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第一章 運命の人
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「お父さん、バイト行ってくるね」
日曜の朝からパソコンに向かっていた文彦は、玄関からの声に書斎を出てきた。
「帰りは何時になるんだ?」
「きょうは遅くなる。バイトの後、サークルの準備あるから」
「遅くなるのか」
スニーカーの紐を結ぶと、すみれが振り向いた。「出前でもなんでも晩ご飯、一人で適当にね。私は食べてくるから」
ピタリとしたスキニーデニムに、シンプルな黒の長袖Tシャツがきょうのコーデだ。首元が広めに開いたラウンドネックで、ゆったりした裾にある二つの破れ穴がアクセントになっている。白いカーディガンを羽織っているから目立たないが、Dカップのバストが胸の部分を押し上げ、身体のラインが綺麗に浮き出ていた。
「またボッチ飯か」と苦笑いした文彦が声をかける。
「あんまり遅くなるなよ」
「はーい」
黒のキャップをかぶり直すと、嘘ついてごめんなさい、と歩きながら文彦に詫びた。
(純平と付き合うきっかけを作ってくれたのはお父さんなのに、本当にごめん)
しかし、自然に出る鼻歌は抑えきれない。バイトの後は、三週間ぶりのデートなのだ。
あれは運命だった。すみれは今でも、そう思っている。
水嶋純平と出会ったのは、入学直後のゴールデンウィークに行われた合同合宿だ。純平は文嘉大手話研究会の新入生だった。親戚に聴覚障害の同い年の女の子がいて、何とかコミュニケーションを取りたい、だから小学校のころから手話を始めた、初めて会話が通じた時の相手の笑顔が忘れられません――。初日の自己紹介が心に響いた。
翌日はすみれの誕生日だった。一年生同士で組まされた会話練習で、その純平とたまたまペアになったのだ。相手の目を見て手を動かす純平に見つめられ、自分でもはっきりと分かるくらい鼓動の高まりを感じた。
女子校育ちだが、さばさばした性格だからか、昔から男子ともフランクに接してきた。なのに、純平には素直に話しかけられない。
(何なの、この気持ち……)
合宿が終わってから、思い切って美咲に相談すると、「水嶋くんのこと好きになっちゃったんでしょ」とあっさり言われ、自分でも驚いたものだ。
(これが人を好きになるってことなんだ)
私学の雄と言われる文嘉大は、OBの結束が固く、金融機関や商社への就職に強いことでも知られる名門だ。最近は司法試験合格者や中央官庁への採用も急増。中でも純平が進んだ政治学部は私大文系で最難関の偏差値を誇る、通称「文政」と呼ばれる、文嘉大の中でも特別な存在だった。
二人の距離が縮まったのは、夏休みに訪れた千葉県の施設での絵本読み聞かせ会だった。帰りの電車で純平の方から声をかけてきたのだ。そのころのすみれは、意識するあまり、目も合わせられなくなっていた。
「西巻さんのお父さんって、西巻メソッドの西巻文彦先生なの?」
「え? あ、うん」
胸がドキドキしてきた。
「やっぱりそうなんだ。俺、西巻先生の参考書のお陰で苦手だった英語がなんとか人並以上になったんだ。文政に受かったのも、英語でつまずかなかったからだと思う。すっごい感謝してる」
いきなり頭を下げる純平に、慌てて手を振った。
「私じゃなくてお父さんだから」
その瞬間、目の前に純平の顔が現れた。
(近い!)
でも目が離せなかった。それから何を喋ったのか、よく覚えていない。
後になって、降りるまでの三十分、ずっと二人で話していたと美咲から聞かされた。
駅からの帰り道、すみれを見た人は不審に思っただろう。ニヤニヤしながら、お父さん、ありがとう! とガッツポーズを繰り返していたのだから。
告白されたのは十月の半ば、やはり読み聞かせの会に行った帰りだった。美咲に「仲良いね」と冷やかされながら、いつものように他愛もない話をしていた。
すみれは大抵、聞き役だった。大学受験まで東京に来たことがなかったこと、高校時代は吹奏楽部で指揮をしていたこと、好きだったアイドルが十七歳も年上のお笑い芸人と電撃婚した時は高校を二日休んだこと、すみれより背が二センチ低いと知ってショックだったこと。と、純平が急に真面目な顔になった。
すみれを指さすと、右手の親指と人さし指を開いてのどに当てる。その手をスーッと降ろして指を閉じた。
「え?」
一瞬何のことか分からなかった。純平はもう一度同じ動作を繰り返す。
(ああ、手話か)
手の動きを思い出してみる。
(指をさしたのは、あなた、だっけ。指を降ろして閉じるのは……え?)
