8 / 11
第1章 メイズ
対峙
しおりを挟む
地面が見えた。うっすらと開いた瞼の間からそれだけが見える。
土の床の冷たい感触とともに、足首の痛みと、ぬるりとした生暖かい液体が纏わりついている感じが脳に伝わる。口の中に広がる、錆びた鉄の味。かなり出血したらしい。倦怠感が襲ってくる。
(あの子も加減してくれなかったんだなぁ)
心の中で大きな溜息。彼女が術を少し改変していることは、聞いているうちに気付いていた。
(何の話をしているんだろうか……)
ようやく音が入ってきた。少女と男女二人組の声。どちらも知っているものだ。
「――モルゲンロートから来たという使節団一行。あなた方の役目を、私は知っております」
シエルの声だ。震えているように思えるのは、気のせいだろうか。さらに彼女は続ける。
「生け贄となる人間が自ら命を絶つのを見守るためです。モルゲンロートには、龍神に仕える者たちが集い、日々学問に励んでいると聞き及んでおります。あなた方の、そのマントに描かれた紋章、そして同じ意匠の片耳の耳飾、そして帽子……、それらは『監視』の役目をする者のみが許されているものだと教えられました」
そう告げるシエルに、男が「ふっ」と声を噴き出したのが聞こえた。この声は魔導師とともに来たという従者の一人であろう。ヘイゼルは会ったことがあったのだが、名前は聞いたことがなかった。顔を合わすたびに命の取り合いをしてきたのだ、自己紹介など必要ない。そんな男の笑いが、室内に響き渡る。
「ははははは、あぁ、傑作だ。まさかこんな興味深い場面に遭遇するとは思わなかった」
「なに? それは神官から聞いたの? 過去に生け贄として選ばれかけたあの男が」
続いて聞こえてきたのは女の声。化け物と化した神官を倒したあとに現れたあの女の声だ。彼女もまた魔導師の従者だったはずだ。
(とにかく、あいつらが攻撃してくる前にどうにかしないと……)
ヘイゼルは小さく呪文を唱える。
少女は彼が起きたのに気付いたようだ。口元を僅かに笑みの形にしたのがヘイゼルの目に入った。瞳の輝きに希望の光が差す。
「お父様は哀れな男です。悪の囁きなどに耳を貸さなければよかったものを」
ぎゅっと羊皮紙を握り締める。
「お父様のためにも私はここで引くわけには行きません。この街の民のためにも」
杖をすっと二人組に向けて振り下ろす。
「モノ・ウィリア・ルシール!」
予備詠唱を全て省略して放った術はヘイゼルに向けられた増幅用神聖魔法で、少女の強い意志を秘めた声に呼応して空間に描かれた魔法陣が光を放つ。
「アクア・スパロ・ストーク!」
少女の援護を待ち、地に伏して予備詠唱を唱え終えていたヘイゼルは二人組に向けて水の精霊魔法を放つ。
地を這うように伸びた蒼の水は小さな火花を放ちながら目標に向けて勢いをつけると急に立ち上がり飲み込む。
「リ・フロディ・ウォル!」
ぎしぃっ。
何かが軋む音。術を放ったのは銀髪の男だ。蒼い波を瞬時にして相殺したらしかった。咄嗟に放った術であるにもかかわらず、その力は安定している。
「ちっ」
不意打ちを狙ったはずがまったく奏していない様子にヘイゼルは舌打ちし、飛び起きて体勢を整える。シエルの傍に寄り添うように、攻撃の構えで立つ。
シエルはヘイゼルを気遣う言葉はかけず、次の攻撃のために援護魔法の予備呪文を唱え始めている。
ヘイゼルもその旋律を聞き取って、何も言わずに呪文詠唱に入る。
「温いね。まだまだ甘いよ、君も。わざわざあの方が出てくる必要もないね」
さらさらと流れる銀髪を手で払うと、次の瞬間にはその手の中に暗い闇色の剣が出現した。まったく呪文を唱えた様子はない。この男はいくつかの使い慣れた術なら、何の予備動作や呪文がなくても出すことができた。それだけ慣れていたともいえたし、魔力の容量の違いともいえた。が、それ以上に違うことは――。
「二人もろとも、ここで消えてもらうよ!」
ふわりと体が宙に浮かんだかと思うと、数瞬のうちにシエルたちの前に現れる。
「ジ・グラウト・アス!」
「アクア・デス・ライド!」
翠の光が二人を包む。
銀髪の男の黒い剣が二人を薙ぐ。
それをヘイゼルが術によって生み出し集めた水の拳で受け止める。
互いの力が強い風を生み、弾かれるようにして後方に機敏に飛び退いた。
