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懐尽きて
温泉つきの宿なので、お風呂は広いです。
しおりを挟むあたしたちが泊まることにした宿の浴場は、部屋や食堂がある本館から少し離れたところにある。この町には温泉水の流れる川があり、そこに風呂を設けているためだ。風呂と本館が離れているためにここの宿泊費は安いらしかった。
「うんうん。温泉ってなんだか良いわね」
角灯で照らされた浴場の入り口が見えてくると、温泉特有の鼻につく香りが強くなってくる。食後の時間なので混雑しているんじゃないかと思ったが、意外とすれ違う人は少なかった。
「はしゃぎすぎて転ぶなよ?」
隣を歩くマイトが笑いながら注意してくる。どうもかつての合宿での出来事を思い出したらしい。
「もう子どもじゃないんだから、そんなことで転んだりしないわよっ!」
初めての合宿のとき、合宿所の広い風呂場に感動して走り回り、結果、滑って派手に転んだ。以来、参加のたびにその話をされるはめになったわけだが。
あたしは小さく膨れて、ぷいっと横を向く。
「――そうそう。マイトこそ、女湯を覗くんじゃないわよ?」
「俺が覗くと思うのか?」
意外そうな感じに逆に問われ、あたしは小さく肩を竦める。
「思ってない。決まり文句だから言っただけ」
「そう。なら良かった」
入り口にたどり着く。あたしたちはそこで立ち止まり、向き合った。
「風呂から出たらここで待ち合わせだ。独りで勝手に帰らないこと。いいな?」
「わかってるわよ。心配性ね」
マイトに仕切られるとなんだか面白くない。今まで頼られるのはあたしで、頼ってくるのはいつだってマイトだったのだから。
――もう彼が頼ってくれるような日は来ないのかな……。
どこか胸の奥が苦しくなって、あたしはくるりと向きを変える。
「じゃ、またあとでね」
「お、おう」
分かれて扉に向かう。この妙な気持ちを勘付かれていませんようにと、ただひたすら願った。
脱衣所にも誰もいなかったが、風呂場自体にも人はいなかった。
――貸切かしら?
木製の板に囲まれた空間は湯気で煙っている。石で仕切られた湯船にも人の姿はない。十数人が一度に入れそうな充分な広さがあった。
「珍しいわね……」
食堂にいた人の数を考えると、今の時間に風呂に入ろうと考える人もいると思うのだが。それとも、食事の前に入浴を済ませてしまった人が多いということだろうか。
「ま、どっちでもいっか」
呟いて、身体についた汗や埃を流す。この暑さの中馬車に乗っての移動は蒸して仕方がない。きちんと汚れを流しておかなければ、すぐに臭うことだろう。そんなことを考えて、ふと思い出す。
――なるほど。ステラの香水は汗の匂いを紛らわすためか。
ただのお洒落ではなさそうだという事に気がつく。良いところのお嬢さんであれば、たしなみということだろう。貧乏な農業主体の町の娘のあたしには似合わないものだ。
――大体、香水なんてつけていたら戦闘の邪魔だし。存在が丸分かりじゃない。
接近戦を好むあたしが、自分の位置をわざわざ敵にばらすようなことをするのは得策ではない。やはり女のコらしさはあたしには不要だ。
――マイトはあたしのことを好きだって言ってくれるけど、どこが好きなんだろ? クロード先輩もあたしに異性として見てくれ、だとか言っていたけど……。
二人のことは人間として好きだ。正直者だし、真面目だし、あたしを裏切るようなことはしないと信じられる。それぞれに見習いたいと思うところもあるし。
しかしそれは、異性として好きかと問われればまた話は別だ。何がどう違うかはうまく言葉で説明できないが、違うといったら違う。そう感じるのだから間違いない。
――いや、ルークも変なこと言っていたけどさ……抱かれたいかどうかも、異性としてどうこうとも違う気が……。
うーん、と唸って、あたしは熱い湯船に浸かる。ずっと座ったままで固まっていた身体がほぐれていく。
――まぁ、メアリの一件で、マイトにしてもクロード先輩にしても、あたしを抱いてみたいとは思ったことがあるらしいと判明したわけだが。
あたしは大きく伸びをする。そしてふと自分の胸に目を向ける。ほのかに赤く、柔らかそうな膨らみが二つ並んでいる。なんとはなしに掴んでみて、掴めるだけの大きさはあることを確認する。
