疲れたあなたの背中をそっと押すサプリ、あるいはプラセボ

しかまさ

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2010年作品

この町の十分の一

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 やっちまった……

 俺は、むしゃくしゃした気分で歩き回っていた。妻と喧嘩したのだ。
 いつもの散歩コースの曲がり角を、曲がらずそのまま直進し、いくつかの角を気のむくまま曲がり、今は一度も足を踏み入れたこともない通りを歩いている。
 通りに面して、本屋や雑貨店、喫茶店などなど、知らない店が並んでいる。
 もちろん、すでにここがどの辺りかなんて、俺には全然分からない。そう、俺は今迷子だ。
 スマホは、家を出るときに置いてきてしまったし、通りがかる人を捕まえて道を訊こうにも、あいにくだれも歩いていない。
 さっきから俺は、この辺りの案内板か交番でもないか、キョロキョロ探しながら歩いていた。でも、そんなものなど、どこにもなかった。



 日曜の午後、妻が康太郎のおしめを替えている横で、俺はゴロゴロ寝転がって、テレビのゴルフ中継を眺めていた。別にゴルフに興味があるわけではない。ただ、ヒマだったので、たまたま映ったチャンネルをそのままにしていただけ。
 ふっと見ると、妻がこちらをにらんでいる。
 かなりカチンときている表情。
 俺は、慌てて起き直り、おそるおそる妻の顔色を伺いながら、

「あっ、おしめ替えるの手伝おうか?」

 でも、この場では俺は間違った言葉を選択してしまったようだ。妻の表情がますます険しくなっただけ。
 俺は手を伸ばして、おしめの袋を取ろうとする。でも、その手を妻は邪険じゃけんに払いのけた。

「いいわよ! 触らないで! もう終わったから」
「そ、そっか? なにか、他にも手伝おうか? 遠慮なくいってくれ?」

 下手したてにでた俺を鬼の表情でにらみ、

「なによ、それ! なんで『手伝おうか?』なのよ? あなただって康太郎の親なんでしょ? さも私が育児をするのが当然みたいに言わないで!」
「なんだよ! 俺がいつ、お前が育児するのが当然なんていったよ! ただ、お前が疲れたような顔しているから、親切で手伝おうとしただけだろ!」
「それがおかしいのよ! どうして、手伝うのよ? あなたも親なんだから、康太郎の世話をもっと積極的にするのが当然でしょ? それをテレビの前でゴロゴロしちゃって! 頭にきちゃう!」

 あとは、いつものお定まりのパターン。妻が一方的に不満をぶちまけて、俺に口を挟む機会を与えたりはしない。
 俺はただ黙ってそれを聴いているしかできない。いや、ただ聞き流しているだけか……

「私のことなんか、なにも知ろうともしないくせに、偉そうなこと言わないで!」

 最後に、妻の相手をあきらめテレビに見入るフリをしている俺の背に、そう言い放って、妻は康太郎を昼寝させに連れ出した。
 それから、俺は散歩に出、そして、今、迷子になっているのだ。





 見も知らない通り、見も知らない店。
 俺たちがこの町に引っ越してきたのは、康太郎が生まれる前だから、かれこれ二年近くなるのだろうか?
 その間に、俺は家と駅の間を毎日往復し、近所のスーパーやコンビニに買い物へ出かけ、すこし離れた市役所へでかけたぐらい。あとは、川の土手の上のいつも決まった散歩コースをグルグル……
 よく考えたら、俺が知っているこの町はそれだけしかない。
 この町の十分の一も知らないのではないだろうか?

 この二年間で、たったそれだけ……

 俺は愕然がくぜんとした。二年間もこの町で過ごしているというのに、知っているエリアは家の近所のほんのちょっとだけ。
 俺は、俺は、いったい今までなにをやってきていたのだ!
 なにを見、なにを感じてきたというのだ!
 俺は、この見も知らない通りで、呆然とたたずんでいるしかなかった。



 ふっと、なにか店のひとつで影が動いたような気がした。
 その方向を見ると、大きな真っ黒い猫が一匹。悠然とシッポを振っている。
 その猫は、俺が見ているのに気づくと、大きな口をあけて、

 にゃぁぁ~~

 一声鳴き、シッポをピンと立てて、ゆっくりとその場をはなれていった。
 なぜか猫に笑われたような気がする。

 道に迷い、途方に暮れている俺を笑ったのか?
 今頃、俺がなにも知らないってことに気づいたことを笑ったのか?

 俺は、左手で髪をかき上げ、首を振った。
 頭の中に空っぽな音が響いていたような気がした。
 ふっと、頭の中にも影がよぎる。
 すぐに思い出した。
 初めて妻に出会ったのは、五年前の喫茶店。
 商談で相手先に出向くことになったのだが、約束の時間より、かなり早く到着してしまった。だから、たまたま目に飛びこんできた喫茶店に入り、時間をつぶしていた。
 大してうまくもないコーヒーをすすっていると、すぐ隣のだれもいない座席から着信音が。
 黒猫のストラップ人形がついたスマホがあった。どうやら忘れ物のようだ。
 しばらくそのままにしていたのだが、しつこくベルが鳴り続けるので、手にとって、出たものかどうか迷っているとき、背後から声をかけてきたのが妻だった。
 そのスマホは妻のものだった。

 そうか、あの黒猫を見たせいで、妻との出会いを思い出したのか……

 それから、次から次に、いろいろなことを、ひさしぶりに思い出した。
 その後、商談にすこし遅刻したこと、初めてのデートのドキドキ感。お互いの好意を確かめ合ったドライブ。今となっては原因すらも思い出せないような初めての喧嘩。
 俺は、押し寄せる思い出に、ただ圧倒されていた。
 なつかしく、切なく、甘酸っぱく、息苦しい。
 さまざまな思い出が俺を圧倒し、俺のかたわらを流れていく。
 ふっと思った。

 今まで、どうしてこんなたくさんの思い出を忘れていたのだろう?
 日々の忙しさにかまけて、どうして思い出そうとしなかったのだろう?
 あの不安や喜び、感動を!
 そして、俺と同じように、妻もそんな思い出たちを忘れてしまっているのだろうか? それとも、たまには思い出して、味わっているのだろうか?
 もし、そうなら、どんな風に?
 今でも俺と一緒になったことを幸せだと感じていてくれるのだろうか?
 俺と出合ってよかったと思っているのだろうか?

 さまざまな疑問が頭の中に浮かび、それぞれに対しての答えを、俺は……しらない。



 俺は、雑貨店の店先で売られていた猫の髪留めの包みをもって、家路へと急いでいた。
 雑貨店の女主人に道を教えてもらったから、もう大丈夫。
 二年間住んできたこの町を十分の一も知らないように、五年間同じ時間をすごしてきた妻についても、知らないことだらけ。

 俺はいったいなにをやっていたのか……

 でも。
 すでに、自分が知らないってことには気づいた。あとは、知らないなら、知ろうと努力すればいい。
 あの大きな黒猫が、そう笑っているような気がした。
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