蒼き翅の乙女

一花カナウ

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光の中で蝶は舞い

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 夕暮れで染まる町並み。白い壁は赤く染まり、茜色の屋根はますますその色を濃くする。そんな景色もこれが見納めだと思うと感慨深い。

 グレイスワーズ商店への帰り道、前を歩くサンドラの楽しげな背を見て、さらに左手に目をやった。木製の指輪が夕陽に照らされて赤く染まっている。

(まさか指輪をねだられるとはな……)

 サンドラが褒美として選んだ物は指輪だった。木製で、蝶の模様が彫り込まれたものだ。右手の薬指に合わせて見繕ったものを、彼女はわざと左手にはめていた。

「とても満足そうですね……」

 自分の左手にはめられたおそろいの指輪を一瞥して、少し呆れ気味に告げる。その呟きに、サンドラはちらりと振り返った。

「だって、とっても嬉しいんですもの。おそろいですよ、おそろい」

(サンドラを侮っていたな、僕は……)

 彼女に指輪を買うまではまだ良かった。ほとんど想定内のことで驚くことはなかったのだが、お金を支払おうとしたところで言い出したのだ。

 ――キースさん、お願いがあるの。もしも、もしもよ? あたしが充分に働いていているって認めてくれている上で、その分の稼ぎがちゃんとあるなら、もう一つ、同じものを買ってくれないかしら? ううん。あたしがつけるんじゃないの。あなたがつけるのよ。おそろい。良いでしょ?
 そんなふうに懇願されたら、断りきれるキースではない。説得を早々に諦めて買わざるを得なかった。大した金額ではないおもちゃの指輪を大事につけている彼女を見ていると、これから待ち受けているだろう互いの運命を呪いたくなる。

「まったく……あなたが何を考えているのかわからない」

(左手の薬指――本当なら今頃、僕は彼女に渡していたはずなのに……)

 自分のあまりの運のなさに心の中で深いため息をつく。

(しかし、あの指輪はどこにしまったんだっけな)

「嫌ですか? でも、今だけでいいんですから。ね? 約束してくれたでしょ?」

 店に着くまでは指輪をしていて欲しいとのサンドラの願いに根負けしたのは事実だ。

 しかし、サンドラは誤解しているようだが、キースは指輪をはめるのが嫌だったわけではない。むしろ嬉しかったくらいだ。ただ、自分が渡すはずだった指輪を彼女にしてやれなかったことを、彼女の指を見て思い出すのが嫌だっただけ。まさかそんなことを彼女に話すわけにはいかず、鬱屈だけが溜まる。

「せめて右手にして欲しかったですけどね」

 左手にあると、いろいろ思い出されて落ち込んでしまう。主に彼自身の不甲斐無さではあるのだが。

「あたしと夫婦ごっこするのは嫌だってことですか?」

 小さく膨れた顔をキースに向ける。

(夫婦ごっこって……)

 キースはあからさまに困った顔をした。

「嫌というものとは違うのですが……」

(ごっこ、じゃなくて、夫婦になっていたはずなんだよ)

 告げたくても告げられない。彼女を見送るまでは混乱させたくはなかった。せっかくの幸せの時間を、自ら壊すのは絶対に避けねばならない。

 キースの気持ちを察することができるわけもなく、サンドラはますます頬を膨らましてぷいっと前を向いた。

「いーです、いーですよっ! 今だけ、限定でっ! それで満足することにしますから!」

 不機嫌に足を鳴らして、サンドラはグレイスワーズ商店に続く坂道を彼より先に進む。

「サンドラさん」

 もっと手を繋いでいたくて声をかけてみる。しかし彼女は振り向かなかった。

「今さらご機嫌を取ろうとしても遅いですよーっだ」

(そりゃそうだ)

 自分の我が儘につき合わせるのも何か違うような気がして、キースはそれ以上話しかけなかった。

 薄暗くなった通り。二股に分かれたその場所。家も街灯もなくここは林ばかりだ。ここを抜けてしまえば、すぐにグレイスワーズ商店が見えてくる。

 通りから人が減ってきて、いよいよ居住地域に入ろうかというそんな場所でサンドラが急に立ち止まった。

「どうかしましたか?」

 キースは立ち止まったサンドラの様子を窺いながら問い掛ける。嫌な予感がした。

「あたし……この場所を知ってる……」

「昼間も通りましたからね。左がグレイスワーズ商店ですよ。右が――」

 聞きたくない。あと少しで家に着く。そしたら美味しい食事を二人で囲んで、同じ寝台で眠るんだ。二人で朝を迎えて、あの窓から朝焼けを見て、それで――。

 ごまかすように説明するキースの台詞に、サンドラは割って入る。

「丘を回るように続いていて、その先は行き止まり、ですよね?」

(記憶がこんなところで……)