――なんで女の子に生まれてきちゃったかなぁ……。あたしは、マイトとも、クロード先輩とも、ずっとこのままの関係が良かったのに……。
男の子だったらきっと、こんなことを考えなくても良かったはずだ。ずっと仲良く、隣で笑い合うことができたはずだ。戦場でも、きっと並んで戦えたはずだ。
――寂しいな……。
近くにいるはずなのに、遠くに感じられる。男の子と女の子はこうも違うものなのだろうか。
あたしはずぶずぶとお湯の中に沈む。口元を沈めて息を吐き出すと、ぶくぶくと泡が立った。
と、そのときだ。
あたしはさっと立ち上がって近くにあった桶を投げる。桶は中空で静止した。
「そこにいるのは誰?!」
浴槽と壁を作っている板との間。その中途半端な位置にあたしの投げた桶が止まっている。
「このまま無視されるかと思っていたが――さすがは僕が選んだ選出者だな、と言っておこうか」
やがて姿を現したのは黒尽くめの男、ルーク。
「あ、あたしがなかなか一人にならないからって、女湯に登場する?!」
慌ててあたしは白く濁ったお湯の中に身体を沈める。彼の台詞からすれば、最初っからそこにいたようなので隠すのは遅すぎるような気がしないでもないが――恥ずかしいもんは恥ずかしいもんねっ!
「見張りだよ、見張り。覗きに来たわけじゃない。他の選出者に襲われるかもしれないからな」
「へ……変態……」
「どう思われようとも構わんよ」
答えて、彼は桶を指先でくるくると回し始める。視線をあたしから別の場所に向けたのは彼なりの配慮のつもりだろうか。
「――あの……くつろげないのですが……」
「だろうな」
「だろうな、って、あんたねぇ!」
しれっと返してきたルークにあたしは睨んで文句をつける。彼は回していた桶を止め、ぽとりと水面に落とした。
「君が休めるかどうかは、あいにく僕には関係ない。しかし、ここを貸し切り状態にしたのは僕の力なんだが?」
――ん、それはどういうことだ?
あたしは苛立ちを抑えて思考を働かせる。
「――用事でもあるの? あたしは聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「なら、僕の用件は後回しで。先に君からどうぞ」
勧められて、あたしはまずどこから聞こうかと考える。そこでまずこれを訊ねることにした。
「――陽光の姫君って名乗る選出者に出会ったわ。サニーとメアリの二人組よ。彼ら、星屑の巫女には先を越されるわけには行かないって言ってどっかに消えちゃったわ」
「あぁ、他の選出者に会ったのか」
ルークの口調からは感情が読み取れない。初日に出会ったときと同じように顔も布で覆っていたので、表情も不明だ。
「で、聞いておきたいんだけど、ルークは陽光の姫君と星屑の巫女のどっちに神を倒して欲しいわけ? そのうちまたどっちかには会うと思うんだけど、どう対応したらいいのかわからなくて」
良き使いを神の側近にしたいと願っているとルークは告げていたはずだ。ならばどちらがその相手なのか知っておきたい。無駄な衝突は避けるに限る。
「月影の乙女である君の目にはどう映った?」
「どうって……」
まさかそんな台詞で返されるとは思っておらず、あたしは言葉を詰まらせる。
「サニーはあなたを敵視しているみたいだけど、星屑の巫女たちには絶対に抜かれたくないといった感じもあったわね。――それに、まだあたしは星屑の巫女に会ってないし、どうと言われても……」
そう答えると、ルークは自身の口元にそっと手を添えてくすくすと笑い出す。常にどこか冷たい空気をまとっている彼には似合わない笑い方だ。
「――なるほどね。他に、サニーは何か言ってなかったか?」
「他に? えっと……」
あたしは懸命に思い出す。あんまりあの日のことは思い出したくないが、ルークから情報を引き出せるのなら致し方ない。
「あたしが自分のことを保険のようなものだって説明したら、ルークが考えそうなことだとか何とか言って、慌ててどこかに向かったの。たぶん、星屑の巫女を探しに行ったんだと思うんだけど――」
「そうか。いやはや、彼も物分りの良い男だね。計画通りといったところか」
嬉しそうな声でルークは言う。あたしはその台詞に引っ掛かりを覚えた。
――計画?
