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本編
存在
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自分の知っている世界は視覚と聴覚だけで語れるように思っていませんか?
ヒトは他にもすばらしい感覚を持っているというのに……。
* * *
「これは噂だよ」と友達に言われたのはついこの前の話。
今日ここに来たのはそれを確かめるため。だが……。
「さて……」
天気は快晴。暖かな春の風に柔らかな陽の光。
僕は大きく深呼吸をして、緑の息吹を感じた。そっと瞳を閉じゆっくりとあける。
(こわい気もするんだよな……)
気持ちになかなか踏ん切りがつかない。
何だってこんなところで迷わなくてはいけないのだろう?
決めたからこそここにいるはずなのに。
(ってか、マジでそんなやつが現れるのか?)
興味はあった。話を、それも自分が知りたいと思っていることを、ここに来た奴がべらべらと喋ってくれて、且つ、金をくれるという。そんなうまい話があるか?
迷いに迷うこと十五分。行ったり来たりしてうろうろしていた僕は、通りすがりの人々から挙動不審の怪しい人物に思われていたに違いない。
(よし)
「オリフタエノ オリフタエノ 我は汝を請う 故に我が前に汝の姿を現したまえ!」
小さく呟くこと三回。来るか? 来るのか?
一分、二分……そして五分が経過。なぜか無音になったこの公園の一角。
何も起こらない? まさか。ただ恥をかきに来ただけか? はめられたか? あいつに。
「あほくせっ……」
ちっと舌打ちをして僕はその場を離れようとした。―――そのときだ。
携帯から聞き慣れない着信音。どうやら僕のものかららしい。
おそるおそる電話を取って見ると、非通知と画面に表示されている。僕は急に早くなった鼓動を落ち着かせようと一度大きく息を吸って電話に出た。
「あ、あの……もしもし?」
「どーも今日和。明るい引きこもり、尾根篤弘です。どうぞよろしくー」
やたら明るい突拍子もない声は受話器ごしから、そして背後から聞こえた。
僕は慌ててその声のした方向に体をなおす。僕の目に映ったのは、噂通りの背格好をした優男だった。
「どうして気付いてくれないかなぁ。もっと五感働かせた方がいいよー。気配消していたつもりはないし、むしろ殺気を飛ばしていた勢いなんだが」
「は、はぁ……」
きょとんと突っ立っている僕に、奴、尾根篤弘と名乗ったその男はかけていた眼鏡を少し直してにこっと笑んだ。耳にあてたままの携帯からはツーッという音も止み、おとなしくなっていた。
ちょっと冴えないグレーのトレーナーにジーンズ。履き慣れた感じのスニーカー。飾り気のない銀色の薄いフレームの眼鏡をかけ、清潔感のあるさっぱりとした髪型。眉はいじってないが整った優しげなカーブを描いていて、ややたれ目の目尻は彼をおっとりとした人物に見させていた。よく見ると左耳に小さくて丸い銀色のピアスがついている。装飾品はそのくらいだろうか? 決して派手ではない、どこにでもいそうな青年の様子は僕が聞いたとおりだったので、驚きのあまりまじまじと見てしまった。
だが奴はそんな僕の様子が気にくわなかったらしい。ちょこっとむっとして、そして思い出したかのようににやりと笑んだ。
「あんたは自己紹介してくれないの? まぁ大体知っているけどねぇ。えぇっとたしか、名前はヤノ タカアキ、十六才」
ほう、よく知っているな。何者だ? 奴はそのまま続ける。
「……この近くの高校の二年生になったばかりで、成績は真ん中やや上ぐらいかな。大学をストレートで合格するにはちょっとまずいからって、今年度から予備校に通うことにしたんだってね。かわいそーに」
そーそー。うちのババァがうるさくてさぁ。もうやってらんないってーの。
「そうだ。もっと最近にも事件があったね」
う……それってまさか……。
僕は耳をそばだてた。
「ほら、一週間前に告白されたんだけどそれをふっちゃってさー、友達に『十年に一度のイベントをふいにしたな』なんて言われて、そのあと本命のコに……」
「あーっ! それ以上大声で言うなぁっ!」
僕は慌てて奴の口をふさいだ。
「ってか、どこでンな情報仕入れてくんだよっ!!自称引きこもりのくせに!!」
「ンーっ。他称通称、そんなとこ。でも、情報集めは基本でしょ?」