「モノ・グラウト・アス!」
間髪いれずに、ヘイゼルが着地をしたところでシエルが防御用神聖魔法を放つ。翠の光がヘイゼルを包む。
「あら、相手を気遣ってばかりでいいのかしら?」
シエルの耳元で囁かれる、ねっとりとした女の声。
素早くシエルは体の向きを変えた。
「ディ・ス・ジ・マジク!」
すぐ後方にいた女は、振り向いてがら空きになった腹部に向けて術を放つ。黒い球体がはじけ飛んだ。
避けられるような時間は全くない。まともに食らってシエルは地面に叩きつけられた。赤いしみのついていた白の法衣がさらに赤く染まる。じわりと、なんて生ぬるいことはなく、さぁっと水面に波紋が広がるかのように土の床に赤い花が咲く。
「ルプス・ポルタ・ワスターレ!」
ヘイゼルは、目標を対峙していた銀髪の男ではなく赤髪の女に向けて放つ。ヘイゼルの足元に闇を吐き出す魔法陣が出現したかと思うと、彼が目標にまっすぐと向けた手のひらから強烈な力の塊が湧きあがり、動き出す。それは目標に向かって瞬く間に突進し、その形を整えていく。
召喚獣だ。鋭い牙を持つ、真っ黒な獣。それは大人の背丈の二倍をゆうに越える大きさを持って、女を飲み込もうとする。
女も応戦すべく術を唱えるが間に合わない。
銀髪の男がすばやく言い放つ。
「リ・アクマジ!」
女を包む術の薄い法壁はヘイゼルの呼び出した獣の力の前では無力で、パリンと薄い氷が砕けるような音を立てて崩れ去る。
「くっ」
消えた黒の獣のあとには、何とか耐えた女の姿。マントは所々破れ、肌の露出した部分は赤く染まっている。額からも赤い筋が延びていた。
「エクエス・ポルタ・ワスターレ!」
息つく間もなく女に向けて再び召喚魔法を放つ。
それを予想していたのか、銀髪の男は術者であるヘイゼルに向けて闇の刃を突き出す。
「誰が甘いって?」
ヘイゼルの口元が綻ぶ。瞳が紅く光る。
銀髪の男が怯んだ。手元が狂う。
「ドラコー・ポルタ・ワスターレ!」
呼び出した最初の召喚魔は闇色の馬に乗った黒い衣装の騎士で、その手には大きな槍を構え、その姿を捉えたかどうかというときにはすでに女の間合いに入り込んでいる。もちろん、避けられるわけがない。
次に呼び出したのは同じく闇色の瞳を持つ流れ。身を裂かれそうな殺気の持ち主は精神だけを持つ者で、形を持っていない。人間はこの形を持たぬものを龍と呼んだ。
「くそっ」
銀髪の男は勢いがついていたために自ら術の中に飛び込むような形になる。しかし、触れるか触れないかのところで姿を消す。
一方の女も、掠りはしたもののやはり姿を消していた。
「……逃がしたか」
ヘイゼルは足首に巻かれた紐をおもむろに引きちぎる。それらはいとも簡単に解くことができた。
(血で血を洗い流すってことか?)
動き回るうちにシエルの血液に触れた足首の呪符が、その効力を失ってしまったのに気付いたのだ。それで精霊魔法からより強力な召喚魔法を使うことにしたのである。
ヘイゼルはあたりの様子を再度確かめると、倒れているシエルに駆け寄った。
シエルの周りはその少女の血で赤に染めあがっている。身に付けていたマントもその血を吸っていてかなり重い。
ヘイゼルはゆっくりと抱き上げる。呼吸も、心臓も止まっている。いわゆる、死。
(まだ、間に合うだろうか)
少女の傍に落ちた魔法陣がまだ光を残している。
迷っている時間はない。ヘイゼルは冷静に言葉を紡ぐ。
歌のような旋律。
ヘイゼルは静かに言の葉をなぞる。
風の囁きにも似た穏やかな声。
祈りにも似た呪文。
魔法陣から光がふわりと抜けて、少女に宿った。
翠の柔らかな光が包んでいる中、ヘイゼルの腕の中でシエルは息を吹き返した。
「けほっけほっ」
軽く咳き込むと、少女はゆっくりと目を開ける。
ヘイゼルはまだ呪文の詠唱を止めない。
どのくらいそうしていただろうか。彼女の体温が回復してきたのを感じて、ヘイゼルはやっと歌をとめて声をかけた。
「大丈夫か?」
少女は小さく頷く。身体の自由が戻ってきたらしい。彼女は自分の力で起き上がって見せた。
「ったく……。無茶してくれるよ、君は。こっちは本気で死ぬかと思ったぞ」
面倒くさそうに頭を掻きながら言う。
「まずは感謝してほしいものです。こちらも魂が抜けていますし」
大げさに肩を竦めて見せる。かなり回復したようだ。
