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第32話 居てくれてよかった
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家まで送るとうるさい悠を説得するのを諦めた史華は、彼の愛車に乗せられていた。美味しい食事で落ち着きを取り戻したところで、ふと思い出したことを訊ねる。
「あの……なんで、因幡さんがオリーブリーフコーポレーションの社員だとわかったんですか?」
あの時は混乱していて訊けなかったが、胸の奥で引っかかっていたことだった。
史華の問いに、悠はフロントガラスの向こう側に視線を向けたまま口を開く。
「あぁ。だって彼、社員証をつけていたでしょ? 会社のロゴを見てすぐにわかったんだ」
言われてみれば、因幡は社員証を首から提げていたような気がする。そんなところに瞬時に目が行くなんてなかなかに目敏い。
「取引先なんですか?」
「それは業務に関わることだから言えないな。史華ちゃんが社員だったら、教えて良いかもしれないけど」
こういう返事が返って来たということは、これから仕事をするパートナーになるかもしれないということだろう。実績に繋がっているものは悠からかなり紹介してもらったので、言えないとなるとそんなところではないかと推測する。
あんまり考えていなかったけど、あたしがしたいお仕事って悠さんの職場でもできるのかな?
史華のしたい仕事、それは工業デザインの仕事である。機能美を追求したり、誰でも使いやすいものを目指したりといったところに力を入れたデザインの仕事だ。芸術系の学部ではなく理工系の学部、それも無名大学出身であるため、史華の配属された研究室では推薦で大手や中堅の企業に就職することがとても多かった。
「史華ちゃんは転職活動中なの? リクルートスーツなんて、珍しいよね」
社員だったら、と言って気づいたのかもしれない。今度は悠が問いかけた。
「えぇ、まぁ」
悠は史華が清掃員をしているのを知っているが、就職活動をしていることは話してこなかった。事情を知らないのは当然だ。
プライベートなことなので話しづらく、史華は言葉を濁す。
「清掃員の仕事、嫌いなのかい?」
その問いに、史華は首を横に振る。
「いえ。やりがいのあるお仕事ですよ。早起きも苦じゃないですし、部屋が綺麗になるのは気持ちが良いですし、ありがとうって言ってもらえると嬉しいですから」
直接、感謝の気持ちを伝えられることは滅多に無いが、顧客満足度カードなどで清掃先の意見を聞く機会はある。そこでたくさんの褒めの言葉や改善して欲しい要望などを知るのだ。
「でも……あたしにはもっとやりたいことがあるんで」
悠ほどセンスがあるわけではない。だから、デザイナーとしての仕事を探しているとは言いにくかった。
そう思うと、目指している仕事に適性がないのかもな……。
理想の仕事に着く前に悠と出会って良かったのかもしれないと思う。自分のレベルを第一線で活躍している人と比較して垣間見ることができたのだから。
悠さんはデザイナーではないんだけどね。
少しでもイメージできるようになったことは良いことだ。彼に連れ回された経験も、今後の糧にすることができるだろう。
「史華ちゃんがやりたい仕事ってどんなお仕事?」
あえて濁したのに、悠がそこに興味を持つとは思わなかった。史華は焦る。
「えっと……」
「史華ちゃんは、誰かが喜んでくれることが好きみたいだから、そういう仕事をするのが良いんだろうね」
「え?」
誰かが喜んでくれることが好きなどと言われたのは初めてだった。悠がどんな顔をして言っているのかと見やると、慈しみの表情をしていた。
