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第31話 心が弱っているときには
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悠が運転する深紅のクーペに乗せられて行った先は、株式会社ラブロマンスの近所にある小さな和食屋だった。
暖簾をくぐり悠が店員に顔を見せると、何も告げていないのに二階の個室に案内される。角部屋のそこは、都会の喧騒を忘れさせる静かな和室だった。
「――何があったのか、教えてくれるかな?」
店員が熱いお茶とお手拭きを置いて出て行くと、悠が切り出した。
問われて、史華は逡巡する。話したいと思ったが、どこをどう話したらいいのか、言葉がまとまらない。
「彼とは知り合いだって言っていたけど、どういう関係なんだい?」
史華が黙っていたので、悠が別の質問に切り替えてくれた。この質問なら答えられそうだ。
「……大学時代の先輩なんです。あたしが研究室に配属された時、因幡さんはマスターの二年生で、共同研究者だったんです……」
そこまで話して、自身の手がぶるぶると震えていることに気がついた。悠に悟られないように座卓の下に手を隠そうとすると、彼に握られてしまう。
温かくて心地良い……。
男の人の手が怖かった時期があった。それは因幡に与えられた印象が強烈だったからに違いない。因幡が卒業して、彼の存在を意識的に封印して、やっと立ち直ってきたところだったのだとわかる。
「そう。因幡にずいぶんと酷い目に遭わされたようだね。もう、この件については聞かないよ。君が話したくなったら、ちゃんと聞くから。相談していいからね」
悠は優しい。うんと頷くと、彼は安心させるように笑った。史華と因幡の間に起きた出来事を知りたいと思っているはずなのに、史華が怯えていることを察して待つ選択をしてくれた。自分のことよりも相手を尊重することが、こういう時にできるのは格好良い。
ダメだな、あたし。弱っているのね。絆されそうになっている。
ピンチを救われたことで、悠を頼ろうとしている自分を意識する。こんなことで相手を好きだと錯覚してしまうのは良くない。
でも。
史華は思う。付け入るなら今だろうに、そういう気配をさせないなんて、と。
「美味しいものでも食べて、リフレッシュしよう。俺も会議で頭使って疲れたし、付き合ってくれるよね?」
言葉を選んだ強引さが心地よく思えてしまう。そんな気持ちになっているのがわかると、いよいよ末期だなと感じた。もう流されてしまいたい。
「良いですよ。ワリカンなら」
せめてもの抵抗を見せる。現実としてはお財布事情は心許ないのだが、弱っている自分に活力をいれるのも大事なことだ。ここは奮発しよう。それで元気になれるなら安い物だ。正直、この鬱々とした気持ちのまま一人暮らしの部屋に帰る気にはなれない。
「史華ちゃんは本当にしっかりしているねぇ」
呆れさせてしまったらしい。悠は苦笑したが、安心したらしい声色である。いつもの史華らしい返事に、ほっとしたのかもしれない。
「良いんだよ? お金持っている相手に集っても。ましてや、俺と君は真面目な交際中なんだから」
「そういうの、許せない質なんです」
「うん。知ってる」
優しく笑う。悠のするこういう時の顔が好きだ。母親が幼子に向ける表情みたいな、そんな顔が。
胸がときめいた。史華は素早く視線を外すと、用意された湯呑を手に取って啜る。
だめだめ。弱りすぎよ! 相手が悠さんだからって、油断しすぎ!
慌てると、悠のくすくす笑う声が聞こえた。
「史華ちゃん、可愛い。真っ赤だよ」
「お、お茶が熱かっただけですから」
お茶は確かに熱かったのだが、それが直接的な原因ではないことぐらい自分でもわかっている。
心苦しい言い訳に、悠はますます笑った。
「素直に落とされれば良いのに」
「口説かれていないのに落とされるのは癪です」
「じゃあ、口説いてあげようか?」
「え?」
耳の傍で囁かれて、肌が騒つく。向かい合わせに腰を下ろしていたのに、いつの間にか近づかれていた。座卓の上に身体を乗り出してきたようだ。
「仕事も早く片付いたことだし、史華ちゃんさえよければウチに寄らないかい? 心と身体の両方を癒す新商品のサンプルをもらってきたところなんだ。君で試してみたい」
耳元で甘く囁いてくる。触れられていないのに、全身が火照るのを感じた。
二人きりの部屋。ベッドに寝転び、彼の手で身体が解されていく様が脳裏をよぎる。
「……えっと」
拒む言葉が浮かばない。こんなことは初めてだ。
「史華ちゃん――」
名前を呼ばれただけなのに、胸がきゅんとした。本当に一緒にいても良いのだろうか。
「あたし……」
そこで、襖が叩かれた。悠がすっと何事もなかったように離れていく。それを寂しいと感じてしまった自分は重症だと思う。
失礼します、と告げられて襖が開けられると、焼き魚の香ばしい匂いが部屋に入ってくる。焼き魚、刺身、根菜の煮物などなど、座卓に並べられた和食膳は手の込み具合がよくわかる品で構成されていた。見た目が華やかで、食欲をそそる。
「美味しそう」
香りに刺激されて、お腹がぐぅと鳴ってしまった。恐怖と緊張で何処かに行っていた空腹が帰ってきたらしい。元気が戻ってきた証拠だ。
店員が去ると、再び二人きり。さっきの妖しいムードがぶち壊しなのだが、反応に困っていた史華としてはありがたかった。
「美味しいうちに食べようか」