簡単に僕の手をどかすと、ちちちっと指を横に振って見せた。
「で、冷やかしなら帰ってくれない? 見たところ、そんなに困ってなさそうだし、進路相談や恋愛相談はやってないから。こっちも暇じゃなくてねぇ」
奴は言いながら自分の肩をとんとんと叩き、いかにも疲れた感じを装う。
「どこがだよ。暇だからこうしてでて来るんじゃないのか?」
むっとして言い返してやると、奴はつんっと僕の鼻を指さして応える。
「あまい。召喚に応じてやらないとこっちの評判が下がるだろう? どうせがせネタだ、なんて思われたら商売あがったりなんだから」
(は、何が商売だ。どーせまともに働いたことなんかない、はみ出し者のくせに)
「あー、ひどいことを思う人間だねぇ。人を呼びだしておいて罵るったぁ、いい根性してるな。どうせあんたも金目当てだろ? いいものだね、そういう生き方のできる奴はさぁ」
僕の心を読んだのか、奴は冷ややかな笑みを浮かべて一気にそこまで喋った。
何も言えずうつむいて黙り込んでしまった僕に、奴は続ける。
「……なーんてね。最近冷やかしが多くってさ、仕事にならなくていらいらしてたんだ。八つ当たりしてわりぃな。君の質問には答えるよ」
顔を上げた僕の目の前には奴の優しい笑顔があった。
「耳で聞こえているモノだけが音を持っているわけじゃない。目に見えるモノがすべてじゃない。知っているかい? 赤ん坊の耳はよく聞こえていないらしいんだ。ほら、トンネルの中で音を出したとき、くわぁんって反響して、言葉とかはっきり聞こえないことがあるだろう? あんな感じに聞こえているんだってさ。今こうして、誰がどんな声で喋っているとか判別がつくのは訓練したおかげなんだと。目の見えない人っていうのは、目で光を感じることができないというハンデを背負う代わりに触覚が発達するらしい。目の見える人が普通に点字に触れても、何が書いてあるかなんて分からないけど、彼等はその微妙な凹凸を言葉として理解できるのだから。あれはすごいって思う。そういえば、視力が弱い人の中には、動物の気配を感じることができる人もいるらしい。それってさ、きっと余計な光や音に惑わされていないからだよね」
奴はいきなり話の前後がまったく合わない話をはじめた。
なんであの会話のあとにこんな訳の分からない話をするんだ? ってか、僕の質問? 僕は何か質問しただろうか?
いろいろと疑問に思うことがあったが、奴の話に聞き入っていたのは嘘ではなかった。奴はそのまま話を続ける。
「今の人間って、なんか自分のことなのに別の誰かであるような錯覚をしていると思う。ちょうど映画館で何かを見ている感じかな。視覚と聴覚のみが世界に反応している。しかもそれがさも世界のすべてであるかのように。でも、本当は違うだろう? こうして会話、今は一方的に喋っているけど、そうしているときは、目の前に喋っている人間がいる、これは確かなことだ。でも、耳と目をふさいだら……たちまち自分は闇に閉ざされた音も届かない宇宙の中に放り出されたように錯覚を起こすかもしれない。だがそんなことはないはず。においとか、暖かさとか、そういうのも感じているから、ここがどっか陽の当たって、植物が近くにあるような場所らしいことが分かると思うんだ。でも、それも経験がないとそう感じられない。ほんとはもっと土のにおいとか緑のにおいとか感じておくべきなんだよね。泥の感触や流れている小川の水の冷たさとか、変な話、どのくらい強く殴ったらどんくらい相手が痛がってダメージを受けるのかも、小さい頃から知っておくべきことなんだよね」
何も言えなかった。僕は外でどろんこになったり、ずぶぬれになったりして遊んだ記憶がなかった。まあ部活とかでそれらに近い状態になったことはあるが。
「……箱の中で、何かを見せられているだけだよね、経験を得なかった人間は。そういう感覚を奇妙に思わないのかなぁ?」
……明るい引きこもりに何が分かるんだ? 僕よりも、何を知っているっていうんだ? なにが……。
「――今の自分は、まだ数字でしかないんだよね。家族の一員である、とか、ちょっと広げても自分の祖父母にとっちゃ孫の一人でしかないし。家族にこだわらなけりゃ、高校の卒業生の一人だったろうし、市民七万五三一二人中の一というカウンターを回すだけでしかない。国民の全人口を一億三千幾つっていう数にするための一でしかないんだ。思わないかい?
