蒼き翅の乙女

一花カナウ

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光の中で蝶は舞い

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 自分が何本の酒を飲んだのか数えるのをやめた頃、隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。サンドラが部屋から出てきたらしい。キースはなんとなく自室の扉を開けた。

「おや……こんな夜更けに珍しい」

 廊下に立っていたのは、やはりサンドラだった。室内から漏れた角灯の光で照らされた彼女は気まずそうにしている。

「あ、あら、キースさん。ごめんなさい。起こしてしまったようで」

「いえ……ずっと起きていましたから」

 思考がぼんやりとしていたが、ずっと起きていたのは確かだ。身体の向きを変えた彼女に、キースはゆっくりと近付く。

「え? 起きて……って」

 戸惑う彼女の表情がはっきりとわかる。サンドラはじっとキースを見つめ、何かに気付いたらしく続けた。

「お酒、飲んでいらしたのですか?」

 足元がおぼつかない。ふらついたところを、サンドラは支えてくれる。

「飲まずにいられるかよ……」

 言うつもりはなかったのに零れ落ちる台詞。すっかり制御不能になっていた。

(あぁ、いけない……)

 もたれかかるように、キースの重みがサンドラの細い肩に乗る。

「もう横になってください。こんなにお酒が入った状態じゃ危ないですよ」

 サンドラが叱るような口調で告げる。キースは彼女の言うのももっともだな、と素直に受け止めていた。これ以上飲んでしまったら、壊れてしまいそうだ。

 彼女に導かれて、部屋に戻る。酒の匂い。それが自分の身体からしているのか、部屋に満ちているのか、キースにはまったく区別がつかなかった。

 床に転がる瓶に注意を払いながら運ばれた寝台の上。そこに転がるともう起き上がれないような気がした。身体がだるい。彼女を見上げると、息が弾んでいるのがなんとなくわかった。

(重かったかな……?)

 サンドラはきょろきょろと辺りを見回す。何かを探しているようだったが諦めたらしい。彼女はキースを見て微笑む。

「お水、お持ちしますね。少し酔いを醒ましたほうがいいですから」

 寝台から離れようと立ち上がったサンドラの手首を、無意識のうちに掴んでいた。そのまま勢いに任せぐいっと引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。

「あ、あの、キースさんっ!?」

 いきなりの出来事にびっくりしたことだろう。彼女は腕の中で身をよじってもがいていたが、キースは放すまいとさらに力をこめる。

「また、あなたを傷つけてしまった……」

 誰に対して謝っているのか、もはやキース自身にもわからなかった。記憶の混乱が起きている。それは酒のせいか、それとも昼間の出来事のせいだろうか。

「……?」

 腕の中にいるサンドラの動きが固まった。何かを思案している様子の彼女を、キースは身体をひねって下に敷いた。何が起きているのかわからないといった表情をする彼女を見下ろしながら、両手の自由を奪い馬乗りになって身体の動きを封じる。

(困ったな……)

 そばにいて欲しいという気持ちが思わぬ行動になってしまった。

「あなたはうかつですね。こんな夜更けに男の部屋に入ってくるものじゃありませんよ」

 自分は悪くない、部屋に入ってきた彼女がいけないんだ――そう自分に弁解しながら出てしまった台詞。もう笑うしかない。

「そう……ですね……」

 このあとどうなるのだろう。そんな不安と期待が滲むような胡桃色の瞳がキースを見ている。

(嫌がってくれたら良かったのに……)

 勝手な言い分だとは心の片隅で思いつつも、何もかも放り出してすべて彼女のせいにしてしまいたくなる。傷つけたくないのではない、傷つきたくないのだという事実を、キースは苦しく感じていた。

「……そんな顔で見つめないでください。本能を抑えられなくなる……」

 このまま抱いてしまったら、きっと後悔してしまう。

「でも、この力の差では抵抗できませんよ」

 彼女にそう言われても、この手を緩める気にはなれない。

「誘わないでください」

「あたしは事実を述べただけ、ですけど……」

 何かを求めるように見つめる胡桃色の瞳。

(僕はサンドラを抱きたかったのか……?)

 自分では何もできない。

 どのくらいの間そうしていたのかわからない。やがてサンドラは微かに笑んだ。

「……いいんですよ? あなたがあたしを欲しいというのなら差し上げます。あたしにはこの身体しかないのですから」

 ――どうしてそんな台詞を僕は言わせてしまうのだろう。

「だから、誘わないでと言っているじゃないですか」

 いつまでもこうしているわけにはいかない。彼女を解放しなくては、そう思うのに身体が言うことをきかない。サンドラの細い腕を拘束している手のひらに汗がにじんでいるのがわかる。

「あたしが傷つくのを恐れているのですか?」

「そうです。僕はあなたを傷つけたくない。もう、これ以上、あなたを壊したくない……っ!」

 違う。

 傷つけたくないのでも、壊したくないわけでもない。

 自分自身が、傷つきたくも壊れたくもないのだ。

 それを告げられない自分が心底嫌で、キースは自身の唇を噛んだ。

「構いませんよ。亡くなったサンドラさんの代わりだとしても、あたしはあなたに触れていただけるなら構わない」

 サンドラの呼びかけに、キースは目を大きく開いた。

(記憶……)