聞き返す史華に、悠は続ける。
「だって、自分のことを後回しにして、誰かが喜ぶことをしようとする傾向が強いじゃない」
「いえ、それは違いますよ。迷惑をかけないように、相手を下げないように、とは思っていますけど」
誰かのために率先するといった、自己犠牲の精神は持ち合わせていないと史華は思っている。相手のことを考えるのはそうだが、それは最終的には自分の身を守るためだ。
「同じことだよ」
否定する史華を、悠は優しく反論した。
同じには思えないけど。
納得ができなくて口を噤んだ頃には、周りの景色が見覚えのあるものに変わっていた。
「さぁ、着いたよ」
以前にも駐車した細い道に、深紅のクーペが停まる。こんな高級車が立ち寄るような場所ではないことに、いつも申し訳なさを感じる。
「史華ちゃん」
「また、お別れのキスですか?」
名を呼ばれたので先回りして問うと、悠の苦笑した顔が目に入った。
「それもあるけど、これをどうぞ」
渡されたのは名刺だった。白と黒のツートンカラーのシンプルなデザインだ。名前と携帯電話の番号、メールアドレス、ショートメッセージアプリのIDが印刷されている。
「プライベートの連絡先。デートもしたのに、教えてなかったなって思って。何か困ったことがあったり、寂しいと感じたら電話して。君の力になりたいんだ」
「そんなに弱っているように見えますか?」
名刺を突き返すようなことはしなかった。前の自分だったらそういう失礼なことも平然とやってのけたかもしれなかったが、今はその名刺がとてもありがたい御守りのように感じられて手離したくなかったからだ。
史華の虚勢を張った問いに、悠は史華の身体を抱き寄せて返した。
「すごく心配だよ。家に帰すのが不安になるくらいには。そばに居てあげたい」
告げられて、口づけをされた。触れるだけでは済まされない、大人の濃厚なキス。
「――気持ちだけでも、君のそばにいさせて」
「はい……今日は助けてくださってありがとうございました。本当に……そばに居てくれてよかった」
言葉ではうまく表現できなくて、史華は自分から彼にキスをした。少し触れるだけ。そして離れてにっこりと微笑んだ。寂しさと心細さで今にも泣き出してしまいそうな自分を奮い立たせるために。
「悠さん、次のデート、楽しみにしています。今日は、これで」
「うん。俺も楽しみにしているから」
惚けた顔をしていたように見えたのは気のせいだろう。
史華は何もなかったような素振りで悠に挨拶をし、車を降りる。彼に頼り過ぎないよう、早足で自分の家に向かったのだった。
「あの……なんで、因幡さんがオリーブリーフコーポレーションの社員だとわかったんですか?」
あの時は混乱していて訊けなかったが、胸の奥で引っかかっていたことだった。
史華の問いに、悠はフロントガラスの向こう側に視線を向けたまま口を開く。
「あぁ。だって彼、社員証をつけていたでしょ? 会社のロゴを見てすぐにわかったんだ」
言われてみれば、因幡は社員証を首から提げていたような気がする。そんなところに瞬時に目が行くなんてなかなかに目敏い。
「取引先なんですか?」
「それは業務に関わることだから言えないな。史華ちゃんが社員だったら、教えて良いかもしれないけど」
こういう返事が返って来たということは、これから仕事をするパートナーになるかもしれないということだろう。実績に繋がっているものは悠からかなり紹介してもらったので、言えないとなるとそんなところではないかと推測する。
あんまり考えていなかったけど、あたしがしたいお仕事って悠さんの職場でもできるのかな?
