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1巻
1-1
しおりを挟む序章
「あれ、さっきもここ通った……」
腕にカゴを提げた赤毛の少女は、ぐるりと周囲を見回した。森に木の実を採りに来たはずが、気がつけば見慣れた風景が一変している。
森は村の近くにあり、少女が普段からよく遊んでいる場所だ。しかし、どこまでも広がる深い森は『魔界』に通じているという伝説があり、大の大人でも決して深入りしないように村で戒められている。少女も気をつけていたはずが、八歳とまだ幼い彼女は夢中で木の実を探しているうちに、森の奥に足を踏み入れてしまったようだ。
人の手がほとんど入っていない原始の森は、道らしい道もない。
鬱蒼と生い茂った雑草は、降りはじめた雨を受けて、ぐんぐん成長していくかに思えた。まるで、少女を森の中に閉じ込めるための檻を作るように。
さまよい歩くうちにしっとりと身体が濡れ、不安に胸が押しつぶされそうになったとき、ガサッと何かが動く音が聞こえてきた。続いて、獣の低い唸り声。
その獣は彼女を標的として捉えたことを知らせるように、短く咆えた。逃げてみろとでも言わんばかりだ。
小さく悲鳴を上げた少女は小走りでその場から離れようとしたが、木陰に黒い陰を見つけて、立ち止まった。
「犬……?」
木々の合間からゆらりと現れたのは、犬というには桁外れの大きさの獣だった。体高は大人の身長をも凌ぐ。
『この森は、魔界に続いている』
それは、不用意に森の奥に入らないようにするための脅し文句だと思っていた。だが、目の前の獣を『野犬』という言葉で片づけるのは無理がある。いくら何でも、こんなに巨大な犬は人間界に存在しないだろう。
(魔界の――犬?)
少女は見たことがなかったが、世の中には『魔獣』と呼ばれる、魔界からやってきた獣が存在するらしい。魔獣は人も家畜も見境なしに襲い、その肉を喰らうのだ。
その淡い灰色の毛並みの獣――魔犬は鼻に皺を寄せ、低く唸りながらゆっくりと少女に近づいて来た。獲物を恐怖ですくませるように身体を低くし、今にも襲いかかってきそうだ。
淡青色の瞳を見開き、目の前に迫る魔犬を声もなく見つめた少女は、ごくんと息を呑んだ。
やがて、太い前脚が雑草を踏みつけ、彼女に向かって飛びかかろうとした――そのときだ。
「なんてきれいなわんちゃん……」
魔犬が襲いかかるよりも早く、少女は駆け寄っていた。そして、自分の頭よりはるかに高い位置にある顔を見上げ、遠慮なくそのふさふさした毛並みに触れる。
「とてもかっこいいのね、わんちゃん。こんなに凛々しい顔をした子を見るのははじめて。それに、毛並みもとってもきれいね。どうしたの? 人間界に迷い込んじゃったのかな?」
森に迷い込んだのは少女のほうなのだが、「いいこ、いいこ」と、牙を剥き出しにしている魔犬を容赦なく撫で回す。
魔犬のほうは意表を突かれたようで、硬直してされるがままになっていたが、少女を喰らう気が失せてしまったのか、くるりと向きを変えて彼女に尻尾を向けた。
「わあ、尻尾ふさふさ! やわらかーい!」
垂れ下がった長い尻尾に彼女が触れたとき、魔犬はその場から駆け出した。
「あ、待って。おねがい、ひとりにしないで!」
少女は魔犬のあとを追って走り出していた。魔獣は恐ろしい存在だが、理知的な目は少女の言葉を理解しているように見えたのだ。たとえ相手が魔獣であっても、迷いの森の中にひとりきりでいるより、話の通じるかもしれない相手といるほうが心強かった。
そうして魔犬を追っていると、急に空気が重たくなったように感じた。ほんの一瞬だったが、水の中を歩いているみたいな抵抗感が全身を包む。
そんな違和感に気を取られたとき、突然、足元の地面が消失した。
枝葉に隠れて見えなかったが、少女がいたのは切り立った崖のすぐ側だった。地面が崩れて、少女の身体は真っ逆さまに落下していく。
「きゃ……!」
天地が逆になった少女の視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる樹海にそびえる、一本の巨木だった。頂点が雲に隠れるほど高くて、まるでこの世界を支配する神のように見えた。
(こんな大きな樹があったなんて……)
そう思ったのを最後に、意識はぷつりと途切れた。
あたたかい毛布に包まれて目覚める幸せを感じて寝返りを打ったが、頬に当たった一粒の滴が少女を現実に呼び覚ます。
