4 / 40
第一章 運命の人
【4】
しおりを挟む
「お父さん、バイト行ってくるね」
日曜の朝からパソコンに向かっていた文彦は、玄関からの声に書斎を出てきた。
「帰りは何時になるんだ?」
「きょうは遅くなる。バイトの後、サークルの準備あるから」
「遅くなるのか」
スニーカーの紐を結ぶと、すみれが振り向いた。「出前でもなんでも晩ご飯、一人で適当にね。私は食べてくるから」
ピタリとしたスキニーデニムに、シンプルな黒の長袖Tシャツがきょうのコーデだ。首元が広めに開いたラウンドネックで、ゆったりした裾にある二つの破れ穴がアクセントになっている。白いカーディガンを羽織っているから目立たないが、Dカップのバストが胸の部分を押し上げ、身体のラインが綺麗に浮き出ていた。
「またボッチ飯か」と苦笑いした文彦が声をかける。
「あんまり遅くなるなよ」
「はーい」
黒のキャップをかぶり直すと、嘘ついてごめんなさい、と歩きながら文彦に詫びた。
(純平と付き合うきっかけを作ってくれたのはお父さんなのに、本当にごめん)
しかし、自然に出る鼻歌は抑えきれない。バイトの後は、三週間ぶりのデートなのだ。
あれは運命だった。すみれは今でも、そう思っている。
水嶋純平と出会ったのは、入学直後のゴールデンウィークに行われた合同合宿だ。純平は文嘉大手話研究会の新入生だった。親戚に聴覚障害の同い年の女の子がいて、何とかコミュニケーションを取りたい、だから小学校のころから手話を始めた、初めて会話が通じた時の相手の笑顔が忘れられません――。初日の自己紹介が心に響いた。
翌日はすみれの誕生日だった。一年生同士で組まされた会話練習で、その純平とたまたまペアになったのだ。相手の目を見て手を動かす純平に見つめられ、自分でもはっきりと分かるくらい鼓動の高まりを感じた。
女子校育ちだが、さばさばした性格だからか、昔から男子ともフランクに接してきた。なのに、純平には素直に話しかけられない。
(何なの、この気持ち……)
合宿が終わってから、思い切って美咲に相談すると、「水嶋くんのこと好きになっちゃったんでしょ」とあっさり言われ、自分でも驚いたものだ。
(これが人を好きになるってことなんだ)
私学の雄と言われる文嘉大は、OBの結束が固く、金融機関や商社への就職に強いことでも知られる名門だ。最近は司法試験合格者や中央官庁への採用も急増。中でも純平が進んだ政治学部は私大文系で最難関の偏差値を誇る、通称「文政」と呼ばれる、文嘉大の中でも特別な存在だった。
二人の距離が縮まったのは、夏休みに訪れた千葉県の施設での絵本読み聞かせ会だった。帰りの電車で純平の方から声をかけてきたのだ。そのころのすみれは、意識するあまり、目も合わせられなくなっていた。
「西巻さんのお父さんって、西巻メソッドの西巻文彦先生なの?」
「え? あ、うん」
胸がドキドキしてきた。
「やっぱりそうなんだ。俺、西巻先生の参考書のお陰で苦手だった英語がなんとか人並以上になったんだ。文政に受かったのも、英語でつまずかなかったからだと思う。すっごい感謝してる」
いきなり頭を下げる純平に、慌てて手を振った。
「私じゃなくてお父さんだから」
その瞬間、目の前に純平の顔が現れた。
(近い!)
でも目が離せなかった。それから何を喋ったのか、よく覚えていない。
後になって、降りるまでの三十分、ずっと二人で話していたと美咲から聞かされた。
駅からの帰り道、すみれを見た人は不審に思っただろう。ニヤニヤしながら、お父さん、ありがとう! とガッツポーズを繰り返していたのだから。
告白されたのは十月の半ば、やはり読み聞かせの会に行った帰りだった。美咲に「仲良いね」と冷やかされながら、いつものように他愛もない話をしていた。
すみれは大抵、聞き役だった。大学受験まで東京に来たことがなかったこと、高校時代は吹奏楽部で指揮をしていたこと、好きだったアイドルが十七歳も年上のお笑い芸人と電撃婚した時は高校を二日休んだこと、すみれより背が二センチ低いと知ってショックだったこと。と、純平が急に真面目な顔になった。
すみれを指さすと、右手の親指と人さし指を開いてのどに当てる。その手をスーッと降ろして指を閉じた。
「え?」
一瞬何のことか分からなかった。純平はもう一度同じ動作を繰り返す。
(ああ、手話か)
手の動きを思い出してみる。
(指をさしたのは、あなた、だっけ。指を降ろして閉じるのは……え?)