自分一人いなくたってこの世界は何もなかったかのように存在し得るってこと。
たとえボクが死んだって、現在の人口から一を引かれるだけ。だって一でしかないのだから。それ以外の何者でもないのだから。他に何かの役に立っているわけでもないし、突然にいなくなっても昨日と同じように今日という日が動き出し、明日をたぐり寄せる。すべてを過去に葬って、やがて何もなかったかのように振る舞う。おそらく何も変わらない。変わるのがこわいから。変えたくてもそれだけの力を生み出せないから。それすらおそれているから。ただの一という数字でしかない、でもそれだけは自分が持っていること。世界から遠ざかり、それを感じようとも、働きかけようともしなかった、そんなボクに唯一その数字を持つことは許された。
――それがせめてもの救いだったかな。まだボクは受動態な生活をしている。なかなか自分から動き出せない。臆病で、引っ込み思案で、なんでも自分が悪く考えてしまう。他人にちょっかい出すのは好きみたいだけど、いざ自分のこととなるとまったくだめでね。言うだけってのが、無責任だけど、楽だってこと知っているから」
奴はちょっと苦笑して、それだけを言うとふぅっとため息をついた。
「……そうかな」
不意に僕からこぼれ落ちた言葉。かすかなその一言だったが、奴がしっかり聞いてくれたことはわかった。
「なにも、そんなふうに自分を否定して考えなくて良いんじゃないかなぁ」
僕の中で何かが動き出す。今まで奥の方に隠れていたその何かが姿を現したかのようだった。
「一っていう数字、たぶん僕だって同じだと思う。自分が生きてきた十六年間、別に何か特別なことをしたわけじゃないし。でも、だからといって、この世界にいようがいまいが世界にとって同じだとは限らないんじゃないか? 誰かにとって有益で、何かにとって利益が出るという理由で存在が左右されるのは変じゃないか。もし暗黙の了解でそういうルールがあったとしたら……そのときはたぶん、本人が気付いていないだけで、どこかで何かに貢献しているんだろう。少なくとも、人口という数字を構成するファクターとして。それだけじゃちょっと寒いかもしれないけど、まずはそこから。あとは自分で理由を探せば良いんだ」
ずっと押さえ込んできた言葉が歩き出す。世界の色が変わっていく。
「……なんだ《答え》持っているじゃん。ただ、時間が必要だった、それだけのこと」
奴は僕の出した答えに静かに耳を傾け、こくこくと頷き、ほっとしたような微笑みを浮かべた。
「な、思ったんだけど、どうしてそんなに自分を責めるような言い方するんだ? 自称明るい引きこもりだろ? 自分としっかり向きあえるんだし、少しプラス思考で考えていけば? 例えば……自分はこの世界でたった一つのオリジナルの存在だ、とか」
僕の言った台詞には奴は笑うだけで何も言わなかった。なんで答えようとしなかったのか、その理由を知ったのはずっと先のことだった。
奴はふと空を見上げた。つられて見上げた空には、どこかからはぐれてきてしまったような小さなちぎれ雲がぽつんと浮かんでいた。
「大事なことって、なんですぐに見抜けないんかなぁ」
「えっ?」
僕に訊いた訳じゃない、自分に問いかけているんだ。でも呟きにしてははっきりと聞こえる声だった。どこか悲しげで、淋しそうな……。
僕はその声にどきっとして奴を見た。が、奴はその声の感じとは関係ない元気そうな表情でこっちを見ていた。
「そろそろ時間だね。ここらで今日はおしまい。時給千円ってことで。これでいい?」
ポケットから四つ折りになっている千円札を取り出すと僕の前に差し出す。すっかり忘れていたことだが、奴の話を聞き終えればお金がもらえることになっていた。あくまでも噂の中での話だが。だがしかし……。
受け取らないで戸惑っている僕に、奴は怪訝な顔をした。
「これに期待してやってきたんだろ?」
そう、始めはそうだったのだ。友達からこの話を聞いて、興味本位で目の前にいる奴と出会った。話を聞いた。
(……でも、僕は……)
「……受け取れないよ」
どうして僕にそれを受け取ることができるのだろうか?