目を開けたら灰色っぽい毛並みがそこにあった。思わず手で撫でると、とてもふわふわしていてやわらかく、心地いい。まるで、雨に濡れて冷えた身体をあたためてくれるようだ。
「きもちいい……」
あまりにその感触が手に馴染むので、少女はすりすりと撫で続けて顔を埋めた。
「グルル」
だが、機嫌の悪そうな獣の唸り声を聞いて、少女は目をまん丸にして飛び起きる。目の前にあったのは、大きな鼻面だった。
「わんちゃん……?」
すぐ傍にいたのは、さっきの魔犬だったのだ。今まで彼女が眠っていたのは、この魔犬の腹の上だったらしい。
「……助けてくれたの?」
そう問いかけるも魔犬は興味なさそうに丸くなる。おかげでふたたび腹の辺りに巻き込まれたが、その毛並みの感触についつい笑みをこぼしてしまった。
少女は、耳の付け根あたりのやわらかい毛をさすり、その頭を撫でる。だが、魔犬は耳を寝かせたままで、ふさふさの尻尾を「うるさい」とでも言うように振った。
それでも、雨に濡れた少女をあたためてくれているのだから、やさしい犬なのだろう。
ふと周囲を見回すと、少女と巨大な魔犬は大樹の根元にいた。さっきまでは深い森の中にいたはずなのに、ここはずいぶん開けた場所で、辺りには雨にしっとり濡れた花々が咲き乱れている。
幹の太さが尋常ではない巨木は、どこまでも天高くそびえたち、終わりが見えない。
「ここ、どこなんだろう……」
いつの間にか、とてつもなく遠い場所に迷い込んでしまった。見たこともない光景に一瞬、鼻の奥がツンと痛んだが、泣き出すより先に、空腹のあまり腹の虫が鳴り出していた。
「そうだ、悲しいとか怖いとか、いやな気持ちになったときはまずお腹いっぱいにしろって、お母さんがよく言ってたんだ」
魔犬に話しかけながら、少女は崖から落ちる時も手放さなかったカゴを開け、中からサンドイッチを取り出した。
「これ、私が作ったの。わんちゃんも食べる? 魔界にもサンドイッチってあるのかなあ」
魔犬は少女の差し出すものを警戒するように見つめていたが、彼女がおいしそうに食べて見せるので、興味を抱いたらしい。鼻をひくひくさせて匂いを嗅ぐと、その大きな口には小さすぎるサンドイッチにぱくつく。
「私ね、お料理が大好きなの。死んだお母さんが料理好きで、いろいろ教えてもらったんだ。いつかお母さんみたいにお店を持つのが夢なの。でも……ここから帰れるかわからないよね……」
少女の独り言は次第に尻すぼみになっていった。魔界に続く森で迷子になったということがどういう意味を持つのか、八歳の少女にもいやというほどわかったからだ。
そうやって落ち込んでいる間にも、魔犬が少女の手元に視線を向けたので、サンドイッチをもうひとつ口元に差し出してやると、今度は味わうように何度も噛みしめる。すると、寝たままだった耳がピンと立って、長い尻尾がゆさゆさと揺れはじめた。
「気に入ってくれた? お母さんは、誰かが喜んで食べてくれるのがうれしいってよく言ってたけど、喜んでもらえるとほんとにうれしいね!」
少女の言葉を聞いているのかどうか、魔犬は立ち上がるとブルブルと身体を振り、雨の滴を払い落とす。そして少女の足元にうずくまると、「乗れ」と目で指示した。
「乗ってもいいの?」
恐々と背中によじのぼると、魔犬はその大きな身体からは想像もつかないほど身軽に走り出す。どんどん景色が流れていき、少女は振り落とされないようしがみつくのが精一杯だった。
ふと魔犬が立ち止まり、背中から降ろされると、そこには馴染みのある景色が広がっている。少女の住む村に続く、森の出口付近だったのだ。
「え、送ってくれたの……?」
森の景色から魔犬に視線を戻すと、その姿はもうどこにもない。
結局、お礼も言えずじまいだったが、少女――ルゥカにとって、この雨の日の出来事は、決して忘れることのないあたたかな記憶となった。
第一章
食事の時間が終わり、侍女たちが調理場へ引き揚げてくる。
「今日は陛下も殿下も、お肉の塩加減をお褒めくださいましたわ」
給仕をしていた侍女がそう報告すると、調理場で働く人々の顔が晴れやかになった。
「そうか! 今朝はルゥカが塩抜きを担当してくれたんだったな。よくやったぞ」
「ありがとうございます、料理長。みな様に喜んでいただけてうれしいです」
だが、今日の成果を噛みしめる暇もなく、調理場はあわただしさを取り戻していく。料理長は残された料理の味を再確認し、ああだこうだと独りごち、次の料理の研究に余念がない。