「大体、神は人間を喰うようなまねはしないと言っておきながら、神の力に触れるためには一度身体から魂が抜けなきゃいけない、つまり仮死状態にならないといけないだなんて聞いていませんよ!」
身につけていた重いマントを外しながら、シエルはむっと頬を膨らまして言う。
「え? 知っていたから俺を半殺しにしたんじゃなかったのか?」
呆れたというような口調で、でもあまり感情的にならないよう抑え気味にヘイゼルは問う。
「あれはまぁ……事故みたいなものですよ」
冷たい笑顔を浮かべてさらりと流す。
(事故……)
ヘイゼルは言いたいことがまた増えてしまったことに、多少苛立ちながらも問うのをやめる。あまり深く聞いてはいけないような気がした。
「……とりあえず、まだあいつらは倒したわけじゃない。近くに潜伏していると思う。これからどうするのがいい?」
気を取り直し、冷静さを前面に出して問う。
「そうですね……策といえるものは私にはありません。この場所に溜まっていた法力も全て使い果たしてしまいましたし。これで私が伏せてきた策は皆無です」
シエルもようやっと落ち着きを取り戻したらしく、熱っぽく語っていた口調が穏やかになる。少し紅くなったのは自分の行いに恥じらいを感じた所為か。
「うむ。そうだな……」
この場所は緑の古代文字で描かれた、何かの儀式を行うような空間だ。中央には聖水を溜める泉が設けられており、入り口から最も遠いところには数段高くなった部分がある。どうやら祭壇とはここであったらしい。入ったときから異常なほどの法力を感じ取っていたのだ。だからあの二人の追っ手も簡単に足を踏み入れることができなかったのだろう。
「魔力も解放されたことだし、張り切って元凶を倒しに向かうのもよいけどな」
手首をさすりながら提案を始める。
「ここに用事がないとすれば、別の場所に移動したほうがいいかもしれない。あいつらも黙っちゃいないだろう」
「……そうですね。では、外に向かいましょう。ここから出るとすれば、身捧げの湖に出ることになると思いますが」
浮かない顔でシエルは一つの案を出す。そのときには重い衣装を何枚か脱ぎ捨て、軽装になっていた。かつては白かったはずの服が全て真っ赤に染まっているのには、二人とも思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。
「仕方ない。やつもそこで待っているだろうし」
閉口する様子でヘイゼルは呟く。
「そうと決まれば、早速行きましょう。道はわかります」
「よっし。あまり気乗りがしないけど行きますか」
片手を差し出して言うヘイゼルに、シエルは首を傾げた。
「歩ける?」
シエルは何も答えずにただ嬉しそうに微笑む。
「じゃ、案内よろしくな」
軽々と少女を抱きかかえるとヘイゼルは指示通りの方角に足を向けた。
土の床の冷たい感触とともに、足首の痛みと、ぬるりとした生暖かい液体が纏わりついている感じが脳に伝わる。口の中に広がる、錆びた鉄の味。かなり出血したらしい。倦怠感が襲ってくる。
(あの子も加減してくれなかったんだなぁ)
心の中で大きな溜息。彼女が術を少し改変していることは、聞いているうちに気付いていた。
(何の話をしているんだろうか……)
ようやく音が入ってきた。少女と男女二人組の声。どちらも知っているものだ。
「――モルゲンロートから来たという使節団一行。あなた方の役目を、私は知っております」
シエルの声だ。震えているように思えるのは、気のせいだろうか。さらに彼女は続ける。
「生け贄となる人間が自ら命を絶つのを見守るためです。モルゲンロートには、龍神に仕える者たちが集い、日々学問に励んでいると聞き及んでおります。あなた方の、そのマントに描かれた紋章、そして同じ意匠の片耳の耳飾、そして帽子……、それらは『監視』の役目をする者のみが許されているものだと教えられました」
そう告げるシエルに、男が「ふっ」と声を噴き出したのが聞こえた。この声は魔導師とともに来たという従者の一人であろう。ヘイゼルは会ったことがあったのだが、名前は聞いたことがなかった。顔を合わすたびに命の取り合いをしてきたのだ、自己紹介など必要ない。そんな男の笑いが、室内に響き渡る。