「はい!」
悠に促され、史華は笑顔で頷く。こうして食事を始めるのだった。
暖簾をくぐり悠が店員に顔を見せると、何も告げていないのに二階の個室に案内される。角部屋のそこは、都会の喧騒を忘れさせる静かな和室だった。
「――何があったのか、教えてくれるかな?」
店員が熱いお茶とお手拭きを置いて出て行くと、悠が切り出した。
問われて、史華は逡巡する。話したいと思ったが、どこをどう話したらいいのか、言葉がまとまらない。
「彼とは知り合いだって言っていたけど、どういう関係なんだい?」
史華が黙っていたので、悠が別の質問に切り替えてくれた。この質問なら答えられそうだ。
「……大学時代の先輩なんです。あたしが研究室に配属された時、因幡さんはマスターの二年生で、共同研究者だったんです……」
そこまで話して、自身の手がぶるぶると震えていることに気がついた。悠に悟られないように座卓の下に手を隠そうとすると、彼に握られてしまう。
温かくて心地良い……。
男の人の手が怖かった時期があった。それは因幡に与えられた印象が強烈だったからに違いない。因幡が卒業して、彼の存在を意識的に封印して、やっと立ち直ってきたところだったのだとわかる。
「そう。因幡にずいぶんと酷い目に遭わされたようだね。もう、この件については聞かないよ。君が話したくなったら、ちゃんと聞くから。相談していいからね」
悠は優しい。うんと頷くと、彼は安心させるように笑った。史華と因幡の間に起きた出来事を知りたいと思っているはずなのに、史華が怯えていることを察して待つ選択をしてくれた。自分のことよりも相手を尊重することが、こういう時にできるのは格好良い。
ダメだな、あたし。弱っているのね。絆されそうになっている。
ピンチを救われたことで、悠を頼ろうとしている自分を意識する。こんなことで相手を好きだと錯覚してしまうのは良くない。
でも。
史華は思う。付け入るなら今だろうに、そういう気配をさせないなんて、と。
「美味しいものでも食べて、リフレッシュしよう。俺も会議で頭使って疲れたし、付き合ってくれるよね?」
言葉を選んだ強引さが心地よく思えてしまう。そんな気持ちになっているのがわかると、いよいよ末期だなと感じた。もう流されてしまいたい。
「良いですよ。ワリカンなら」
せめてもの抵抗を見せる。現実としてはお財布事情は心許ないのだが、弱っている自分に活力をいれるのも大事なことだ。ここは奮発しよう。それで元気になれるなら安い物だ。正直、この鬱々とした気持ちのまま一人暮らしの部屋に帰る気にはなれない。
「史華ちゃんは本当にしっかりしているねぇ」
呆れさせてしまったらしい。悠は苦笑したが、安心したらしい声色である。いつもの史華らしい返事に、ほっとしたのかもしれない。
「良いんだよ? お金持っている相手に集っても。ましてや、俺と君は真面目な交際中なんだから」
「そういうの、許せない質なんです」
「うん。知ってる」
優しく笑う。悠のするこういう時の顔が好きだ。母親が幼子に向ける表情みたいな、そんな顔が。
胸がときめいた。史華は素早く視線を外すと、用意された湯呑を手に取って啜る。
だめだめ。弱りすぎよ! 相手が悠さんだからって、油断しすぎ!
慌てると、悠のくすくす笑う声が聞こえた。
「史華ちゃん、可愛い。真っ赤だよ」
「お、お茶が熱かっただけですから」
お茶は確かに熱かったのだが、それが直接的な原因ではないことぐらい自分でもわかっている。
心苦しい言い訳に、悠はますます笑った。
「素直に落とされれば良いのに」
「口説かれていないのに落とされるのは癪です」
「じゃあ、口説いてあげようか?」
「え?」
耳の傍で囁かれて、肌が騒つく。向かい合わせに腰を下ろしていたのに、いつの間にか近づかれていた。座卓の上に身体を乗り出してきたようだ。
「仕事も早く片付いたことだし、史華ちゃんさえよければウチに寄らないかい? 心と身体の両方を癒す新商品のサンプルをもらってきたところなんだ。君で試してみたい」
耳元で甘く囁いてくる。触れられていないのに、全身が火照るのを感じた。
二人きりの部屋。ベッドに寝転び、彼の手で身体が解されていく様が脳裏をよぎる。
「……えっと」
拒む言葉が浮かばない。こんなことは初めてだ。
「史華ちゃん――」
名前を呼ばれただけなのに、胸がきゅんとした。本当に一緒にいても良いのだろうか。
「あたし……」
そこで、襖が叩かれた。悠がすっと何事もなかったように離れていく。それを寂しいと感じてしまった自分は重症だと思う。
失礼します、と告げられて襖が開けられると、焼き魚の香ばしい匂いが部屋に入ってくる。焼き魚、刺身、根菜の煮物などなど、座卓に並べられた和食膳は手の込み具合がよくわかる品で構成されていた。見た目が華やかで、食欲をそそる。
「美味しそう」
香りに刺激されて、お腹がぐぅと鳴ってしまった。恐怖と緊張で何処かに行っていた空腹が帰ってきたらしい。元気が戻ってきた証拠だ。
店員が去ると、再び二人きり。さっきの妖しいムードがぶち壊しなのだが、反応に困っていた史華としてはありがたかった。
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「はい!」
悠に促され、史華は笑顔で頷く。こうして食事を始めるのだった。
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