何しろこの国を治める王家に、料理を振る舞わなければならない――そう、ここはエヴァーロス王国の王宮調理場なのだ。
生真面目な料理長の呟きに耳をそばだてながら、ルゥカはせっせと皿洗いに勤しむ。料理人見習いの彼女は、毎日早朝から夜遅くまで忙しいが、料理は好きだし、俸給はいいし、ルゥカにとっては願ってもない職場だ。
「さあ、そろそろ休憩にしよう。今日のまかない当番はルゥカだったな」
料理長の言葉に、調理場の面々に喜色が広がった。
「ルゥカの作るまかない、本当においしくて大好き」
「陛下にお出ししてもいいんじゃないかい?」
同僚たちに称賛され、すでに仕込んであった鍋を火にかけながらルゥカは照れ笑いを浮かべる。
「ありがとうございます。でも、私の料理は田舎料理ばかりですから……とても陛下にだなんて」
「いやいや、故郷の母の味を思い出すよ。この肉団子のシチューは料理長のお墨付きだ」
「そう言っていただけると、ほんとにうれしいです。このシチューは母の十八番だったんです。あ、それから料理長! 昨日、市場で珍しい香辛料を見つけたんです。独特でさわやかな香りがとっても良くて。試してみたら、お肉の臭みがとれて、すごくやわらかくなったんですよ。それから……」
ルゥカが料理のことを語りはじめると、誰にも止めることはできない。調理場の人々は顔を見合わせると、苦笑いを浮かべた。
「さあさあルゥカ、その話はあとでゆっくり聞くから、まずは食事の支度をすませてしまおうじゃないか」
「す、すみません。すぐに用意します!」
一仕事終えたあとの調理場に食欲をそそる香りがただよい、あわただしい空気を日常のゆったりした空間に戻していく。調理場の面々は席に着き、ルゥカがつくったシチューをおいしそうにほおばった。
「あ、ほんとだ。お肉がいつもよりやわらかいな」
「ですよね!? 外国の隊商から買ったんですけど、まだまだ知らない食材がたくさんあって、見てるだけでも楽しくなっちゃいます。他にもいろいろ買い込んできたんですよ、お魚のペーストの瓶詰とか、野菜の酢漬けとか! おいしく食べる方法を研究するので、味見してくださいね」
料理好きだった亡き母の影響もあり、ルゥカの料理への情熱は他の追随を許さない。そして、城の調理場という職場では、たくさんの助言や発想を得ることができる。毎日が楽しくて仕方なかった。
「へえ、これがルゥカのお母さんが遺したレシピ集か。ずいぶんと細かく書いてあるなあ」
「いつも持ってるんだ? まるで聖典だね」
ルゥカの宝物でもある母のレシピ集をポケットから取り出すと、料理長がめくり、同僚たちも興味津々でのぞきこんだ。几帳面な字がびっしりと書き込まれており、盛り付けの図解まである。
「この煮込み料理おいしそう!」
「こっちの豚肉のオーブン焼きも絶対おいしいって」
「へえ、ルゥカの故郷ではキノコをこんなふうに調理するんだ。今度試してみようかな」
そんな平和な日常に、ルゥカはしみじみと幸せを噛みしめた。
「ごちそうさま、今日もおいしかった。そうだルゥカ、夕食の仕込み前に食糧庫に行って、足りない調味料を持ってきてくれるかい?」
「はい!」
補充もルゥカにとっては楽しみのひとつだ。食事を終えると、いそいそとカゴを持って裏庭に面した食糧庫へ赴いた。
「ええと、お砂糖が少なかったのよね――コショウとお塩、お酢、それから小麦粉……」
王宮の食糧庫らしく、棚にはありとあらゆるスパイスや調味料、貴重な砂糖や保存の利く食材などがぎっしりと備蓄されていて、眺めているだけで心が躍る。故郷の寒村では見たこともなかった高級な食材は、手に取ると今でも緊張するほどだ。
大きなカゴいっぱいにそれらを詰め込むと、調理場へ取って返す。近頃では、メインの料理を任されることもあり、自信がついてきた。ルゥカの生活は順風満帆そのものだ。
十年以上前に亡くなったルゥカの母は、故郷の村で唯一の食堂を営んでいて、女手一つでルゥカを育ててくれた。
父親は、物心がつく前に事故で亡くなっていたのであまり覚えていないが、母はルゥカにたくさんのものを遺してくれた。その最たるものが、今日のルゥカの財産である料理だ。
母はもともと身体が弱く、自分亡きあとのルゥカの将来を心配していたのだろう。自分が持っているものを少しでも一人娘に遺そうと、家庭料理や店で出していたメニューなど、たくさんのレシピを雑記帳に書き綴っていた。