 神様はなんて残酷な方なんだ。

「この道を、ご存知で?」

 そんな話は聞きたくない。ここはあの夜、彼女が最後に通っただろう道。

「だって……あたしはここを毎日――」

 彼女は苦痛で顔を歪める。記憶が戻りつつあるのだ。

「痛い……」

 痛みで身をかがめたサンドラをキースはすぐに抱えて通りの脇へと移動する。

 すごい汗だ。黄金色の彼女の長い髪が額に、頬に張り付いている。それをそっとどかしながらキースは問う。胸騒ぎ。落ち着かない。

「だ、大丈夫ですか?」

「あぁっ!!」

 しばらくキースの腕の中でうめいていた彼女だったが、やがて落ち着き、その美しい瞳から涙がこぼれた。

「……ごめんなさい、キース。あたし……あなたの誕生日を祝うことができなかった……」

「サンドラさん……!? ……サンドラっ?」

「あたしが……サンドラだったんですね……」

「サンドラ、記憶が……っ」

 初めは何を言ったのかわからなくて。しかしサンドラの様子に、キースは彼女の記憶があの夜の出来事まで蘇ってしまったことを悟った。

 サンドラの瞳から次々と涙がこぼれ落ちる。

「どうせなら、あなたとの幸せな記憶だけ戻ってきてくれたら良かったのに……どうして、あんなことに……」

 両手で顔を覆うサンドラを、キースはぎゅっと抱き締めて頭を撫でる。

「嫌なことは忘れてしまえばいい。無理に思い出すことはないよ」

 蒼い色が広がりつつある空にまん丸の月が昇り始める。

「神様は、残酷なことをしてくれるな……どうせなら、最後まで忘れさせてくれていたら良かったのに」

「最後……あぁ、お迎えが来てしまったのね」

 サンドラが視線を動かして示すと、薄暗かったはずの周辺が明るく照らされている。たくさんの光の蝶が周囲に集まっているのだ。

「ひと月だなんて、短すぎる」

 キースはサンドラの涙を指の腹でそっと拭う。それでも拭いきれずに温かな雫は流れ落ちた。感情が溢れる。

「そんな悲しそうな顔をしないで、キース」

「悲しまずにはいられないよ、サンドラ」

 告げて、キースはサンドラの唇に優しく自身の唇を重ねた。

 やがて離れていく温もりが、心を苦しませる。ずっとずっとあなたを感じていたいと求めてしまう。

「キース……」

「怖がらなくていい、僕も一緒だから」

 もう、黙っている必要はない。作られた微笑みには切ない気持ちが重なっていることだろう。

 サンドラはキースの言葉を聞いて目を見開いた。胡桃色の瞳が揺れる。

「……え?」

「――いるんだろう? アルベルト。出てきてくれ」

 どこかに向けられた問い。

 それに応じるかのように、キースの背後にある茂みが揺れた。

「……いつから気付いていた?」

 木の陰から出てきたのはアルベルトだった。極まりの悪い顔をしている。

「役場前の広場を出たときからずっとつけていたんじゃないか?」

「ご明察」

 答えて、アルベルトは苦笑した。

「どうしてこの身体のことを黙っていたんだ? プシュケの僕を保護したのはお前だったはずだ。あの満月の朝、僕は君の屋敷にいたんだからな」

「俺と君は野暮なことは言わない間柄だろう? それに、君がサンドラに本当のことを告げずにいたのと同じことじゃないのか」

 キースの問いに、アルベルトは親しげに返す。さも当然と言いたげな口ぶりだ。

「キースも……プシュケって……本当なの……?」

 困惑して思わず漏れたらしい台詞。キースは静かに頷いた。

「サンドラ。彼はね、君の復讐を果たして死んだんだよ。この場所で」

 サンドラに向けられていたアルベルトの視線がキースに移動する。

「――だが、いつそれを思い出したんだ、キース。復讐したときに傷を負って、そのまま眠っていたんだって言う俺の安っぽい嘘を、君はあっさり信じてくれたじゃないか」

 不思議そうな問いに、キースは小さく自嘲気味に笑って答えた。

「サンドラの墓参りをしたときに、自分の墓を見ちゃったんだ。それでお前に話を聞こうとして――僕の店に行ったと聞いたからすぐに飛んで帰ったんだよ」

 キースは続ける。

「だけどな、アルベルト。お前がサンドラに会いにいった理由を察して、僕は結局今日までその事実を聞こうとは思わなかったんだ。それにサンドラを泣かせたことは今でも許せないしな」

「サンドラの唇を奪ってしまったことについては弁解のしようがない。何発殴られようと構わない覚悟だ」

「そうか――だが、それは次の機会にとっておくよ」

 ゆっくりとキースは立ち上がる。サンドラをしっかりと抱えて。

「もう、時間らしい」

 光の蝶が急かしている。キースの背にすっと翅が生える。真っ青な空のような美しい翅、それがひとたび羽ばたいた。

「残念だ。次の機会を楽しみに待つとするよ」

 苦笑して肩をすくめるアルベルト。しかし彼のそれが演技であることをキースもサンドラも見抜いていた。

「サンドラ。心の準備は良いかい?」

「えぇ。一緒に逝けることを嬉しく思うわ、キース」

 サンドラの背にも深い青い翅が伸びた。それはサンドラが作った綴れ織壁掛けのプシュケの翅。蒼き翅の乙女――その絵のままに。

「こういうのも悪くないかもしれないわね」

「少しくらい、神様は気の利いた演出をしてくれてもいいと思うんだよ。君をこんなにも悲しませたのだから」

 言って、キースはサンドラの涙を優しく拭った。

「この涙は嬉し涙よ? 記憶をなくしていても、あなたに恋をした。だから次もまたあなたを愛せるって信じられる。それを知ることができたから、喜びの涙なの」

「良かった……。プシュケにならないほうが良かったって思っているんじゃないかとずっと不安だったんだ」

「大丈夫。あたしは後悔していないわ」

「それが聞けてほっとしたよ」

 微笑みが交わされる。悲しみから解き放たれた穏やかな二つの笑顔。

「――ずっと一緒よ。キース。愛してる」

「愛してる、サンドラ。ずっと、ずっと一緒だ」

 再び重なり合う唇。互いの体温を感じ合う。永遠がありますようにと願いながら。
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