すみれはようやく理解した。
(あなたが、好きです)
手話で応えようと思ったが、頭が働かない。頬が熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
(早く、返事しなきゃ)
気ばかり焦り、なんて言えばいいのか思いつかない。
咄嗟に口をついて出たのは「いただきます」だった。
「西巻さん、それって……OKってことでいいの?」
不安そうに見つめる純平に、すみれは無言で何度も頷いた。
西巻さんがすみれになり、水嶋くんから純平と呼び捨てになるまで、そう時間はかからなかった。去年のクリスマスイヴ、文彦が英語学習の講演で家を空けたその夜に、二人は初めて結ばれた。痛みはあったが、それより好きな人と一つになれた幸せの方が大きかった。
今でも、告白された時のことを純平にからかわれる。
「俺、断られたらどうしようって、すっごい不安だったんだから」
「私だって初めてだったんだよ、コクられるのなんて」
すみれはむくれたように言い返す。
こののろけ話を何度も聞かされ、そのたびに「ごちそうさま」と爆笑する美咲だけが、二人の交際を知っていた。
「美咲、お願い。お父さんには絶対内緒だからね」
「分かってるって。奥手なすみれに初めて来た春だもんね」
中等部で同じクラスになってから、付き合いはもう七年を超えたが、美咲はいまだに掴みどころがない存在だ。相談には乗ってくれるが、こと自分の恋愛話は一切話さない。特に大学に進んでからは、はぐらかされることが多くなった気がする。一度それとなく聞いてみたが、「全然、何にもないよ」と一笑に付された。
ま、いっか。ちょうどホームに入ってきた快速列車に乗り込むと、すみれはスマートフォンをチェックし始めた。
日曜の朝からパソコンに向かっていた文彦は、玄関からの声に書斎を出てきた。
「帰りは何時になるんだ?」
「きょうは遅くなる。バイトの後、サークルの準備あるから」
「遅くなるのか」
スニーカーの紐を結ぶと、すみれが振り向いた。「出前でもなんでも晩ご飯、一人で適当にね。私は食べてくるから」
ピタリとしたスキニーデニムに、シンプルな黒の長袖Tシャツがきょうのコーデだ。首元が広めに開いたラウンドネックで、ゆったりした裾にある二つの破れ穴がアクセントになっている。白いカーディガンを羽織っているから目立たないが、Dカップのバストが胸の部分を押し上げ、身体のラインが綺麗に浮き出ていた。
「またボッチ飯か」と苦笑いした文彦が声をかける。
「あんまり遅くなるなよ」
「はーい」
黒のキャップをかぶり直すと、嘘ついてごめんなさい、と歩きながら文彦に詫びた。
(純平と付き合うきっかけを作ってくれたのはお父さんなのに、本当にごめん)
しかし、自然に出る鼻歌は抑えきれない。バイトの後は、三週間ぶりのデートなのだ。
あれは運命だった。すみれは今でも、そう思っている。
水嶋純平と出会ったのは、入学直後のゴールデンウィークに行われた合同合宿だ。純平は文嘉大手話研究会の新入生だった。親戚に聴覚障害の同い年の女の子がいて、何とかコミュニケーションを取りたい、だから小学校のころから手話を始めた、初めて会話が通じた時の相手の笑顔が忘れられません――。初日の自己紹介が心に響いた。
翌日はすみれの誕生日だった。一年生同士で組まされた会話練習で、その純平とたまたまペアになったのだ。相手の目を見て手を動かす純平に見つめられ、自分でもはっきりと分かるくらい鼓動の高まりを感じた。
女子校育ちだが、さばさばした性格だからか、昔から男子ともフランクに接してきた。なのに、純平には素直に話しかけられない。
(何なの、この気持ち……)
合宿が終わってから、思い切って美咲に相談すると、「水嶋くんのこと好きになっちゃったんでしょ」とあっさり言われ、自分でも驚いたものだ。
(これが人を好きになるってことなんだ)
