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契約は優しい口づけで

彼女を救う冴えたやり方

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 瞬間移動のごとく、朔夜さくやに導かれるままにやってきた場所は見事なすみれ色の絨毯が広がる河川敷だった。
 貸切のように静かな周囲に目をやり、そして目の前に立つ少女と銀髪の青年を確認する。待っていたらしい少女が、ゆっくりと唇を動かした。

「――ありがとう、望月もちづきさん」

 やはり面識はあったようだ。スミレは朔夜の顔を見るとやんわりと笑んで礼を告げた。

「いえいえ。お代相応の仕事をしただけさ」

 そう答え、朔夜はアヤメの後ろに回ると肩に手をおいた。

「ちゃんとオレはアヤメを送り届けたんで、あとは傍観させてもらうよ?」
「わかりました。邪魔はしないという約束、きちんと守ってくださいね」
「へいへい」

 二人のやり取りを聞いていても意味がわからない。アヤメは朔夜の手が離れると同時にスミレを見つめる。スミレの着ていた真っ白なワンピースが風に揺れて広がる。真っ黒で艶やかな長い髪も風に流された。

(立っている姿なんて、随分振りだな……)

 健康な身体をスミレに与えることは叶わなかった。科学の力に頼っても、どんなに聖人まさとに願っても、どんなに強く思いをこめても、結局すべて駄目だった。上半身は動けても、下半身は自由にならなかったのだ。

(良かった。一時でも叶ったんだ……)

 もう見ることはないんじゃないかと思っていただけに、アヤメは自分の足で立つスミレの姿を見て嬉しく、幸せに思った。自然と顔が綻ぶ。

「スミレ……」
「良かった。お姉ちゃん、笑ってくれて」

 スミレもまた嬉しそうに微笑んだ。

「え?」

 指摘されて、アヤメの表情が固くなる。

「いっつも疲れた顔して私に会いに来るんだもん。たまに笑ってくれるけど、あれ、演技でしょ? 心から笑えていないんだって、私、気付いてたよ」

 さっと血の気が引いていくのを感じた。

「な、何言ってるのよ、スミレ。演技じゃないって」

 まさか、そんなふうに思われていただなんて。

「嘘。そんなの嘘。――それともお姉ちゃん、嘘に慣れすぎて鈍感になってたんじゃない? お姉ちゃんは、そういうところを意識しない人だから」

 気付かれないように、意識していたはずなのに。

「そんなことないって」

 取り繕うように告げるが、スミレは首を小さく横に振った。

「そんなことあるよ」

 悲しげな表情。スミレのそんな顔を見せられて、アヤメは何も言えずに黙り込む。

「誕生日にバイトして――そのお金、私のためなんでしょ? 治療するのにもお金がかかるから」
「…………」
「お姉ちゃんはいつも私のために一生懸命だった。何かあれば庇ってくれたし、私が言いにくくて黙っていたことも全部話して動いてくれた。とっても嬉しかったよ。でもね、とっても申し訳なく思っていたの」
「や、やだなぁ。気にしなくていいのに。あたしが好きでやってきたことなんだから。スミレはスミレで好きなようにすればいいのよ。一人でやるのが難しいなら、今までどおりあたしが手伝うから。ね? そんな変なこと言わないでよ」

 嫌な予感がする。このままではまずいような気がする。落ち着かなくて、アヤメは自身の胸に手を当てた。鼓動が早い。

「お姉ちゃんは何でもかんでも自分で引き受けてずるいよ。……私、そんなことをさせたくてお姉ちゃんに相談したわけじゃないのにさ……私はただ、お姉ちゃんの喜ぶ顔をずっと見ていたかっただけなのにさ……私のために精気を吸われて元気なくしている姿なんて、私見たくなかったよ」

 その場に泣き崩れるスミレ。ぺたりと座り込んでしまった彼女に、アヤメは近付いて抱き締めた。

(そんな……)

 思惑と異なることを言われて呆然とし、そんな空っぽの気持ちのままアヤメはスミレの隣に立つ聖人に目を向けた。悲しみの色で塗り固められた顔。それがただアヤメに向けられていた。

(聖人は、スミレがそう思っていたことを知っていたの?)

 嘘だ。これは悪い夢。
 アヤメは次々と浮かぶ嫌な言葉を振り切りたくて、返す台詞を必死に探す。

「元気なくしてって、それは気のせいだよ。あたし、元気だし。毎日顔を見せに行ったでしょ? そもそもあの病院、丘の上にあるから元気じゃなかったら上れないし」
「お姉ちゃんはわかってない――お姉ちゃんはもう私から解放されるべきなんだよ。私に囚われすぎてるの。わかってるでしょ?」
「でも、それはあたしが自分で望んだことなんだから、スミレが気にすることじゃないよ。ねぇ、落ち着こう? スミレ、なんだかおかしいよ。いつもみたいに笑ってよ。せっかく外に出られたんだよ? 久し振りの散歩だよ? ほら、見てよ。こんなにすみれの花が咲いてる。とっても綺麗じゃない。ゆっくりさ、この辺りを散策して、いっぱい話そうよ。そしたら病院に帰ろう。そうだ、今度見舞いに行くときには花を持っていってあげるよ。窓がないから外の様子わからないし。季節に合わせた花、用意して届けてあげる。今だったらやっぱりすみれがいいかな。花屋に置いてあるといいけど、植木鉢じゃ根が張るから縁起が悪いし……あぁ、あたしが途中で摘んでくればいいのか。それはそれで素敵だよね? ねぇ――」
「お姉ちゃん……」

