汗が流れる。彼女を求めて、僕は暗闇の中で手を伸ばした。
「ここにいるよ」
耳元から透き通った声が僕の脳を揺さぶったと同時に、ひんやりとした手が僕の手を包んだ。暗闇に慣れてきた目を擦ると、僕の目の前には微笑んでいる彼女が現れた。
「静かにしないとバレちゃうよ?」
「う、うん」
押し入れの中は確かに暑かったが、何か別の要因で僕の体温が上がっている気がした。
この時、妙な雰囲気が流れていることは理解していた。幼い僕はこの妙な雰囲気を理解し切る事は出来なかったけど、この時の僕は彼女と手を離さずにいられる方法だけをずっと考えていた。
「ねぇ、周?」
彼女の声に少しびっくりしたせいで、やや遅れて僕は返事を返す。
「何?」
「私ね、少し良いこと思いついたの」
彼女のその言葉に僕は少しばかり警戒をした。彼女は誰に対しても平等に適切な距離で接する代わりに、気の許せる相手にはとびきり無邪になることを知っていたからだ。
「何を思いついたの?」
「小学生になったらさ、私達、友達じゃないふりしない?」
変わらず無邪気な声で彼女はそう言い放った。
予想外の質問に僕は思うように言葉が出なかった。何より彼女に嫌われたという可能性を考えると、胸の中にはドロドロになった何かが生まれた。さっきより薄くなった酸素を掻き集めて、僕は声を振り絞る。
「どうして……そんなことするの?」
「スパイみたいで面白いじゃん」
「スパ……イ? この前に見たアニメみたいなやつ?」
「うん、そう! 誰にも私達が幼馴染だってバレちゃいけないの」
彼女が提案した理由を考える前に、素直に面白そうだと僕は思った。何より安心感からか、この時の僕だったら彼女の提案を何でも受け入れていたと思う。
「……ちょっと面白そうかも」
「でしょ! じゃあ、小学生になったら私達は友達じゃないフリをする。けど、誰にもバレないように二人でお喋りする。それでいい?」
「うん。いいよ」
「じゃあ決定。指切りね」
暗くて暑い押し入れの中で僕達は指切りをした。そして指切りをした瞬間、僕は彼女の冷たくて細い小指の感触を一生忘れることはないのだと確信した。
この約束は彼女の気まぐれで一年程で終わると予想していた。けれど、これは何年も続く誓いとなった。秘密裏に同じ委員会に所属したり、偶然を装い二人きりになったり、制限をかけることによって僕達の関係はより綺麗になっていた。彼女は初めからこれが目的だったのだと、僕は後から理解した。
この頃の僕は彼女に抱いている感情が恋心だと気づいていない。
彼女は顔が良くて、性格が良くて、運動が出来て、勉強が出来る。自我が芽生え始めた小学生がそんな子を放っておくわけなくて、男女関係なく誰もが彼女に好意を寄せていた。僕は彼女に恋心を抱かないほうが難しいとさえ思う。
しかし、僕は誰よりも長く彼女の横にいたのにも関わらず、誰よりも彼女に対する恋愛感情を自覚したのが遅かった。そして僕は彼女に恋をして、すぐに失恋をした。
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