すみれはようやく理解した。
(あなたが、好きです)
手話で応えようと思ったが、頭が働かない。頬が熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
(早く、返事しなきゃ)
気ばかり焦り、なんて言えばいいのか思いつかない。
咄嗟に口をついて出たのは「いただきます」だった。
「西巻さん、それって……OKってことでいいの?」
不安そうに見つめる純平に、すみれは無言で何度も頷いた。
西巻さんがすみれになり、水嶋くんから純平と呼び捨てになるまで、そう時間はかからなかった。去年のクリスマスイヴ、文彦が英語学習の講演で家を空けたその夜に、二人は初めて結ばれた。痛みはあったが、それより好きな人と一つになれた幸せの方が大きかった。
今でも、告白された時のことを純平にからかわれる。
「俺、断られたらどうしようって、すっごい不安だったんだから」
「私だって初めてだったんだよ、コクられるのなんて」
すみれはむくれたように言い返す。
こののろけ話を何度も聞かされ、そのたびに「ごちそうさま」と爆笑する美咲だけが、二人の交際を知っていた。
「美咲、お願い。お父さんには絶対内緒だからね」
「分かってるって。奥手なすみれに初めて来た春だもんね」
中等部で同じクラスになってから、付き合いはもう七年を超えたが、美咲はいまだに掴みどころがない存在だ。相談には乗ってくれるが、こと自分の恋愛話は一切話さない。特に大学に進んでからは、はぐらかされることが多くなった気がする。一度それとなく聞いてみたが、「全然、何にもないよ」と一笑に付された。
ま、いっか。ちょうどホームに入ってきた快速列車に乗り込むと、すみれはスマートフォンをチェックし始めた。
日曜の朝からパソコンに向かっていた文彦は、玄関からの声に書斎を出てきた。
「帰りは何時になるんだ?」
「きょうは遅くなる。バイトの後、サークルの準備あるから」
「遅くなるのか」
スニーカーの紐を結ぶと、すみれが振り向いた。「出前でもなんでも晩ご飯、一人で適当にね。私は食べてくるから」
ピタリとしたスキニーデニムに、シンプルな黒の長袖Tシャツがきょうのコーデだ。首元が広めに開いたラウンドネックで、ゆったりした裾にある二つの破れ穴がアクセントになっている。白いカーディガンを羽織っているから目立たないが、Dカップのバストが胸の部分を押し上げ、身体のラインが綺麗に浮き出ていた。
「またボッチ飯か」と苦笑いした文彦が声をかける。
「あんまり遅くなるなよ」
「はーい」
黒のキャップをかぶり直すと、嘘ついてごめんなさい、と歩きながら文彦に詫びた。
(純平と付き合うきっかけを作ってくれたのはお父さんなのに、本当にごめん)
しかし、自然に出る鼻歌は抑えきれない。バイトの後は、三週間ぶりのデートなのだ。
あれは運命だった。すみれは今でも、そう思っている。
水嶋純平と出会ったのは、入学直後のゴールデンウィークに行われた合同合宿だ。純平は文嘉大手話研究会の新入生だった。親戚に聴覚障害の同い年の女の子がいて、何とかコミュニケーションを取りたい、だから小学校のころから手話を始めた、初めて会話が通じた時の相手の笑顔が忘れられません――。初日の自己紹介が心に響いた。
翌日はすみれの誕生日だった。一年生同士で組まされた会話練習で、その純平とたまたまペアになったのだ。相手の目を見て手を動かす純平に見つめられ、自分でもはっきりと分かるくらい鼓動の高まりを感じた。
女子校育ちだが、さばさばした性格だからか、昔から男子ともフランクに接してきた。なのに、純平には素直に話しかけられない。
(何なの、この気持ち……)
合宿が終わってから、思い切って美咲に相談すると、「水嶋くんのこと好きになっちゃったんでしょ」とあっさり言われ、自分でも驚いたものだ。
(これが人を好きになるってことなんだ)