私学の雄と言われる文嘉大は、OBの結束が固く、金融機関や商社への就職に強いことでも知られる名門だ。最近は司法試験合格者や中央官庁への採用も急増。中でも純平が進んだ政治学部は私大文系で最難関の偏差値を誇る、通称「文政」と呼ばれる、文嘉大の中でも特別な存在だった。
二人の距離が縮まったのは、夏休みに訪れた千葉県の施設での絵本読み聞かせ会だった。帰りの電車で純平の方から声をかけてきたのだ。そのころのすみれは、意識するあまり、目も合わせられなくなっていた。
「西巻さんのお父さんって、西巻メソッドの西巻文彦先生なの?」
「え? あ、うん」
胸がドキドキしてきた。
「やっぱりそうなんだ。俺、西巻先生の参考書のお陰で苦手だった英語がなんとか人並以上になったんだ。文政に受かったのも、英語でつまずかなかったからだと思う。すっごい感謝してる」
いきなり頭を下げる純平に、慌てて手を振った。
「私じゃなくてお父さんだから」
その瞬間、目の前に純平の顔が現れた。
(近い!)
でも目が離せなかった。それから何を喋ったのか、よく覚えていない。
後になって、降りるまでの三十分、ずっと二人で話していたと美咲から聞かされた。
駅からの帰り道、すみれを見た人は不審に思っただろう。ニヤニヤしながら、お父さん、ありがとう! とガッツポーズを繰り返していたのだから。
告白されたのは十月の半ば、やはり読み聞かせの会に行った帰りだった。美咲に「仲良いね」と冷やかされながら、いつものように他愛もない話をしていた。
すみれは大抵、聞き役だった。大学受験まで東京に来たことがなかったこと、高校時代は吹奏楽部で指揮をしていたこと、好きだったアイドルが十七歳も年上のお笑い芸人と電撃婚した時は高校を二日休んだこと、すみれより背が二センチ低いと知ってショックだったこと。と、純平が急に真面目な顔になった。
すみれを指さすと、右手の親指と人さし指を開いてのどに当てる。その手をスーッと降ろして指を閉じた。
「え?」
一瞬何のことか分からなかった。純平はもう一度同じ動作を繰り返す。
(ああ、手話か)
手の動きを思い出してみる。
(指をさしたのは、あなた、だっけ。指を降ろして閉じるのは……え?)
すみれはようやく理解した。
(あなたが、好きです)
手話で応えようと思ったが、頭が働かない。頬が熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
(早く、返事しなきゃ)
気ばかり焦り、なんて言えばいいのか思いつかない。
咄嗟に口をついて出たのは「いただきます」だった。
「西巻さん、それって……OKってことでいいの?」
不安そうに見つめる純平に、すみれは無言で何度も頷いた。
西巻さんがすみれになり、水嶋くんから純平と呼び捨てになるまで、そう時間はかからなかった。去年のクリスマスイヴ、文彦が英語学習の講演で家を空けたその夜に、二人は初めて結ばれた。痛みはあったが、それより好きな人と一つになれた幸せの方が大きかった。
今でも、告白された時のことを純平にからかわれる。
「俺、断られたらどうしようって、すっごい不安だったんだから」
「私だって初めてだったんだよ、コクられるのなんて」
すみれはむくれたように言い返す。
こののろけ話を何度も聞かされ、そのたびに「ごちそうさま」と爆笑する美咲だけが、二人の交際を知っていた。
「美咲、お願い。お父さんには絶対内緒だからね」
「分かってるって。奥手なすみれに初めて来た春だもんね」
中等部で同じクラスになってから、付き合いはもう七年を超えたが、美咲はいまだに掴みどころがない存在だ。相談には乗ってくれるが、こと自分の恋愛話は一切話さない。特に大学に進んでからは、はぐらかされることが多くなった気がする。一度それとなく聞いてみたが、「全然、何にもないよ」と一笑に付された。
ま、いっか。ちょうどホームに入ってきた快速列車に乗り込むと、すみれはスマートフォンをチェックし始めた。
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