史華のしたい仕事、それは工業デザインの仕事である。機能美を追求したり、誰でも使いやすいものを目指したりといったところに力を入れたデザインの仕事だ。芸術系の学部ではなく理工系の学部、それも無名大学出身であるため、史華の配属された研究室では推薦で大手や中堅の企業に就職することがとても多かった。
「史華ちゃんは転職活動中なの? リクルートスーツなんて、珍しいよね」
社員だったら、と言って気づいたのかもしれない。今度は悠が問いかけた。
「えぇ、まぁ」
悠は史華が清掃員をしているのを知っているが、就職活動をしていることは話してこなかった。事情を知らないのは当然だ。
プライベートなことなので話しづらく、史華は言葉を濁す。
「清掃員の仕事、嫌いなのかい?」
その問いに、史華は首を横に振る。
「いえ。やりがいのあるお仕事ですよ。早起きも苦じゃないですし、部屋が綺麗になるのは気持ちが良いですし、ありがとうって言ってもらえると嬉しいですから」
直接、感謝の気持ちを伝えられることは滅多に無いが、顧客満足度カードなどで清掃先の意見を聞く機会はある。そこでたくさんの褒めの言葉や改善して欲しい要望などを知るのだ。
「でも……あたしにはもっとやりたいことがあるんで」
悠ほどセンスがあるわけではない。だから、デザイナーとしての仕事を探しているとは言いにくかった。
そう思うと、目指している仕事に適性がないのかもな……。
理想の仕事に着く前に悠と出会って良かったのかもしれないと思う。自分のレベルを第一線で活躍している人と比較して垣間見ることができたのだから。
悠さんはデザイナーではないんだけどね。
少しでもイメージできるようになったことは良いことだ。彼に連れ回された経験も、今後の糧にすることができるだろう。
「史華ちゃんがやりたい仕事ってどんなお仕事?」
あえて濁したのに、悠がそこに興味を持つとは思わなかった。史華は焦る。
「えっと……」
「史華ちゃんは、誰かが喜んでくれることが好きみたいだから、そういう仕事をするのが良いんだろうね」
「え?」
誰かが喜んでくれることが好きなどと言われたのは初めてだった。悠がどんな顔をして言っているのかと見やると、慈しみの表情をしていた。
聞き返す史華に、悠は続ける。
「だって、自分のことを後回しにして、誰かが喜ぶことをしようとする傾向が強いじゃない」
「いえ、それは違いますよ。迷惑をかけないように、相手を下げないように、とは思っていますけど」
誰かのために率先するといった、自己犠牲の精神は持ち合わせていないと史華は思っている。相手のことを考えるのはそうだが、それは最終的には自分の身を守るためだ。
「同じことだよ」
否定する史華を、悠は優しく反論した。
同じには思えないけど。
納得ができなくて口を噤んだ頃には、周りの景色が見覚えのあるものに変わっていた。
「さぁ、着いたよ」
以前にも駐車した細い道に、深紅のクーペが停まる。こんな高級車が立ち寄るような場所ではないことに、いつも申し訳なさを感じる。
「史華ちゃん」
「また、お別れのキスですか?」
名を呼ばれたので先回りして問うと、悠の苦笑した顔が目に入った。
「それもあるけど、これをどうぞ」
渡されたのは名刺だった。白と黒のツートンカラーのシンプルなデザインだ。名前と携帯電話の番号、メールアドレス、ショートメッセージアプリのIDが印刷されている。
「プライベートの連絡先。デートもしたのに、教えてなかったなって思って。何か困ったことがあったり、寂しいと感じたら電話して。君の力になりたいんだ」
「そんなに弱っているように見えますか?」
名刺を突き返すようなことはしなかった。前の自分だったらそういう失礼なことも平然とやってのけたかもしれなかったが、今はその名刺がとてもありがたい御守りのように感じられて手離したくなかったからだ。
史華の虚勢を張った問いに、悠は史華の身体を抱き寄せて返した。
「すごく心配だよ。家に帰すのが不安になるくらいには。そばに居てあげたい」
告げられて、口づけをされた。触れるだけでは済まされない、大人の濃厚なキス。
「――気持ちだけでも、君のそばにいさせて」
「はい……今日は助けてくださってありがとうございました。本当に……そばに居てくれてよかった」
言葉ではうまく表現できなくて、史華は自分から彼にキスをした。少し触れるだけ。そして離れてにっこりと微笑んだ。寂しさと心細さで今にも泣き出してしまいそうな自分を奮い立たせるために。
「悠さん、次のデート、楽しみにしています。今日は、これで」
「うん。俺も楽しみにしているから」
惚けた顔をしていたように見えたのは気のせいだろう。
史華は何もなかったような素振りで悠に挨拶をし、車を降りる。彼に頼り過ぎないよう、早足で自分の家に向かったのだった。
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