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募る想いとうらはらに
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しおりを挟む朝陽が射し込む明るい台所。サンドラはそこに立っていた。
(あれだけ飲んでいたんですもの、きっと食事を作れるような気分にはなれないわよね)
キースの腕の中で目が覚めたサンドラは、ゆるくなったその腕から彼を起こさないようにそっと抜け、台所にまで下りてきていた。珍しく彼よりも先に目が覚めたので、こんなときくらい朝食の準備をしようと思い立ったのだった。
(しかし、何を作ったらいいかしら)
料理の手伝いも何度かしているのである程度の勝手はわかる。しかし、肝心の献立が浮かばない。
(それにしても、毎日違う献立を考えるだなんてキースさんは大したものだわ)
自分で作れるかどうかも考えの中に入れると、どうしても限られてしまう。
(生野菜をちぎって、適当に卵と干し肉を炒めて、パンを焼く、そんなのでいいかしら?)
包丁の扱いも得意ではない。ならばそれが最善かと思い、サンドラが動き出そうとしたところで、二階からドタバタという音が聞こえてきた。思わず顔を天井に向ける。
(起きた……のかしら?)
彼らしからぬやけににぎやかな足音は、キースの部屋のあたりからサンドラの部屋の方に向かい、そして階段を駆け下りてきた。
「サンドラっ!」
「お、おはようございます、キースさん」
青い顔をしたキースが台所に顔を出すなり呼びかけてきた。どうしてそんなに慌てていたのかわからず、サンドラはぎょっとした顔のままいつものように挨拶をする。
彼は無言でサンドラの前にやってくると、彼女の肩に手を置いた。何だろうと、不思議そうにサンドラは首を傾げる。
「どうか……しましたか?」
いつもの落ち着いた穏やかさは微塵もない。その違和感に思わず警戒する。
「昨日の続きをしよう」
真面目な顔でそう告げたかと思うと、キースは青かった顔をみるみるうちに真っ赤にして、サンドラの肩に手を置いたまましゃがんで顔を伏せた。
(昨日の……続き??)
サンドラもまたその台詞を反芻して、全身を真っ赤にする。
(昨日の続きって、昨日の続きですかっ!?)
酔った勢いは嫌だからと触れてもらえなかったことが脳裏を過ぎる。朝まで抱き締めてもらっていた感触が身体に宿り、キースの温もりがありありと蘇る。
「――あー……な、何口走って……」
項垂れたキースから自分の台詞に戸惑っているような声が聞こえる。サンドラはそんなキースをみて、不思議と落ち着きを取り戻した。そっと手を彼の頭に置いて撫でる。
「……相当動転していらしたようですね」
「は、はい……すみません……」
よほど恥ずかしかったのだろう。キースは顔を上げない。
「心配いりませんよ、キースさん。あたし、どこにもいきませんから」
言ってサンドラも屈み、キースの顔の高さを合わせて微笑みを浮かべる。彼はようやく顔を上げた。
まだ落ち着いていないらしい、いたずらが見つかってしまった子どもが母親の叱咤を構えて待っているような顔がそこにあった。歳に似合わない幼い表情が、とても愛しく狂おしい。
「お礼も言わずに姿を消すだなんて不躾なこと、あたしがするとでも思っていたのですか?」
「…………」
サンドラの問いにキースは口を開けて何かを言いかけたが、すぐに閉じてしまう。揺れる瞳が、サンドラの視線を拒むように床下に向けられた。
「そんなふうに思われていたなら心外ですわ。あなたに恩を返すまで、黙って消えるようなことはしませんよ。安心してください」
何も返してこない。まだ頭が回っていないのだろうか。
サンドラは返事を待っていられずに、キースの頭を引き寄せて胸に抱いた。母親が子どもを落ち着かせるためにするそれのように。
「あたしは今、ここにいます。まずはそのことをわかっていただけましたか?」
「……は、はい」
「そして、あなたに黙って去るようなことはしません。神様に誓います」
「…………」
返事がない。サンドラはきつく抱き締める。
「返事をしてください」
「……あなたの気持ちはわかりました」
「よろしい」
言って、サンドラはキースを解放する。サンドラから離れたキースは困ったように微笑んだ。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね……」
