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第一章 運命の人
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喫茶クミンは、高等部に近い北門を抜けて五分ほどの住宅街にポツンと姿を見せる。昔ながらの店構えが、今ではかえってSNS映えしそうな喫茶店だ。「インドカレーとコーヒーの店」と謳う古ぼけた看板が目印になっている。
北インドで修業した(本当かどうかは分からないが)マスターが作るカレーが本格的だと評判を呼び、お昼時ともなればカウンター六席、テーブル席が六ばかりの店内は女子学生や教職員でにぎわっていた。
高等部から近いこともあり、すみれも部活のきつい練習後にチームメイトとよくこの店で腹ごしらえをしたものだ。
だから、大学に入って生活のペースも落ち着いてきた去年の夏、マスターから声をかけられると、一も二もなくバイトを引き受けた。店は十一時半から夜八時までで、途中三時から五時までの休憩を挟む。すみれは週三回フレックスで入っていたが、もう一人のバイトが三月で大学を卒業したため春休みから毎日入っていた。
扉を開けると、マスターはカウンター席で新聞を読んでいた。
「おはよう、すみれちゃん」
「すみません、遅くなっちゃって」
「いいの、いいの。こっちの都合で無理に入ってもらってるんだから」
長門三十四がここに店を出したのは二十五歳の時だから、もう二十九年になる。学生街では立派な老舗だ。開店当初は苦戦したが、地元客や学生たちの口コミで徐々に評判が広まり、一人で食べていくくらいの生計は立てられていた。
「すみれちゃんも二年生か。早いなぁ」
「ホントですね。ここでバイトしだして……ちょうど八ヵ月だ」
「まだ八ヵ月だっけ? もう四年くらいやってる感じだよな。貫禄十分だもん」
「もー、やめてよ、マスター」
短く刈り込んだ口ひげ、彫りの深い目鼻立ちに百キロ近い巨漢で見た目はいかついが、しゃべり出すと途端にイメージが変わる。甲高い声がミスマッチでどこかコミカルなのだ。
「入学式の前はどのサークルも忙しいんだろ」
「うちみたいに学生数が少ないと、どうしても取り合いだから」
めっぽう愛想が良く、相談事にも親身に乗ってくれるから、卒業してからも訪れる常連客が少なくない。すみれもそんな長門を慕っている一人だ。
ケガで高校最後の大会を諦めた時、やり場のない思いを吐き出したことがあった。その時、根気よく話を最後まで聞いていた長門が、ポツリとこう言ったのだ。
「ウチのカレーってさ、いろいろ試行錯誤しながら、十何種類のスパイスを組み合わせて、やっと今の味に辿り着いたんだ。だから、どのスパイス一つでもないとウチのカレーにはならないの。それと同じじゃないのかな。すみれちゃんがいなかったら、チアダンス部だって、今みたいな部にはなってなかったと思うよ」
モヤモヤした思いが吹っ切れた気がした。選手として表舞台に立つことは出来なくても、裏方として最後まで部活をやり切れたのは、マスターのあの言葉のお陰だ。すみれはそう思っている。
「そういえばさ、すみれちゃんの誕生日、来月だっけ?」
急に話題が変わった。
「六日です。なんでですか?」
「先月の俺の誕生日、プレゼント貰っちゃったからさ。お返し、期待しててよ」
それはそうと、と長門は続けた。
「俺、三月十四日生まれだから三十四って名前になったって言ったっけ?」
「はい。あの時、マスターの名前がサトシだって初めて知りました」
「うちはさ、親父が二月十四日生まれでフトシって名前なの。で親父の親父、爺さんは一月十四日生まれでヒトシっていうんだ」
「えー、ホントですか?」
「ホント、ホント。だから、俺はどうしても三月十四日に生まれなくちゃダメだったんだって」
「でもマスター、誕生日の時……」