「まぁまぁ、受け取っておかないときっと後悔するだろうから、もらうだけもらっとけ」
にっと何か意味深げに笑んで、僕のポケットにお札をねじ込むと、今までののんびりした感じからは想像できない素早い動作でここを去った。慌ててその後を追ったのだが、クラスでも速いほうである僕の足でも奴に追いつくことはできなかった。
(恐るべし、明るい引きこもり……)
後日、千円の謎が解けた。携帯の請求料金が先月より千円増えていた。
これでプラスマイナス零円。
友達にこのことについて問いつめると「お金は現金でその場で払ってくれたんだろ?」と、へらへら笑いで答えられ、反論する気も失せた僕はそのまま引き下がった。
確かに、奴はお金を渡した。そしてそれは受け取っている。
そのことについては納得がいった。が、こいつは……。
友達にむいていた苛立ちは奴の方へと自然に向けられ、愚痴を聞いてもらうべく何度かあの場所で同じことを試した。だが、奴は二度と現れることはなかった。
一体奴は何者だったのだろう……?
ヒトは他にもすばらしい感覚を持っているというのに……。
* * *
「これは噂だよ」と友達に言われたのはついこの前の話。
今日ここに来たのはそれを確かめるため。だが……。
「さて……」
天気は快晴。暖かな春の風に柔らかな陽の光。
僕は大きく深呼吸をして、緑の息吹を感じた。そっと瞳を閉じゆっくりとあける。
(こわい気もするんだよな……)
気持ちになかなか踏ん切りがつかない。
何だってこんなところで迷わなくてはいけないのだろう?
決めたからこそここにいるはずなのに。
(ってか、マジでそんなやつが現れるのか?)
興味はあった。話を、それも自分が知りたいと思っていることを、ここに来た奴がべらべらと喋ってくれて、且つ、金をくれるという。そんなうまい話があるか?
迷いに迷うこと十五分。行ったり来たりしてうろうろしていた僕は、通りすがりの人々から挙動不審の怪しい人物に思われていたに違いない。
(よし)
「オリフタエノ オリフタエノ 我は汝を請う 故に我が前に汝の姿を現したまえ!」
小さく呟くこと三回。来るか? 来るのか?