「いえ、気にしていませんけど。ただ、キースさんにもそういう面があるのだなと。それに……」
サンドラは頬をわずかに紅潮させると、右手を軽く握って自分の唇にそっと当てて視線をそらす。
「それに?」
何を言おうとしているのかわからなかったらしい。キースの不思議そうな声がサンドラの台詞を促す。
「さ……昨夜のこと、てっきり忘れてしまわれると思っていたので……その……」
言って、サンドラはもじもじとした。寝台に引き込まれたこと、馬乗りになって拘束されたこと、勢いあまって自分から変な告白をしてしまったこと、そのまま抱き締められて眠ってしまったこと――その一つ一つが脳内を駆け巡る。恥ずかしくて仕方がない。ちらちらとキースの様子を窺いながら、どうせなら忘れてくれた方がありがたかった、そんなことさえサンドラは思う。
「あ、あぁ……そうですね……酒で記憶が跳んだことは今のところないので……」
そしてキースは何か言いかけてはっとした顔をし、ぷいっと彼も顔をそむけた。
「な、なんですか?」
不自然なキースの様子に、サンドラはドキドキしながらその理由を問う。
「いや……とんでもないことをしてしまったな、と……強引に、その……恐い思いをさせたんじゃないかと思いまして。あのあとだったのに――」
あのあと。
キースの言う『あの』が、昨日の店でのことを指しているのに気付いて、サンドラは一瞬表情をこわばらせた。そして、意識して微笑みを作る。
「あまり酒にのまれない体質だと思っていたのですが、その過信がよくなかった。どうしてあなたはそんな顔をして僕に接することができるのですか?」
何かを求めるような、何かにすがるような、そんな瞳がサンドラに向けられる。
(……どうして、か)
その問いに答えることのできる確かな解は、サンドラの中で一つしかなかった。
「――あなたであるなら受け入れたい、そう思ったからですよ。だから、逃げたくなかったんです」
見つめ返し、そして笑顔を作る。安心させることができるように。
「あなた……広いですね……。何もない僕なのに」
(何もないですって? そんなこと……!)
視線を外す動きをしたキースに、サンドラはすぐに台詞を繋げる。
「卑屈にならないでくださいよ。あなたにはたくさん良いところがあるじゃないですか。誰にでも優しく接することができるところ、真面目で丁寧なところ、怒りに任せることをせず諭すことができるところ、自分の非を素直に認め頭を下げることができるところ、傷つけられたもののためにすぐに動くことができるところ……素敵な長所だと思いますよ?」
(あたしは、その一つ一つが好きなの。どうかお願い、何もないだなんて言わないで。その言葉は、あたしにはつらすぎる……)
「サンドラ……」
キースは呟いて、そして一度顔を下げ立ち上がる。
「すみません、サンドラさん。変なことをあなたに言わせてしまって」
言って、キースはいつもと同じ穏やかな笑みをサンドラに向けた。それを見て、サンドラは安堵する。もう大丈夫そうだ。
「あら、あたしは本当のことを告げたまでですけど?」
肩を竦めておどけて見せ、サンドラは立ち上がる。
「朝食、何がいいですか? 作りますよ」
「あ、あたし作りますよ?」
「僕を励ましてくれたお礼に。何でもいいですよ?」
サンドラが動く前にキースは準備を着々と始めていく。その手際のよさは惚れ惚れするほどで、動き出してしまった彼を止めてまで割って入るのは難しい。サンドラはぱっと浮かんだ献立を告げる。
「えっと……じゃあ、生野菜をちぎったものと、卵と干し肉を炒めたもの、温かいパンでお願いします!」
「了解しました。すぐに準備しますね。そこに座って待っていて下さい」
とんとんと拍子良く刻まれる包丁の音、ぱりぱりという生野菜がちぎられる音、卵と干し肉が鍋の上で油と共に炒められるじゅうじゅうという音。そしてこんがりとした美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐり始める。
こんな時間が永遠に続いたらどれだけ幸せだろうか、サンドラはキースの背を見ながらそんなことを夢想した。
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