 彼女の過去に何があったのかは詳しくは聞いていない。だが、わずかだとしても確かにあっただろう幸せの日々をすべて封印してまでこの世界に戻ってくる理由は一体なんなのだろう。思い出したくない記憶ばかりの世界に戻ってきた理由はなんなのだろう。

(――あなたは自分のことを他人だと認識するのですね……)

 今いる自分を愛せないなら、別の誰かの代わりでも良い――そんなことを口にするサンドラを見て、キースは急速に現実を認識し始めた。

(思い出さないなら、彼女の死について語っても良いか……他から余計な情報をもらって誤解されるよりはマシだ)

 覚悟を決めて、キースは目を伏せた。

「やはり、あなた、知って……」

 溜まっていた唾を飲み込み、ゆっくりとサンドラの上から退くと、彼女のいない場所に身体を転がす。

「……いつから、気付いていました?」

 彼女を見ることができない。仰向けに転がったキースは、目の上に腕を乗せた状態で問う。

「確信したのは昨晩です。あの……手紙を見つけてしまったものですから」

「手紙……?」

 なんのことだかさっぱりわからない。キースが続きを待っていると、ぽつりぽつりと彼女は喋る。

「サンドラさんに宛てたお手紙です。悪いとは思ったのですが……勝手に読んでしまってごめんなさい」

 サンドラは上体を起こしてキースに身体の向きを変え、頭を下げた。

 謝る彼女の気配を感じながらも、様々な疑問で頭が混乱してくる。そもそも、サンドラの部屋から手紙が出てくるはずがないのだ。

「どこからそんな手紙が……」

 腕を動かし、わずかな隙間からキースはサンドラの顔を見る。真実を告げているのかどうか、確認せずにはいられなかった。アルベルトからそう言うように指示されている可能性も否定できなかったのだ。

 しかし、そんな心配は無用だった。彼女は真っ直ぐな瞳のまま続ける。

「本の間からです。『プシュケの意匠に込められた想い』って題名の本から出てきたんですよ」

「……どうしてそんな本の間から……?」

 キースは視線を天井に向けて、不思議そうに唸る。あの部屋に置いてあった本はすべてサンドラが生前に持ち込んだもので、キースは彼女の持つその本をまともに読んだことさえなかったのだ。

「……あの、サンドラさんって、どうして亡くなられたのですか?」

 問われて、すぐに返せない。死を隠すことはできなくとも、死に様まで告げるのは残酷すぎる。それは過去の彼女にとっても、今の彼女にとっても。

「――あなたは知らない方がいい」

 低く、凄みさえ感じさせる声。普段とは違う声色に、サンドラが姿勢を正したのがわかった。

「彼女を死なせてしまった責は僕にもある。だから、お願いだ。もうしばらく忘れさせてくれ」

 キースはサンドラを再び引き寄せ、優しく抱き締めた。

(紛らわすことができるだろうか。彼女の探究心を、自分の気持ちを)

 できることなら、彼女が消えてしまうまでずっと隠しておきたかった。そう願わずにはいられなかった。

「……わかりました。問いません」

 長い黄金色の髪をすくいながら彼女の頭を撫でていると、了解の返事が聞こえた。これでしばらくは幸せな時間が続くのだろう。

(心地良いものだな……)

 生前にこうして撫でたことがあっただろうかとふと思う。もっと抱き締めてやればよかったと今さら後悔し、そして今いる彼女の腰に回した手に力をこめた。

「あの……あたしはいつまでこうしていればよろしいでしょうか?」

 なかなか放そうとしないのを不思議に感じたらしい。顔をわずかに上げて窺う仕草がとても可愛らしかった。そんな気持ちがキースの台詞ににじみ出る。

「付き合ってくださるなら、是非とも朝まで」

「それはあたしに寝るなと言っているのと同じだと思うのですが?」

 頭を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうにわずかに目を細めた。とろんとした表情は眠気が襲っている証拠だろう。

(きっと眠ってしまうな……)

 言っていることと身体の反応が違うあたりが愛おしい。彼女も自分の意志と戦っているのだろう。

「これ以上のことはしませんよ。酔った勢いで、とは思われたくない」

 充分すぎる。それ以上を求めたら、また壊してしまいそうだ。キースはできるだけ優しい声で言って、頭を撫で続ける。

「酔った人間の戯れ言を信じる趣味はないですが――あなたのおっしゃることなので信じます。あなたの腕の中なら、安心してよく眠れそうですから」

 残念そうに見えたのはきっと酔いのせいだろう。彼女は頬を少しだけ赤らめると、キースの胸に顔を埋めた。

「それはよかった」

「あたし、お酒の匂いだけで酔っ払ってしまったのかしら……」

「そうかもしれませんね、サンドラさん」

「だったら嫌だわ」

「いい夢を見て、嫌なことは忘れてしまえばいい……」

 お願いだ、神様。どうか彼女に幸福な夢を――そう願い抱き締めた腕の中、すぐにサンドラは静かな寝息を立てたのだった。



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