私学の雄と言われる文嘉大は、OBの結束が固く、金融機関や商社への就職に強いことでも知られる名門だ。最近は司法試験合格者や中央官庁への採用も急増。中でも純平が進んだ政治学部は私大文系で最難関の偏差値を誇る、通称「文政」と呼ばれる、文嘉大の中でも特別な存在だった。
二人の距離が縮まったのは、夏休みに訪れた千葉県の施設での絵本読み聞かせ会だった。帰りの電車で純平の方から声をかけてきたのだ。そのころのすみれは、意識するあまり、目も合わせられなくなっていた。
「西巻さんのお父さんって、西巻メソッドの西巻文彦先生なの?」
「え? あ、うん」
胸がドキドキしてきた。
「やっぱりそうなんだ。俺、西巻先生の参考書のお陰で苦手だった英語がなんとか人並以上になったんだ。文政に受かったのも、英語でつまずかなかったからだと思う。すっごい感謝してる」
いきなり頭を下げる純平に、慌てて手を振った。
「私じゃなくてお父さんだから」
その瞬間、目の前に純平の顔が現れた。
(近い!)
でも目が離せなかった。それから何を喋ったのか、よく覚えていない。
後になって、降りるまでの三十分、ずっと二人で話していたと美咲から聞かされた。
駅からの帰り道、すみれを見た人は不審に思っただろう。ニヤニヤしながら、お父さん、ありがとう! とガッツポーズを繰り返していたのだから。
告白されたのは十月の半ば、やはり読み聞かせの会に行った帰りだった。美咲に「仲良いね」と冷やかされながら、いつものように他愛もない話をしていた。
すみれは大抵、聞き役だった。大学受験まで東京に来たことがなかったこと、高校時代は吹奏楽部で指揮をしていたこと、好きだったアイドルが十七歳も年上のお笑い芸人と電撃婚した時は高校を二日休んだこと、すみれより背が二センチ低いと知ってショックだったこと。と、純平が急に真面目な顔になった。
すみれを指さすと、右手の親指と人さし指を開いてのどに当てる。その手をスーッと降ろして指を閉じた。
「え?」
一瞬何のことか分からなかった。純平はもう一度同じ動作を繰り返す。
(ああ、手話か)
手の動きを思い出してみる。
(指をさしたのは、あなた、だっけ。指を降ろして閉じるのは……え?)
すみれはようやく理解した。
(あなたが、好きです)
手話で応えようと思ったが、頭が働かない。頬が熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
(早く、返事しなきゃ)
気ばかり焦り、なんて言えばいいのか思いつかない。
咄嗟に口をついて出たのは「いただきます」だった。
「西巻さん、それって……OKってことでいいの?」
不安そうに見つめる純平に、すみれは無言で何度も頷いた。
西巻さんがすみれになり、水嶋くんから純平と呼び捨てになるまで、そう時間はかからなかった。去年のクリスマスイヴ、文彦が英語学習の講演で家を空けたその夜に、二人は初めて結ばれた。痛みはあったが、それより好きな人と一つになれた幸せの方が大きかった。
今でも、告白された時のことを純平にからかわれる。
「俺、断られたらどうしようって、すっごい不安だったんだから」
「私だって初めてだったんだよ、コクられるのなんて」
すみれはむくれたように言い返す。
こののろけ話を何度も聞かされ、そのたびに「ごちそうさま」と爆笑する美咲だけが、二人の交際を知っていた。
「美咲、お願い。お父さんには絶対内緒だからね」
「分かってるって。奥手なすみれに初めて来た春だもんね」
中等部で同じクラスになってから、付き合いはもう七年を超えたが、美咲はいまだに掴みどころがない存在だ。相談には乗ってくれるが、こと自分の恋愛話は一切話さない。特に大学に進んでからは、はぐらかされることが多くなった気がする。一度それとなく聞いてみたが、「全然、何にもないよ」と一笑に付された。
ま、いっか。ちょうどホームに入ってきた快速列車に乗り込むと、すみれはスマートフォンをチェックし始めた。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる