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第一章 運命の人
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美咲の表情がいつになく真剣だった。
「あのね、すみれ、ちょっと真面目な話、してもいい?」
「え? うん。なに? なんなの?」
ただならぬ雰囲気に、すみれは姿勢を正す。
「驚かないでね」
ひと呼吸すると、美咲は意を決したように話し始めた。
「……私ね、今、お腹に赤ちゃんいるの。彼、向こうの人なんだ」
「え? ええッ! 赤ちゃん? 向こうの人? フィンランド?」
「大学辞めて彼の国に行く。もう決めたの。ごめんね、今まで黙ってて」
「辞める? なんで? 誰と? え?」
すみれはまだ事態を呑み込めないでいる。
美咲に彼氏がいるなんて初耳だ。それも外国人だなんて。
絶句している親友の顔を覗き込むと、美咲は「ホントにごめん」と両手を合わせた。
「ホント、ごめん」
もう一度繰り返す。だが、その顔は一転、ニヤけていた。
「え? なに?」
「すみれ、今日、何の日か知ってる?」
(何の日? 美咲の誕生日はお父さんと同じだから九月だし……今日から新年度、あッ!)
「もうッ! 美咲ってば!」
ペロッと舌を出した顔が憎らしい。
「やめてよね、もう。信じちゃったよ」
「ごめん、ごめん。こんなあっさり引っかかるなんて思わなかったから。ホント、すみれって素直だよね。でもさ、なんで私の彼がフィンランド人なの?」
「……分かんない。最近、サウナにハマってるって言ってたから、咄嗟にそう思ったの」
「それだけ?」
花びらが舞うキャンパスに、十九歳の笑い転げる声が響いた。
桜並木はもうじき満開になろうとしている。
四月を迎えた構内は、新入生を勧誘するサークルの準備が佳境に入っていた。至るところにブースが設けられ、さながら夜祭の神社の境内のようだ。入学式を一週間後に控え、学園全体を高揚感が包んでいた。
「何人くらい入ってきてくれるかな」
「今年は読み聞かせの会も増えるから、何とか十人は確保したいよね」
西巻すみれと栗原美咲は手話ボランティアサークルの二年生だ。
柊泉女子大は「社会に貢献する女子の育成」を建学の精神に大正時代に創設された。草創期から英語教育を大きな柱に据えており、現在では講義の約六割が英語で行われている。OGに民放のアナウンサーやキャスターも数多く、共学志向で女子大人気に陰りが見えた時期も志願者はむしろ増加。附属の中等部や高等部も高い偏差値を誇り、進学校として人気だ。
都心郊外の最寄り駅から正門までの道のりは、「しゅうせん通り」の愛称で地元の住民にも親しまれていた。
「すみれはこれからバイトだっけ?」
「うん。取りあえずゴールデンウィークまでは毎日頼まれちゃって」
二人は附属中等部から六年間を同じクラスで過ごした。どちらも花に由来する名前だったせいか、すぐに打ち解け仲良くなった。大学ではすみれが文学部、美咲は教育学部と分かれたが、今でも時折、互いの家を泊まりっこしている親友だ。
「あそこのカレー、美味しいもんね」
「春休みだと思って甘く考えてたら、結構お客さん来るんだ。大学だけじゃなくて高校の先生もよく来るし」
「文彦先生も?」
すみれの父文彦は高等部で英語を教えている。英文を塊で捉え、分からない単語は文脈から意味を推測して、とにかく先へ先へと読み下していく「西巻メソッド」を提唱。その読解術をまとめた参考書は、出版から十年がたった今でも受験生のバイブルとしてベストセラーを続けている。講演依頼はひっきりなしで、大手予備校からの引き抜きも常にささやかれていた。
「お父さんはあんまり。でも世界史の倉田先生とか、数学の杉本先生はよく来るよ」
「スギゾーに倉田っち! 元気だった?」
うん、と言うとすみれはふと眉をひそめた。
「大橋先生もしょっちゅう。コーヒーの出前も多いかな」
「大橋かあ。文彦先生と張り合ってたよね。今じゃ、すっかり差がついちゃったけど。古いんだって、教え方が。もう昭和じゃないんだから」