一分、二分……そして五分が経過。なぜか無音になったこの公園の一角。
何も起こらない? まさか。ただ恥をかきに来ただけか? はめられたか? あいつに。
「あほくせっ……」
ちっと舌打ちをして僕はその場を離れようとした。―――そのときだ。
携帯から聞き慣れない着信音。どうやら僕のものかららしい。
おそるおそる電話を取って見ると、非通知と画面に表示されている。僕は急に早くなった鼓動を落ち着かせようと一度大きく息を吸って電話に出た。
「あ、あの……もしもし?」
「どーも今日和。明るい引きこもり、尾根篤弘です。どうぞよろしくー」
やたら明るい突拍子もない声は受話器ごしから、そして背後から聞こえた。
僕は慌ててその声のした方向に体をなおす。僕の目に映ったのは、噂通りの背格好をした優男だった。
「どうして気付いてくれないかなぁ。もっと五感働かせた方がいいよー。気配消していたつもりはないし、むしろ殺気を飛ばしていた勢いなんだが」
「は、はぁ……」
きょとんと突っ立っている僕に、奴、尾根篤弘と名乗ったその男はかけていた眼鏡を少し直してにこっと笑んだ。耳にあてたままの携帯からはツーッという音も止み、おとなしくなっていた。
ちょっと冴えないグレーのトレーナーにジーンズ。履き慣れた感じのスニーカー。飾り気のない銀色の薄いフレームの眼鏡をかけ、清潔感のあるさっぱりとした髪型。眉はいじってないが整った優しげなカーブを描いていて、ややたれ目の目尻は彼をおっとりとした人物に見させていた。よく見ると左耳に小さくて丸い銀色のピアスがついている。装飾品はそのくらいだろうか? 決して派手ではない、どこにでもいそうな青年の様子は僕が聞いたとおりだったので、驚きのあまりまじまじと見てしまった。
だが奴はそんな僕の様子が気にくわなかったらしい。ちょこっとむっとして、そして思い出したかのようににやりと笑んだ。
「あんたは自己紹介してくれないの? まぁ大体知っているけどねぇ。えぇっとたしか、名前はヤノ タカアキ、十六才」
ほう、よく知っているな。何者だ? 奴はそのまま続ける。
「……この近くの高校の二年生になったばかりで、成績は真ん中やや上ぐらいかな。大学をストレートで合格するにはちょっとまずいからって、今年度から予備校に通うことにしたんだってね。かわいそーに」
そーそー。うちのババァがうるさくてさぁ。もうやってらんないってーの。
「そうだ。もっと最近にも事件があったね」
う……それってまさか……。
僕は耳をそばだてた。
「ほら、一週間前に告白されたんだけどそれをふっちゃってさー、友達に『十年に一度のイベントをふいにしたな』なんて言われて、そのあと本命のコに……」
「あーっ! それ以上大声で言うなぁっ!」
僕は慌てて奴の口をふさいだ。
「ってか、どこでンな情報仕入れてくんだよっ!!自称引きこもりのくせに!!」
「ンーっ。他称通称、そんなとこ。でも、情報集めは基本でしょ?」
簡単に僕の手をどかすと、ちちちっと指を横に振って見せた。
「で、冷やかしなら帰ってくれない? 見たところ、そんなに困ってなさそうだし、進路相談や恋愛相談はやってないから。こっちも暇じゃなくてねぇ」
奴は言いながら自分の肩をとんとんと叩き、いかにも疲れた感じを装う。
「どこがだよ。暇だからこうしてでて来るんじゃないのか?」
むっとして言い返してやると、奴はつんっと僕の鼻を指さして応える。
「あまい。召喚に応じてやらないとこっちの評判が下がるだろう? どうせがせネタだ、なんて思われたら商売あがったりなんだから」
(は、何が商売だ。どーせまともに働いたことなんかない、はみ出し者のくせに)
「あー、ひどいことを思う人間だねぇ。人を呼びだしておいて罵るったぁ、いい根性してるな。どうせあんたも金目当てだろ? いいものだね、そういう生き方のできる奴はさぁ」
僕の心を読んだのか、奴は冷ややかな笑みを浮かべて一気にそこまで喋った。
何も言えずうつむいて黙り込んでしまった僕に、奴は続ける。
「……なーんてね。最近冷やかしが多くってさ、仕事にならなくていらいらしてたんだ。八つ当たりしてわりぃな。君の質問には答えるよ」
顔を上げた僕の目の前には奴の優しい笑顔があった。
「耳で聞こえているモノだけが音を持っているわけじゃない。目に見えるモノがすべてじゃない。知っているかい? 赤ん坊の耳はよく聞こえていないらしいんだ。ほら、トンネルの中で音を出したとき、くわぁんって反響して、言葉とかはっきり聞こえないことがあるだろう? あんな感じに聞こえているんだってさ。今こうして、誰がどんな声で喋っているとか判別がつくのは訓練したおかげなんだと。目の見えない人っていうのは、目で光を感じることができないというハンデを背負う代わりに触覚が発達するらしい。目の見える人が普通に点字に触れても、何が書いてあるかなんて分からないけど、彼等はその微妙な凹凸を言葉として理解できるのだから。あれはすごいって思う。そういえば、視力が弱い人の中には、動物の気配を感じることができる人もいるらしい。それってさ、きっと余計な光や音に惑わされていないからだよね」
奴はいきなり話の前後がまったく合わない話をはじめた。
なんであの会話のあとにこんな訳の分からない話をするんだ? ってか、僕の質問? 僕は何か質問しただろうか?