そんな母もルゥカが八歳になったときにとうとう亡くなり、天涯孤独となった彼女は村長に引き取られた。その後、形見となったレシピ集を見ながら懐かしいあの味に近づけようと必死に料理を勉強していたら、いつしかすっかり料理好きになっていたのだ。
こうして成長したルゥカが王城の調理場で働くようになったのは、今からちょうど一年前のことだった。
生まれてはじめて村を出て、数日の宿泊予定で王都へ遊びに来たが、そこはルゥカが今まで見たこともない食材や調味料、たくさんの料理であふれている魅惑の街だったのだ。何日滞在しても飽きるどころか、ここに住みたいとさえ思ったほどだ。
すっかり王都に心酔していたとき、城の調理場で下働きを募集していると聞きつけたルゥカは、一も二もなく飛びつき、信じられないことにその場で採用されるという幸運に巡り合った。
育ての親たる村長に事情を伝えると「ルゥカの料理が食べられなくなるのは残念だよ」と惜しみながらも快く送り出してくれた。
それ以来、城の下働きとして皿洗いや野菜の皮むきといった地味な仕事を嬉々としてこなしてきた。そんなルゥカの、料理へのただならぬ情熱に感心した料理長が、少しずつ調理に携わらせてくれるようになったのだ。
いつかたくさんの料理を覚えて一人前になったら、どこかの街で料理屋を開くのが彼女の夢だ。そして、それはまだ十八歳のルゥカにとっては実現する見込みの高い、現実的な将来設計だった。
――しかし、そんなルゥカの行く手に、この日、暗雲が垂れ込めたのである。
カゴを持って食糧庫を出たとき、城のどこかから人々の混乱した悲鳴が上がる。驚いてそちらを見つめると、破壊音を轟かせて城の上階部分の壁を突き破り、城内から何かが外へ飛び出してきた。
呆然とそれを見つめるルゥカの耳に届いたのは、「魔獣が外へ逃げたぞ!」「下に人が!」という衛兵たちの怒声だ。
「え……?」
戸惑うルゥカの前に、激しく風を巻き上げながらそれは降り立つ。
顔は人間によく似ていた。だが、眉はなく感情のない目、鼻には深い皺が走り、歪んで横に広がった口からは長く巨大な牙がのぞく。身体を覆う毛は獅子に似て、不安を誘う黒ずんだ赤色だ。身体は四つ足で前脚は太く大きい。その鋭利な爪で引き裂かれたら、人間など一撃で即死してしまうだろう。背中の醜い瘤からは不気味な翼が生えている。それは、ルゥカを威嚇するように翼を大きく広げた。
「ひっ」
正視すればするほど奇怪で、醜悪で、おぞましい魔獣だ。尾はまるで巨大な蠍だが、くねくねと蠢くそれは一本ではない。何本も絡み合いながら、ルゥカに禍々しい先端を向けてくる。
(殺されるの……?)
逃げ場などなかった。ルゥカはカゴを抱きしめたまま、へなへなとその場に崩れ落ちる。
恐怖も、あるラインを越えてしまうと、悲鳴すら出てこなくなるらしい。その上、蛇ににらまれたカエル同様、視線は醜悪な魔獣に固定されてしまい、動かすこともできないのだ。
地の底から湧き上がるような唸り声と共に、爪を出したままの前脚がルゥカに近づいてくる。衛兵が魔獣に向けて矢を放ったようだが、たくさんの蠍の尾があっさりとそれを払ってしまい、一本の矢すら魔獣の身体には届かなかった。
魔獣は一度だけ背後を振り返り、攻撃を仕掛けてくる人間たちを一喝するように咆えて彼らの戦意を一瞬で喪失させると、あらためてルゥカに近づく。
まだ小さかった頃、ルゥカは故郷の村の森で魔獣と出会ったことがあった。だが、あの灰色の魔犬はこんなに凶悪な姿かたちはしていなかったし、結局彼女を襲うことなく村へ送り届けてくれたのだ。
だが、今ルゥカの前に現れた魔獣は、あの遠い記憶の中の魔犬とは似ても似つかない。理知的な様子などなく、本能のままに行動している。
大きく広げられた翼の影が彼女の上に落ち、視界が真っ暗になった。ルゥカは呼吸することも忘れて恐ろしい魔獣を見上げ、首を左右に振るばかりだ。
大粒の涙がぽろりとこぼれるが、魔獣に涙など通用するはずもない。
やがて、目の前で大きな口が開かれ、彼女の腕ほどもある太い牙が眼前に迫る。この鋭い牙とノコギリのようなギザギザした歯に噛み砕かれ、無残な屍を晒すことになるのだろうか。
「死にたく、ない……」
だが、ルゥカは恐怖のあまりこれ以上直視できず、目を閉じた。
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