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蒼き翅の乙女
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しおりを挟む(でも、どうしてあたし、あんな妙なことを……)
考えれば考えるほどよくわからない。記憶が戻ってきている感覚はなく、やはりこの場所に馴染みがあったようには思えなかった。
(どこか別の場所と勘違いしたのかしら……)
勘違いならまだ理解できるような気がした。全然違う場所とこの場所を混同させている、それは記憶喪失中の今ならあり得そうだ。
サンドラは町役場の建物に目を向ける。三階建ての木製の建物だ。丘の上まで続くほかの建物と同様に白い塗料で塗られており、屋根は茜色をしている。他のどの建物よりも大きく、古そうに感じられた。
(町役場……そういえば、アルベルトさん、言っていたっけ。キースさんの恋人の話が聞きたかったら町役場に来いと……)
あれからキースはサンドラを一人にするようなことはほとんどなかった。近くの住宅街に配達に行くときにさえつれて回るほどだ。寝る直前まで彼のそばからほとんど離れずにいたのにはやや過保護にも思えたサンドラだったが、彼の近くにいることに喜びを感じていた頃だったので嫌ではなかった。
(ずっと連絡を取っていなかったけど、怒っているかしら?)
アルベルトの強引さには嫌悪感があったが、だからと言って無視したり避けたりするほどのことではない。積極的に会いたいとは思えなかったものの、アルベルトの話にいくらか興味を持っていたのも事実だ。あんなことがあってキースが顔を出すなと告げたからか、アルベルトの姿を店の内外で見かけることはなかった。
(怒っていたら嫌だなぁ……何するかわからないし……)
自分がやりたいようにやれないと苛立つ我が儘な気質を持っているように感じられたため、あまり敵に回したくない。次に会ったときどんな態度で接したらいいのかも思いつかず、顔を合わせませんようにと願うことくらいしかできない。
(とにかく、鉢合わせしませんように)
そんなことを考えていると、不意に弦楽器の音色が入ってきた。爪弾き奏でられる悲しげな旋律は、サンドラの背後から響いている。そして、その旋律に乗せて歌声が聞こえてくる。低い男性の声だ。
「――それは悲しき物語
一人の商人と機織り娘の切なき恋の歌」
(……この声)
サンドラはその声の主に思い当たり、顔をそちらに向ける。しかし歌い手の姿は噴水の陰に隠れていて見ることができない。
歌は静かに続く。
「――機織り娘は身寄りもなく
仕事を得るためこの町にやってきた
何をするにも失敗ばかり
それでも機織りの仕事だけは
誰よりもうまくできた」
サンドラは歌を聴きながら、動悸が激しくなるのを感じる。
(なんで……)
胸に手を当てて、歌の続きに耳を傾ける。聞きたくない、でも聞きたい。そんな葛藤がサンドラの中で起こる。
「ある日仕事のお遣いで
とある店に織物を届けた
そこで出会った商人に
彼女は一目で恋に落ちた」
(キースとサンドラさんの話……?)
歌い手はおそらくアルベルトだろう。まさかこんな形で彼がキースの恋人の話を聞かせてくるとは思っておらず、サンドラは戸惑う。
(確認しなくちゃ……)
思い違いならそれで構わない。サンドラが意を決して立ち上がろうとすると、影ができた。
「お待たせしました、サンドラさん」
「キースさん……」
木製の長細い器を二つ手に持ったキースがそこに立っていた。
「この時間は混んでいて敵いませんね。すっかり遅くなってしまいました」
言って、キースは器の片方を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取って中身を見る。小さな泡がいくつかはじけていた。
「炭酸水、ですか?」
「なかなか冷えていて美味しいですよ」
勧めてくるのでサンドラは一口啜る。柑橘の甘い香りと酸味が口の中で広がった。
「ほんと、美味しい……」
「これを一緒に飲みたかったんです。町で結構な評判だったので、一度飲んでみたいなと」
言って、キースも炭酸水を飲む。
「一緒にって言っていただけるととても嬉しいです」
サンドラが微笑んで伝えると、彼もまた幸せそうに微笑んで彼女の隣に腰を下ろす。
「いつまでも一緒にこうしていられたら――そう願わずにはいられないんですがね……」
ぼそりと呟かれた台詞に、サンドラは身体をびくりと震わせてキースを見る。彼の横顔には寂しさがにじんでいた。
「キースさん……?」
「あぁっ、今の、独り言ですよ? 僕の身勝手な願望です」
慌てて取り繕うように言うキースをサンドラは見つめる。わずかに開いた口から言葉がこぼれる。
「――あたしも、あなたのそばにずっといたい……願ってはいけませんか?」
「サンドラさん……」
困ったように微笑んで、キースはサンドラの頭を撫でた。
「ふにゃっ……」
予期せぬことだったためにサンドラは思わず身を固くする。そしてわずかに頬を赤らめた。
「可愛いことを言ってくれますね」
「ちょ……子ども扱いしないでくださいっ! あたしは本気で……」
「気持ちは受け取っておきましょう」
彼はそう答えると、優しく微笑んでから視線を町役場に移した。
(……はぐらかされてしまった)
サンドラは心の中で小さくため息をつくと、炭酸水に視線を移す。ぱちりぱちりとはじける粒もだいぶ減っている。
(そういえば、歌……)
気付けば音楽は止んでいる。いついなくなってしまったのか全くわからなかった。
(あれはアルベルトさんだったのだろうか……)
確認できなかったことを悔やみつつも、サンドラは町役場の建物に視線を移し、そしてキースの肩にそっと寄り掛かったのだった。
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