いろいろと疑問に思うことがあったが、奴の話に聞き入っていたのは嘘ではなかった。奴はそのまま話を続ける。
「今の人間って、なんか自分のことなのに別の誰かであるような錯覚をしていると思う。ちょうど映画館で何かを見ている感じかな。視覚と聴覚のみが世界に反応している。しかもそれがさも世界のすべてであるかのように。でも、本当は違うだろう? こうして会話、今は一方的に喋っているけど、そうしているときは、目の前に喋っている人間がいる、これは確かなことだ。でも、耳と目をふさいだら……たちまち自分は闇に閉ざされた音も届かない宇宙の中に放り出されたように錯覚を起こすかもしれない。だがそんなことはないはず。においとか、暖かさとか、そういうのも感じているから、ここがどっか陽の当たって、植物が近くにあるような場所らしいことが分かると思うんだ。でも、それも経験がないとそう感じられない。ほんとはもっと土のにおいとか緑のにおいとか感じておくべきなんだよね。泥の感触や流れている小川の水の冷たさとか、変な話、どのくらい強く殴ったらどんくらい相手が痛がってダメージを受けるのかも、小さい頃から知っておくべきことなんだよね」
何も言えなかった。僕は外でどろんこになったり、ずぶぬれになったりして遊んだ記憶がなかった。まあ部活とかでそれらに近い状態になったことはあるが。
「……箱の中で、何かを見せられているだけだよね、経験を得なかった人間は。そういう感覚を奇妙に思わないのかなぁ?」
……明るい引きこもりに何が分かるんだ? 僕よりも、何を知っているっていうんだ? なにが……。
「――今の自分は、まだ数字でしかないんだよね。家族の一員である、とか、ちょっと広げても自分の祖父母にとっちゃ孫の一人でしかないし。家族にこだわらなけりゃ、高校の卒業生の一人だったろうし、市民七万五三一二人中の一というカウンターを回すだけでしかない。国民の全人口を一億三千幾つっていう数にするための一でしかないんだ。思わないかい?
