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光の中で蝶は舞い
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しおりを挟む朝焼けの中、わずかに欠けた月が沈むのを見つけ、キースは通りの清掃を止めた。
(今夜が満月か……)
彼女と再会してからひと月。しかし彼女の失われた記憶が蘇る気配は今のところない。それが果たして良いことなのか、キースはずっとわからずにいた。真実を語らないことが単なる自分の我が儘のような気がして、彼女のためという身勝手な理由で隠しているだけのような気がして。
(最後くらい、町に出掛けてもいいかもな)
よくよく考えてみれば、生前も今も仕事に追われていて二人きりで出掛けたことがなかった。互いに真面目であるがために、そういう考えが浮かばなかったのだろう。
(特別なことをしなくても、あのときは一緒にいられるだけで充分だったが……誘ったら、サンドラは喜んでくれるだろうか)
アルベルトがグレイスワーズ商店に現れたあとは、ほぼサンドラと一緒に仕事をした。町役場に行く用事もなくなってしまったので、丘を下りる必要もない。住宅街の配達くらいしか店を空けることはなかったが、彼女を一人にしておく気にはなれなかったので常に同伴させていた。サンドラはキースがそうさせる本当の理由に気付いていないらしく、新しい仕事を教えてもらっていることが単に嬉しいようではしゃいで見えた。
(今日は休みにしよう。どうせ、明日には閉まる店だ)
キースは掃除を再開する。いつもより念入りに、気持ちをこめて。
昼を知らせる鐘が鳴る少し前。二人は通りを町の中心に向かって歩いていた。
繋がれた手が視界に入り、こうすると恋人らしく見えるものだなとキースは自分のことなのにどこか微笑ましく思う。
「――しかし、急にどうしたんですか? 休みにして町に出ようだなんて」
鼻歌交じりに機嫌よく歩いていたサンドラが、ふと不思議そうに訊ねた。しかし声には浮かれた気持ちがはっきりと現れている。
「ずっと働き詰めでしたからね。それに、町の案内もしておいた方がいいかと思いまして。少し刺激があったほうが、記憶が戻るきっかけにもなりましょう」
それは言い訳であったが、本当のことを話すわけにはいかない。悟られないように、キースはしっかりとサンドラの手を握りながら優しく告げる。
その説明に彼女はふぅん、と少々納得しかねるように頷く。そしてさらに問いを重ねた。
「キースさんは……あたしの記憶が戻ったら嬉しい?」
軽い口調。しかしその台詞に、キースはどきっとする。きっと彼女はそこまで深く思って訊いたわけではないのだろう。そうとわかっているつもりなのに、動揺を隠し切れない。
「――嬉しいと思いますよ? ご家族もきっと心配されているはずです。再会したいと思わないのですか?」
何かを喋ればかわせる、そう信じて無難な台詞を選ぶ。本心では嬉しいとは感じていなかったが、一方で絶対に忘れたままであって欲しいとも思えなかった。
キースに問いで返されて、サンドラはわずかに俯く。
「でも、町役場に届けてから半月以上何の音沙汰もないってことは、あたし、家族がいないんじゃ……」
弱音を吐くサンドラ。いつまでも記憶が戻らないことの異常さに気付かされ、これまで意識してこなかったことに目が向いたのだろう。自分が何者なのかわからないことは、さぞかし心細く感じられるに違いない。
キースは励ますようにサンドラの手をきつく握った。
「そんなことないですよ。――大丈夫、家族が見つかるまではずっとあの店にいてくださって構いませんから」
嘘をつくのは苦手だ。たとえそれが相手を守るための嘘だとしても。
「はい……」
彼女は頷く。しかし表情が曇ったままだった。
「他に何か気がかりな点でもあるのですか?」
見抜かれてしまっただろうか。キースは心配になり彼女の顔を覗く。
「いえ……ただ、あまりにも今幸せだったものですから」
サンドラの微笑みは、無理をして作った痛々しいものだった。心配掛けさせまいとする彼女の気持ちが伝わり、キースは話題を変えることにする。
(何か別の話を……)
そこでひらめいた。
「――そうだ」
恋人らしいことをするのなら、やっておきたいことがある。ぱっと表情を微笑みに切り替えて、キースは続ける。
「欲しいもの、ありませんか? 今まで一生懸命に仕事を手伝ってくださったご褒美に、何か買って差し上げましょう」
「えっ?」
思いも依らない提案だったらしい。サンドラは目を瞬かせる。
「で、でも、あたしが仕事を手伝っているのは、部屋をお借りしているからそのお返しなわけで……」
申し訳なさそうに表情を暗くし、さらに続ける。
「……そ、それに……初日の商品の弁償、まだ完済できていないはずですし……」
(やっぱり彼女は真面目だな。生前から本当に変わらない)
記憶は性格と関係しないものなのだろうか。彼女らしい発言に嬉しさを感じながら、キースは説得することにする。
「そんなことまだ気にしていたんですか? あなたは十二分に働いてくれていますよ。ですから遠慮なさらないでください」
「えっと……じゃあ、もう少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
戸惑いの表情。いきなりすぎて何も思い浮かばないのだろう。そんな気持ちがわかってしまって、キースは彼女を慌てさせないようにゆっくりと頷いた。
「えぇ。ゆっくりとどうぞ。ただ、今日中に品物は決めてくださいね」
――そうでないと、渡すことができないから。
理由は飲み込む。それを言ってしまったら、彼女は問わずにいられないだろうから。
「わかりました。考えておきますね」
彼女が頷くのを確認すると、キースはその手を強く握り足を町役場前の広場に向けた。きっとそこにはアルベルトがいる。いつものように、プシュケの物語を弾き語る彼が。
町役場前の噴水を背に、アルベルトは楽器を握っていた。彼が最初から二人に気付いていたのかはわからない。ある商人と機織り娘の歌を弾き語っていた彼は、しかし途中でやめて去っていった。
歌が最後までできていないのだろうか――初めはそう考えたキースだったが、歌詞の内容を思い出して考えを改めた。それが彼なりの優しさだと気付くと、キースは胸の奥が熱くなり、心の中で感謝した。
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