文彦より九歳年上の大橋雄造は、高等部の英語科主任だ。すみれ達も一、二年時に教わったが、生徒の評判は芳しくなかった。
英語は基本の構文を七百も覚えておけばどこでも受かる、というのが信念で、とにかく丸暗記の一点張り。最難関の国立大出身とあってプライドが高く、生徒を小馬鹿にしたような口癖はモノマネの対象になっていた。
「まだ言ってるのかな」
「何が?」
コホン。美咲はわざとらしい咳払いをすると、声色を変えてすみれを指さした。
「こんな問題も分からんのかね」
久しぶりに聞いた得意ネタに、すみれは思わず吹き出した。
「もう、やめてよ。今日来たら思い出して笑っちゃいそう」
二人は目を合わせると、また笑い転げた。
中等部から大学までが同居するキャンパスは南北に広がっている。
「じゃ、また来週ね」
駅に向かう美咲と別れたすみれは、高等部の校舎が並ぶ北門の方に歩き出した。
春らしい花柄プリントのワンピースがそよ風になびく。街中なら男たちが振り返りそうな膝上二十センチのミニワンピも、長身のすみれが着ると不思議といやらしく見えない。肩まで伸びた黒髪と、スラリと引き締まった生脚が凛とした雰囲気を漂わせている。八頭身のスレンダーな肢体は、胸のふくらみにも清潔さを感じさせた。
ソフトボール部が練習するグラウンドの横を通り抜け、中庭に差しかかると、「ワーンツー、スリーフォー」という掛け声が聞こえてきた。胸には愛称の「Hollies」の文字。チアダンス部だ。
すみれは中等部から六年間、柊泉ホリーズの一員として汗を流した。最後の一年はキャプテンに指名され、全国大会を目指していた。しかし、本番を目前に控えた練習中に右足指を亀裂骨折。チームも目標にあと一歩届かず、仲間と悔し涙にくれたのだった。
マスタードイエローとネイビーブルーのユニフォームを着ることも、もうない。
青春時代、か。
ちょっぴり感傷的につぶやくと、背後から呼ぶ声が聞こえた。
「すみれせんぱーい」
「麻紀!」
ポニーテールが似合う二つ下の内田麻紀は、英語がペラペラな帰国子女だ。ヒップホップダンスが得意で、一年生ですぐにメンバー入りしたほどセンスは抜群。一方で、英語と日本語をちゃんぽんした妙なラップで部員を笑わせるムードメーカーでもあり、新チームでは当然のようにキャプテンに選ばれていた。
「詩織先生、どう? 厳しいでしょ」
「はい! でも、実際に踊ってくれるから分かりやすいっていうか。先生の言う通りやってみると、確かにこっちの方がいいなって。やっぱり、全国大会に行った時のキャプテンだから、厳しくてもみんなついていけるっていうか」
「今年は全国、行けそう?」
「はい、今の調子なら! あとは誰もケガしないように気を付けるだけです」
「あー、それ、私に言う?」
いたずらっぽく笑う麻紀にげんこつする仕草を見せながら、すみれも笑う。
「とにかく、ケガだけは気を付けてね」
げんこつのまま手を振ると、麻紀の後ろから元気な声が飛んできた。
「すみれ先輩、ファイトー!」
(みんなもね。絶対、全国行くんだぞ)
声の方に向かってもう一度手を振ると、すみれは小走りでバイト先へ急いだ。
「あのね、すみれ、ちょっと真面目な話、してもいい?」
「え? うん。なに? なんなの?」
ただならぬ雰囲気に、すみれは姿勢を正す。
「驚かないでね」
ひと呼吸すると、美咲は意を決したように話し始めた。
「……私ね、今、お腹に赤ちゃんいるの。彼、向こうの人なんだ」
「え? ええッ! 赤ちゃん? 向こうの人? フィンランド?」
「大学辞めて彼の国に行く。もう決めたの。ごめんね、今まで黙ってて」
「辞める? なんで? 誰と? え?」
すみれはまだ事態を呑み込めないでいる。
美咲に彼氏がいるなんて初耳だ。それも外国人だなんて。
絶句している親友の顔を覗き込むと、美咲は「ホントにごめん」と両手を合わせた。
「ホント、ごめん」
もう一度繰り返す。だが、その顔は一転、ニヤけていた。
「え? なに?」
「すみれ、今日、何の日か知ってる?」
(何の日? 美咲の誕生日はお父さんと同じだから九月だし……今日から新年度、あッ!)