自分一人いなくたってこの世界は何もなかったかのように存在し得るってこと。
たとえボクが死んだって、現在の人口から一を引かれるだけ。だって一でしかないのだから。それ以外の何者でもないのだから。他に何かの役に立っているわけでもないし、突然にいなくなっても昨日と同じように今日という日が動き出し、明日をたぐり寄せる。すべてを過去に葬って、やがて何もなかったかのように振る舞う。おそらく何も変わらない。変わるのがこわいから。変えたくてもそれだけの力を生み出せないから。それすらおそれているから。ただの一という数字でしかない、でもそれだけは自分が持っていること。世界から遠ざかり、それを感じようとも、働きかけようともしなかった、そんなボクに唯一その数字を持つことは許された。
――それがせめてもの救いだったかな。まだボクは受動態な生活をしている。なかなか自分から動き出せない。臆病で、引っ込み思案で、なんでも自分が悪く考えてしまう。他人にちょっかい出すのは好きみたいだけど、いざ自分のこととなるとまったくだめでね。言うだけってのが、無責任だけど、楽だってこと知っているから」
奴はちょっと苦笑して、それだけを言うとふぅっとため息をついた。
「……そうかな」
不意に僕からこぼれ落ちた言葉。かすかなその一言だったが、奴がしっかり聞いてくれたことはわかった。
「なにも、そんなふうに自分を否定して考えなくて良いんじゃないかなぁ」
僕の中で何かが動き出す。今まで奥の方に隠れていたその何かが姿を現したかのようだった。
「一っていう数字、たぶん僕だって同じだと思う。自分が生きてきた十六年間、別に何か特別なことをしたわけじゃないし。でも、だからといって、この世界にいようがいまいが世界にとって同じだとは限らないんじゃないか? 誰かにとって有益で、何かにとって利益が出るという理由で存在が左右されるのは変じゃないか。もし暗黙の了解でそういうルールがあったとしたら……そのときはたぶん、本人が気付いていないだけで、どこかで何かに貢献しているんだろう。少なくとも、人口という数字を構成するファクターとして。それだけじゃちょっと寒いかもしれないけど、まずはそこから。あとは自分で理由を探せば良いんだ」
ずっと押さえ込んできた言葉が歩き出す。世界の色が変わっていく。
「……なんだ《答え》持っているじゃん。ただ、時間が必要だった、それだけのこと」
奴は僕の出した答えに静かに耳を傾け、こくこくと頷き、ほっとしたような微笑みを浮かべた。
「な、思ったんだけど、どうしてそんなに自分を責めるような言い方するんだ? 自称明るい引きこもりだろ? 自分としっかり向きあえるんだし、少しプラス思考で考えていけば? 例えば……自分はこの世界でたった一つのオリジナルの存在だ、とか」
僕の言った台詞には奴は笑うだけで何も言わなかった。なんで答えようとしなかったのか、その理由を知ったのはずっと先のことだった。
奴はふと空を見上げた。つられて見上げた空には、どこかからはぐれてきてしまったような小さなちぎれ雲がぽつんと浮かんでいた。
「大事なことって、なんですぐに見抜けないんかなぁ」
「えっ?」
僕に訊いた訳じゃない、自分に問いかけているんだ。でも呟きにしてははっきりと聞こえる声だった。どこか悲しげで、淋しそうな……。
僕はその声にどきっとして奴を見た。が、奴はその声の感じとは関係ない元気そうな表情でこっちを見ていた。
「そろそろ時間だね。ここらで今日はおしまい。時給千円ってことで。これでいい?」
ポケットから四つ折りになっている千円札を取り出すと僕の前に差し出す。すっかり忘れていたことだが、奴の話を聞き終えればお金がもらえることになっていた。あくまでも噂の中での話だが。だがしかし……。
受け取らないで戸惑っている僕に、奴は怪訝な顔をした。
「これに期待してやってきたんだろ?」
そう、始めはそうだったのだ。友達からこの話を聞いて、興味本位で目の前にいる奴と出会った。話を聞いた。
(……でも、僕は……)
「……受け取れないよ」
どうして僕にそれを受け取ることができるのだろうか?
「まぁまぁ、受け取っておかないときっと後悔するだろうから、もらうだけもらっとけ」
にっと何か意味深げに笑んで、僕のポケットにお札をねじ込むと、今までののんびりした感じからは想像できない素早い動作でここを去った。慌ててその後を追ったのだが、クラスでも速いほうである僕の足でも奴に追いつくことはできなかった。
(恐るべし、明るい引きこもり……)
後日、千円の謎が解けた。携帯の請求料金が先月より千円増えていた。
これでプラスマイナス零円。
友達にこのことについて問いつめると「お金は現金でその場で払ってくれたんだろ?」と、へらへら笑いで答えられ、反論する気も失せた僕はそのまま引き下がった。
確かに、奴はお金を渡した。そしてそれは受け取っている。
そのことについては納得がいった。が、こいつは……。
友達にむいていた苛立ちは奴の方へと自然に向けられ、愚痴を聞いてもらうべく何度かあの場所で同じことを試した。だが、奴は二度と現れることはなかった。
一体奴は何者だったのだろう……?
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