疲れたあなたの背中をそっと押すサプリ、あるいはプラセボ

しかまさ

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2010年作品

料理三昧の日々?

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 子供の頃から、俺にはずっと憧れていた職業があった。
 おやじの経営している土建屋の寮が、遊び場だった俺にとって、その裏にある食堂は聖域だった。
 夕方、寮の前の庭で姉や友達たちと遊んでいると、裏手からとてもいいにおいが漂ってくる。ついついお腹が鳴り、鼻がヒクヒクと匂いの源を捜し求める。
 そんな時、まわりを見回してみると、姉たちも同じようにしているのが滑稽だった。
 で、みんなで笑いあい、今日のメニューはなんなのか、言いあてっこしながら、食堂へ向かい、炊事場の窓から覗く。すると、決まって中で調理している近所のおばさんが俺たちに気がついて、調理中のものを味見させてくれるのだった。
 その味が、すごかった。
 今から思えば、取り立てて技巧を凝らした料理ではなかったのだが、ただ、寮に住んでいる二十人近くの若者へのまかない。量が半端ではない。
 大量の食材を煮立て、炒め、焼く。大量の食材からうまみがあふれ出して、どんなものでも美味しくならないはずはなかった。
 普段、俺たちが口にしている母が作る家庭料理よりも格段にうまかった。
 そう、俺は調理している魔法使いのようなおばちゃんたちに憧れていた。
 魔法使いのおばちゃんになりたかった。



 でも、おれは家業の土建屋の跡取り息子。
 いくら憧れていたとしても、調理師になんかなれない。
 俺が継がなければ、四十数人いるおやじの会社の従業員たちが路頭に迷うことになる。
 あきらめるしかない。
 だから、俺は趣味としてのみ料理を作るようになった。
 家族のために、晩ご飯の支度をしたり、日曜日にケーキやクッキーを焼いたり。
 でも、そんな俺の姿を見るたび、おやじは不安になるのかして、不機嫌そうにしていたっけ。



 俺が、大学の建築科に入り、一人暮らしを始めたのは、本当のところ、一人で思う存分、料理をしたかったから。
 おやじの不機嫌そうな顔を見ることなく、心置きなく、うまい料理を研究し、作り、食べたかった。
 俺の学力なら、十分に家からの通学圏にある地方の国立大学に入れたが、そんな目的があったから、猛勉強して、都会の私立大学へ進学した。
 そして、好きな料理を好きなだけ作ることが出来る幸福な日々が訪れるはずだった……



 大学でいよいよ授業がはじまる日の朝、先に俺が乗っているマンションのエレベータに、後から慌てて乗り込んできた女がいた。
 かなりの美人。
 俺、思わず見とれてしまった。
 一階に着くと、無遠慮にジロジロ見る俺に、咳払いして、その女は足早に歩いていったが、どういうわけか、俺の大学の方への道をとる。
 心の中で、ラッキーとガッツポーズをしつつ、その女の揺れる尻を眺めながら、のんびりと後をついていく。
 通りを右に曲がり、左に折れ、歩道橋を渡って。
 女、なんども後ろを確認するのだけど、そのたびに俺が後ろにいるのを見て、しだいに顔色が青ざめていった。
 そして、大学の門の見えるところで、とうとう駆け出した。
 門の横に立っている守衛に駆け寄り、俺を指差す。

「助けてください! ストーカーです!」

 たちまち、人だかりが俺の周りに出来、守衛が俺を取り押さえる。

「い、痛い! ち、違う! 痛いったら! 違うんだって、たまたま同じ方向だっただけで…… だから、痛いって!」

 俺の抗議の声もむなしく、そのまま守衛室に連れ込まれてしまった。
 結局、俺が守衛室から解放されたのは、それから二時間ほどしてからのことだった。
 俺のカバンの中に入っていた学生証を照合し、俺とあの女が同じマンションの隣室同士だってことを確認して、疑いが晴れた。
 おかげで、一時間目の授業は初日から欠席になってしまった。



 二時間目の授業、俺が教室に入った途端、何人かの生徒が俺を指差して、ヒソヒソと耳打ちしあっているのが目に入った。
 かすかに朝のストーカー男だとかなんとか言っているのが聞こえる。
 もしかしたら、朝の騒動、もう学校中に知れ渡っているのかも知れない。

 俺は、このまま学校中から、ストーカー男のレッテルを貼られて、大学生活を送る羽目になるのだろうか?

 背筋が寒くなった。
 何も気づかないふりで、俺は教室の空いている席に座り、真っ白なノートをテーブルに広げていると、すぐかたわらで、ハッと息を飲む気配がした。
 何気なく、そちらを見ると、通路を挟んで朝のあの女が青ざめた表情で俺を見ている。
 俺と目が合った途端、何を思ったか、立ち上がって、教室中に聞こえる声で叫びやがった。

「助けて! ストーカーよ! ストーカーがいるわ!」

 また、俺は守衛室に連行されてしまった。ただし、今度は、美人にいいところを見せようとした男子生徒たちに、殴られ、蹴られして、体中をあざだらけになって。



 結局、その女の誤解が解けたのは、昼食の後だった。
 その女のせいで、二回も拘束され、学校中でストーカー男とあだ名され、噂された。午前中の授業も満足に受けることが出来ず、体中にあざをこしらえさせられた。
 散々な一日だった。
 あの女は、学部長に呼び出され、俺が女と同じ建築科の新入生で、たまたまマンションの部屋が隣同士なだけで、朝、後ろをついてまわったのも、そのせいだと説明されて、ようやく自分の誤解に気づいたみたいだった。
 なんども『ごめんなさい』と謝ってくれたのはいいのだが……



 その日の夕方、痛む体で冷蔵庫の中を物色し、入っている食材で調理可能な今晩の献立を考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
 玄関を開けるとそこに立っていたのは、あの女。皿に入ったなんだかえたいの知れないモノを抱えている。

「これ、食べてください! 今日は本当に、ごめんなさい」
「なに、これ?」
「お詫びのしるしです。きのこと貝のパスタです。生まれて初めて作りました。どうか、食べてください」
「え? あ、ありがとう……」

 どうやったら、パスタがペースト状になるのだろう?

 そういう疑問が数々浮かんだけど、相手の(特に美人からの)好意だから、ありがたくいただくことに。
 食卓について、一口、口に含んだ途端、俺、ひっくりかえった……



 それ以来、毎日毎日、隣の女が夕食を差し入れてくれたり、最近では、部屋に上がりこんで料理までしていく。だが、一向にその腕が上達しないのは、どういうわけなのだろうか?

 もしかして、これは好意に名を借りた嫌がらせなのでは?
 そして、俺のあこがれの料理三昧の日々はどこへ行ったのか?

 同級生たちは、あの美人が毎日押しかけて料理を作ってくれるなんてってうらやましがるけど、俺にとっては……

 あぁ……
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