すみれは探るような目で長門を見る。
「三月十四日で、さんじゅうし、だから、親父に三銃士って名前付けられるところだったって言ってませんでしたっけ」
「あれ、そうだっけ」
「そうだっけじゃないですよ。もー、適当なんだから」
長門は悪戯がバレた子供のように頭をかいた。
「まあともかく、三月十四日に生まれたから無事にサトシになったけど、もう一日遅かったらなんて名前だったと思う?」
(三月十五日だと……三十五か。直木三十五と同じじゃない)
すみれの答えを聞く気はないのか、長門は喋り続ける。
「サンゴだったんだって。漢字だと海の『珊瑚』。死んだ親父がそう言ってた」
「まさか! 絶対嘘ですよ」
「嘘じゃないよ」
長門は真顔で言うと、謎々のように問いかける。
「じゃあ、五日遅かったらなんだったと思う?」
(五日遅れだと、三月十九日、てことは三十九。さとく? さときゅう? さんじゅうきゅう? まさか……)
「サンキュー、ですか」
ヒュー。口笛を吹いた長門は「漢字で書いたらなんだったと思う?」と嬉しそうに尋ねる。
「なんだろう……分かりません」
首を捻るすみれを見て、ニヤニヤする。
「感謝、だって。親父がそう言ってたよ」
何か言おうとすると、長門は答えを遮るように厨房の奥に目を向けた。
「さ、早く制服に着替えてきて」
(マスターの時代にキラキラネームなんてなかったはずよ)
そう思いながら、すみれはおかしくてたまらなかった。
(ああいうトークさせたら、お笑い芸人なんかより全然面白いんだから、マスターは)
ロッカー代わりになっている事務室に滑り込むと、素早くデニムのジャケットとワンピースを脱いだ。
淡いピンクのブラジャーは、スイートピーの花が立体的にデザインされている。おそろいのショーツにも花があしらわれていて、すみれのお気に入りだ。
清潔感のある白いシャツと膝丈の黒いタイトスカートに身を包み、後ろでまとめた髪をゴムで止める。
モスグリーンのエプロンを胸からかけると、鏡に向かって身だしなみをチェック。いつものルーティンだ。よし。店に出るのと同時に、ちょうど最初の客が入ってきた。
北インドで修業した(本当かどうかは分からないが)マスターが作るカレーが本格的だと評判を呼び、お昼時ともなればカウンター六席、テーブル席が六ばかりの店内は女子学生や教職員でにぎわっていた。
高等部から近いこともあり、すみれも部活のきつい練習後にチームメイトとよくこの店で腹ごしらえをしたものだ。
だから、大学に入って生活のペースも落ち着いてきた去年の夏、マスターから声をかけられると、一も二もなくバイトを引き受けた。店は十一時半から夜八時までで、途中三時から五時までの休憩を挟む。すみれは週三回フレックスで入っていたが、もう一人のバイトが三月で大学を卒業したため春休みから毎日入っていた。
扉を開けると、マスターはカウンター席で新聞を読んでいた。
「おはよう、すみれちゃん」
「すみません、遅くなっちゃって」
「いいの、いいの。こっちの都合で無理に入ってもらってるんだから」
長門三十四がここに店を出したのは二十五歳の時だから、もう二十九年になる。学生街では立派な老舗だ。開店当初は苦戦したが、地元客や学生たちの口コミで徐々に評判が広まり、一人で食べていくくらいの生計は立てられていた。
「すみれちゃんも二年生か。早いなぁ」
「ホントですね。ここでバイトしだして……ちょうど八ヵ月だ」
「まだ八ヵ月だっけ? もう四年くらいやってる感じだよな。貫禄十分だもん」
「もー、やめてよ、マスター」
短く刈り込んだ口ひげ、彫りの深い目鼻立ちに百キロ近い巨漢で見た目はいかついが、しゃべり出すと途端にイメージが変わる。甲高い声がミスマッチでどこかコミカルなのだ。
「入学式の前はどのサークルも忙しいんだろ」
「うちみたいに学生数が少ないと、どうしても取り合いだから」
めっぽう愛想が良く、相談事にも親身に乗ってくれるから、卒業してからも訪れる常連客が少なくない。すみれもそんな長門を慕っている一人だ。
ケガで高校最後の大会を諦めた時、やり場のない思いを吐き出したことがあった。その時、根気よく話を最後まで聞いていた長門が、ポツリとこう言ったのだ。
「ウチのカレーってさ、いろいろ試行錯誤しながら、十何種類のスパイスを組み合わせて、やっと今の味に辿り着いたんだ。だから、どのスパイス一つでもないとウチのカレーにはならないの。それと同じじゃないのかな。すみれちゃんがいなかったら、チアダンス部だって、今みたいな部にはなってなかったと思うよ」
モヤモヤした思いが吹っ切れた気がした。選手として表舞台に立つことは出来なくても、裏方として最後まで部活をやり切れたのは、マスターのあの言葉のお陰だ。すみれはそう思っている。
「そういえばさ、すみれちゃんの誕生日、来月だっけ?」
急に話題が変わった。
「六日です。なんでですか?」
「先月の俺の誕生日、プレゼント貰っちゃったからさ。お返し、期待しててよ」
それはそうと、と長門は続けた。
「俺、三月十四日生まれだから三十四って名前になったって言ったっけ?」
「はい。あの時、マスターの名前がサトシだって初めて知りました」
「うちはさ、親父が二月十四日生まれでフトシって名前なの。で親父の親父、爺さんは一月十四日生まれでヒトシっていうんだ」
「えー、ホントですか?」
「ホント、ホント。だから、俺はどうしても三月十四日に生まれなくちゃダメだったんだって」
「でもマスター、誕生日の時……」
すみれは探るような目で長門を見る。
「三月十四日で、さんじゅうし、だから、親父に三銃士って名前付けられるところだったって言ってませんでしたっけ」
「あれ、そうだっけ」
「そうだっけじゃないですよ。もー、適当なんだから」
長門は悪戯がバレた子供のように頭をかいた。
「まあともかく、三月十四日に生まれたから無事にサトシになったけど、もう一日遅かったらなんて名前だったと思う?」
(三月十五日だと……三十五か。直木三十五と同じじゃない)
すみれの答えを聞く気はないのか、長門は喋り続ける。
「サンゴだったんだって。漢字だと海の『珊瑚』。死んだ親父がそう言ってた」
「まさか! 絶対嘘ですよ」
「嘘じゃないよ」
長門は真顔で言うと、謎々のように問いかける。
「じゃあ、五日遅かったらなんだったと思う?」
(五日遅れだと、三月十九日、てことは三十九。さとく? さときゅう? さんじゅうきゅう? まさか……)
「サンキュー、ですか」
ヒュー。口笛を吹いた長門は「漢字で書いたらなんだったと思う?」と嬉しそうに尋ねる。
「なんだろう……分かりません」
首を捻るすみれを見て、ニヤニヤする。
「感謝、だって。親父がそう言ってたよ」
何か言おうとすると、長門は答えを遮るように厨房の奥に目を向けた。
「さ、早く制服に着替えてきて」
(マスターの時代にキラキラネームなんてなかったはずよ)
そう思いながら、すみれはおかしくてたまらなかった。
(ああいうトークさせたら、お笑い芸人なんかより全然面白いんだから、マスターは)
ロッカー代わりになっている事務室に滑り込むと、素早くデニムのジャケットとワンピースを脱いだ。
淡いピンクのブラジャーは、スイートピーの花が立体的にデザインされている。おそろいのショーツにも花があしらわれていて、すみれのお気に入りだ。
清潔感のある白いシャツと膝丈の黒いタイトスカートに身を包み、後ろでまとめた髪をゴムで止める。
モスグリーンのエプロンを胸からかけると、鏡に向かって身だしなみをチェック。いつものルーティンだ。よし。店に出るのと同時に、ちょうど最初の客が入ってきた。
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