「もうッ! 美咲ってば!」
ペロッと舌を出した顔が憎らしい。
「やめてよね、もう。信じちゃったよ」
「ごめん、ごめん。こんなあっさり引っかかるなんて思わなかったから。ホント、すみれって素直だよね。でもさ、なんで私の彼がフィンランド人なの?」
「……分かんない。最近、サウナにハマってるって言ってたから、咄嗟にそう思ったの」
「それだけ?」
花びらが舞うキャンパスに、十九歳の笑い転げる声が響いた。
桜並木はもうじき満開になろうとしている。
四月を迎えた構内は、新入生を勧誘するサークルの準備が佳境に入っていた。至るところにブースが設けられ、さながら夜祭の神社の境内のようだ。入学式を一週間後に控え、学園全体を高揚感が包んでいた。
「何人くらい入ってきてくれるかな」
「今年は読み聞かせの会も増えるから、何とか十人は確保したいよね」
西巻すみれと栗原美咲は手話ボランティアサークルの二年生だ。
柊泉女子大は「社会に貢献する女子の育成」を建学の精神に大正時代に創設された。草創期から英語教育を大きな柱に据えており、現在では講義の約六割が英語で行われている。OGに民放のアナウンサーやキャスターも数多く、共学志向で女子大人気に陰りが見えた時期も志願者はむしろ増加。附属の中等部や高等部も高い偏差値を誇り、進学校として人気だ。
都心郊外の最寄り駅から正門までの道のりは、「しゅうせん通り」の愛称で地元の住民にも親しまれていた。
「すみれはこれからバイトだっけ?」
「うん。取りあえずゴールデンウィークまでは毎日頼まれちゃって」
二人は附属中等部から六年間を同じクラスで過ごした。どちらも花に由来する名前だったせいか、すぐに打ち解け仲良くなった。大学ではすみれが文学部、美咲は教育学部と分かれたが、今でも時折、互いの家を泊まりっこしている親友だ。
「あそこのカレー、美味しいもんね」
「春休みだと思って甘く考えてたら、結構お客さん来るんだ。大学だけじゃなくて高校の先生もよく来るし」
「文彦先生も?」
すみれの父文彦は高等部で英語を教えている。英文を塊で捉え、分からない単語は文脈から意味を推測して、とにかく先へ先へと読み下していく「西巻メソッド」を提唱。その読解術をまとめた参考書は、出版から十年がたった今でも受験生のバイブルとしてベストセラーを続けている。講演依頼はひっきりなしで、大手予備校からの引き抜きも常にささやかれていた。
「お父さんはあんまり。でも世界史の倉田先生とか、数学の杉本先生はよく来るよ」
「スギゾーに倉田っち! 元気だった?」
うん、と言うとすみれはふと眉をひそめた。
「大橋先生もしょっちゅう。コーヒーの出前も多いかな」
「大橋かあ。文彦先生と張り合ってたよね。今じゃ、すっかり差がついちゃったけど。古いんだって、教え方が。もう昭和じゃないんだから」
文彦より九歳年上の大橋雄造は、高等部の英語科主任だ。すみれ達も一、二年時に教わったが、生徒の評判は芳しくなかった。
英語は基本の構文を七百も覚えておけばどこでも受かる、というのが信念で、とにかく丸暗記の一点張り。最難関の国立大出身とあってプライドが高く、生徒を小馬鹿にしたような口癖はモノマネの対象になっていた。
「まだ言ってるのかな」
「何が?」
コホン。美咲はわざとらしい咳払いをすると、声色を変えてすみれを指さした。
「こんな問題も分からんのかね」
久しぶりに聞いた得意ネタに、すみれは思わず吹き出した。
「もう、やめてよ。今日来たら思い出して笑っちゃいそう」
二人は目を合わせると、また笑い転げた。
中等部から大学までが同居するキャンパスは南北に広がっている。
「じゃ、また来週ね」
駅に向かう美咲と別れたすみれは、高等部の校舎が並ぶ北門の方に歩き出した。
春らしい花柄プリントのワンピースがそよ風になびく。街中なら男たちが振り返りそうな膝上二十センチのミニワンピも、長身のすみれが着ると不思議といやらしく見えない。肩まで伸びた黒髪と、スラリと引き締まった生脚が凛とした雰囲気を漂わせている。八頭身のスレンダーな肢体は、胸のふくらみにも清潔さを感じさせた。
ソフトボール部が練習するグラウンドの横を通り抜け、中庭に差しかかると、「ワーンツー、スリーフォー」という掛け声が聞こえてきた。胸には愛称の「Hollies」の文字。チアダンス部だ。
すみれは中等部から六年間、柊泉ホリーズの一員として汗を流した。最後の一年はキャプテンに指名され、全国大会を目指していた。しかし、本番を目前に控えた練習中に右足指を亀裂骨折。チームも目標にあと一歩届かず、仲間と悔し涙にくれたのだった。
マスタードイエローとネイビーブルーのユニフォームを着ることも、もうない。
青春時代、か。
ちょっぴり感傷的につぶやくと、背後から呼ぶ声が聞こえた。
「すみれせんぱーい」
「麻紀!」
ポニーテールが似合う二つ下の内田麻紀は、英語がペラペラな帰国子女だ。ヒップホップダンスが得意で、一年生ですぐにメンバー入りしたほどセンスは抜群。一方で、英語と日本語をちゃんぽんした妙なラップで部員を笑わせるムードメーカーでもあり、新チームでは当然のようにキャプテンに選ばれていた。
「詩織先生、どう? 厳しいでしょ」
「はい! でも、実際に踊ってくれるから分かりやすいっていうか。先生の言う通りやってみると、確かにこっちの方がいいなって。やっぱり、全国大会に行った時のキャプテンだから、厳しくてもみんなついていけるっていうか」
「今年は全国、行けそう?」
「はい、今の調子なら! あとは誰もケガしないように気を付けるだけです」
「あー、それ、私に言う?」
いたずらっぽく笑う麻紀にげんこつする仕草を見せながら、すみれも笑う。
「とにかく、ケガだけは気を付けてね」
げんこつのまま手を振ると、麻紀の後ろから元気な声が飛んできた。
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(みんなもね。絶対、全国行くんだぞ)
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