「……ルーク、あなた、本当は何を企んでいるの? それに、どうやって神を倒せばいいのよ? あたし、何も聞いてない」
「君は君のままで構わないよ、月影の乙女」
そしてルークは水面を歩き出す。その動きをじっと目で追っていたが、唐突に消失。その気配はすぐあたしの真後ろに現れた。
「!」
首筋に触れられて、あたしは身体をびくりと震わせる。しかしそれ以上身体を動かすことはできなかった。殺気に似たピリピリとした空気が、あたしから自由を奪う。
「大分満ちてきたようだね」
彼が指先で撫でているのがあの痣であることに気付く。確かに、最初に見たときよりは広がっているように思えた。まるで、月が満ちているかのように。
「満ちてくると……どうなるわけ……?」
ごくりと唾を飲み込んで訊ねる。触れていた指がそっと離れていく。
「――神を倒せるだけの力が手に入る」
「じゃあさ……今回の選出者の全員がその資格を失った場合、この世界はどうなってしまうわけ?」
「さぁ、僕は知らないな。前例がないんで」
なるほど、前例がないという理由なら頷いてもいいかもしれない。そう思いながらも、あたしはさらにその質問に付け加えた。
「でもさ……興味があるんじゃないの? 選出者全員が神を倒せなかった場合の台本がどうなっているのか」
「――実に面白い問いだ」
少しだけ間があって、愉快げなルークの声が返ってきた。あたしは精神を集中させて、気合で振り向く。
そこにあったのは太陽と同じ色の髪と空色の瞳を持つ整った顔。彼の頭を覆っていたはずの黒い布がいつの間にか取り払われている。
あたしは彼がどうして顔を晒したのか疑問に感じながらも、台詞を紡ぐことを優先した。
「あなたの目的は神の代替わりじゃなくて――んっ!?」
言いきる前に、あたしは口をふさがれた。
完全な不意打ち。
だって、ルークが口づけをしてくるとは思わないじゃない。この状況下で。
「――余計な詮索は無用だよ?」
夏の空に見えていたはずの彼の瞳に、真冬の凍て付く曇り空のような色が滲む。彼の両手はあたしの頬をしっかりと固定し、顔をそらすことができない。
「何故、神の使いが男性で、選出者が女性なのだと思う? ――僕でも君から選出者としての資格を奪うことは可能だということを肝に銘じて置くといい」
「……」
明らかにルークは今期の選出者の争いに乗じて何かをしようと企んでいる。
「……そ……それだけの力を持っているならさ、殺せばいいんじゃないの? そんな回りくどいことはなしに、一思いに命を奪えば?」
心臓が強く脈を打つ。緊張しているのは、ルークに口づけをされた所為だけではあるまい。真実に近付いて身の危険に晒されている――そういう危機感から来るもの。
「それができるなら、僕は君を選ばない」
「……どういう意味よ?」
「この状況でもなお、君は僕に問うのかい?」
「問うわよ。あたしは本当のことが知りたいだけなんだから」
「良い瞳だ。僕はそういう愚かな人間の目がたまらなく好きだよ。非力であることを知っていながらも、挑まずにはいられないところが、とてもね」
ルークは口の端を上に持ち上げて笑みを作ると、あたしの頬から手を離して立ち上がる。
「――あまり湯に長く浸かっていると逆上せるよ? あの少年も気にしてここにやってくるんじゃないかな」
確かにその通りだ。あたしは湯船の縁にもたれかかるようにしてルークを見上げる。
「時機が来たらまた顔を出そう。それまではくれぐれも資格を失うことのないように」
引き止める言葉が浮かばなかったあたしは、消えていくルークを見送ることしかできなかった。
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