 涙でぐずぐずになった顔が目に入った。台詞を止められて黙るアヤメに、スミレは続ける。

「もういいよ、お姉ちゃん。こんなに素敵な誕生日プレゼントをありがとう。久し振りにあの病室から解放されてとても嬉しかった。良い思い出になったよ」

 袖口で涙をごしごしと拭うと、スミレはゆっくりと立ち上がる。

「だから、私からもプレゼントをあげるね。お姉ちゃんは私に自由をくれたから、今度は私がお姉ちゃんを自由にさせてあげる」

 その台詞と同時に、スミレの周囲にふわふわとした綿毛が現れる。タンポポの綿毛のように見えたそれが、まったく別のものであることにアヤメはすぐに気づいた。

「待って。何やってるのよ、スミレ。これ……この光……」

 綿毛のようなものが精気であることに思い至ると、アヤメは立ち上がってスミレに抱きついた。

「あんた……何を願ったのよ……あの悪魔たちに何を願ったのよっ!」
「お姉ちゃんの笑顔を取り戻す方法だよ」

 力が失われているのだろう。か細い声が耳元で聞こえた。

「あたしはただ、スミレの笑顔をずっと見ていたかっただけなのに……なんで……なんでこんなこと……なんでこんなことを勝手にするのよっ……」

 涙が頬に一筋の線を作る。

「私もずっとお姉ちゃんの喜ぶ顔を見たかった。でもね、今のままじゃ駄目なの。一人分の精気しかないのに、それで二人分の身体を動かすのって、やっぱり限界があるんだって。望月さんも天守あまもりさんも、そう教えてくれたよ? そろそろ決めないと、どっちもいなくなるだろうって」
「やだやだやだっ! なんでスミレが犠牲にならなくちゃいけないのよっ!」

 言って、アヤメは抱きついていた腕を離し、自身の胸に手を当てる。

「そうよっ。この一年あたしが自由にやってきたんだから、今度はスミレが自由になる番でしょっ!」

 スミレの細い肩に手を置いて、アヤメは必死に説得を続ける。

「なんなら、あたしの身体をスミレにあげるわよっ!
 この身体なら、好きなところに自由にいけるじゃない。行きたい場所もいっぱいあるんでしょ?
 高校に行きたいって言っていたじゃないっ!
 部活やりたいって言っていたじゃないっ!
 バイトもしてみたいって言っていたじゃないっ!
 普通の恋愛をしたいって言ってたじゃないのっ!
 ――全部……全部嘘だったってわけじゃないんでしょ!? 本音だったんでしょっ!?」
「お姉ちゃん、わかってない……」

 ふるふるとスミレは首を横に振り、そしてゆっくりと、はっきりとその言葉を続けた。

「――その身体がね、私なんだよ」

 頭の中が真っ白になった。

「今……なんて……」

 その台詞を声にするのがやっとだった。
 スミレは悲しげな瞳でアヤメを見つめ、ぽつりぽつりと台詞を紡ぐ。

「あの時死んだのは私じゃなくて、アヤメお姉ちゃんのほうだったの……。だから私、望月さんにお願いして、自分の思いを……魂の全部を賭けて、入れ替えてもらったのよ」

(なんだって……)

 力が抜けていく。ショックで身体が動かない。

(この身体が……スミレだって……?)

 スミレはとうとうと続ける。

「望月さんはちゃんと私の願いを叶えてくれた。だから私が死ぬはずだった。でも、お姉ちゃんは私が生き延びることを望んでくれた。強く強く願ってくれた。その思いを天守さんが叶えてしまった。――私を連れて行くなという心の底からの願い」

 視線を外す聖人の顔を確かめて、スミレは続ける。

「私、恨んでないよ。私が目覚めたとき、お姉ちゃん、とっても不安げで寂しげな顔をしていたのに、すぐに笑顔をくれたから。だから、私、どうして馬鹿な願いをしたんだろうって思ったんだ」

 そこまで告げると、スミレは瞳を伏せた。

「でもね、お姉ちゃん。誤算があったんだ。望月さんに聞いたの。どうして私は生きているのかって。そしたら説明してくれたよ。このままではいずれ近いうちに共倒れになってしまうよって」

 自嘲気味に口元を上げる。笑って、スミレは告げる。

「だって、既にあの時、片方はもう取り返しのつかない状態で、魂を構成できる精気はどう頑張ってみたところで、回復できるのは半身までだったんだもの。強い感情だけでは、必要な分の精気を取り戻せるに至れなかったんだってさ。だから、一時的には何とかなっても、長期的に見れば不安定なまま。私は半身不随で、その上にお姉ちゃんの精気を望月さんや天守さんを経由してもらわねばならない身体になってしまっていた。疲れやすくなっていたはずなんだけどな。気付かなかったなんて、すごいよ」
「スミレ……」
「お姉ちゃん、もっと笑ってよ。私はいなくなっても、私はずっと傍にいるから――」

 かくんっとスミレの身体は揺れて力なく崩れた。アヤメは抱きとめて、しっかりと抱き締めた。

「スミレ……」

 スミレの身体は糸の切れたマリオネットのように動かない。まだ温もりを宿した身体をぎゅっと強く抱き締めて、アヤメはひたすら泣いた。
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