「ははははは、あぁ、傑作だ。まさかこんな興味深い場面に遭遇するとは思わなかった」
「なに? それは神官から聞いたの? 過去に生け贄として選ばれかけたあの男が」
続いて聞こえてきたのは女の声。化け物と化した神官を倒したあとに現れたあの女の声だ。彼女もまた魔導師の従者だったはずだ。
(とにかく、あいつらが攻撃してくる前にどうにかしないと……)
ヘイゼルは小さく呪文を唱える。
少女は彼が起きたのに気付いたようだ。口元を僅かに笑みの形にしたのがヘイゼルの目に入った。瞳の輝きに希望の光が差す。
「お父様は哀れな男です。悪の囁きなどに耳を貸さなければよかったものを」
ぎゅっと羊皮紙を握り締める。
「お父様のためにも私はここで引くわけには行きません。この街の民のためにも」
杖をすっと二人組に向けて振り下ろす。
「モノ・ウィリア・ルシール!」
予備詠唱を全て省略して放った術はヘイゼルに向けられた増幅用神聖魔法で、少女の強い意志を秘めた声に呼応して空間に描かれた魔法陣が光を放つ。
「アクア・スパロ・ストーク!」
少女の援護を待ち、地に伏して予備詠唱を唱え終えていたヘイゼルは二人組に向けて水の精霊魔法を放つ。
地を這うように伸びた蒼の水は小さな火花を放ちながら目標に向けて勢いをつけると急に立ち上がり飲み込む。
「リ・フロディ・ウォル!」
ぎしぃっ。
何かが軋む音。術を放ったのは銀髪の男だ。蒼い波を瞬時にして相殺したらしかった。咄嗟に放った術であるにもかかわらず、その力は安定している。
「ちっ」
不意打ちを狙ったはずがまったく奏していない様子にヘイゼルは舌打ちし、飛び起きて体勢を整える。シエルの傍に寄り添うように、攻撃の構えで立つ。
シエルはヘイゼルを気遣う言葉はかけず、次の攻撃のために援護魔法の予備呪文を唱え始めている。
ヘイゼルもその旋律を聞き取って、何も言わずに呪文詠唱に入る。
「温いね。まだまだ甘いよ、君も。わざわざあの方が出てくる必要もないね」
さらさらと流れる銀髪を手で払うと、次の瞬間にはその手の中に暗い闇色の剣が出現した。まったく呪文を唱えた様子はない。この男はいくつかの使い慣れた術なら、何の予備動作や呪文がなくても出すことができた。それだけ慣れていたともいえたし、魔力の容量の違いともいえた。が、それ以上に違うことは――。
「二人もろとも、ここで消えてもらうよ!」
ふわりと体が宙に浮かんだかと思うと、数瞬のうちにシエルたちの前に現れる。
「ジ・グラウト・アス!」
「アクア・デス・ライド!」
翠の光が二人を包む。
銀髪の男の黒い剣が二人を薙ぐ。
それをヘイゼルが術によって生み出し集めた水の拳で受け止める。
互いの力が強い風を生み、弾かれるようにして後方に機敏に飛び退いた。
「モノ・グラウト・アス!」
間髪いれずに、ヘイゼルが着地をしたところでシエルが防御用神聖魔法を放つ。翠の光がヘイゼルを包む。
「あら、相手を気遣ってばかりでいいのかしら?」
シエルの耳元で囁かれる、ねっとりとした女の声。
素早くシエルは体の向きを変えた。
「ディ・ス・ジ・マジク!」
すぐ後方にいた女は、振り向いてがら空きになった腹部に向けて術を放つ。黒い球体がはじけ飛んだ。
避けられるような時間は全くない。まともに食らってシエルは地面に叩きつけられた。赤いしみのついていた白の法衣がさらに赤く染まる。じわりと、なんて生ぬるいことはなく、さぁっと水面に波紋が広がるかのように土の床に赤い花が咲く。
「ルプス・ポルタ・ワスターレ!」
ヘイゼルは、目標を対峙していた銀髪の男ではなく赤髪の女に向けて放つ。ヘイゼルの足元に闇を吐き出す魔法陣が出現したかと思うと、彼が目標にまっすぐと向けた手のひらから強烈な力の塊が湧きあがり、動き出す。それは目標に向かって瞬く間に突進し、その形を整えていく。
召喚獣だ。鋭い牙を持つ、真っ黒な獣。それは大人の背丈の二倍をゆうに越える大きさを持って、女を飲み込もうとする。
女も応戦すべく術を唱えるが間に合わない。
銀髪の男がすばやく言い放つ。
「リ・アクマジ!」
女を包む術の薄い法壁はヘイゼルの呼び出した獣の力の前では無力で、パリンと薄い氷が砕けるような音を立てて崩れ去る。
「くっ」
消えた黒の獣のあとには、何とか耐えた女の姿。マントは所々破れ、肌の露出した部分は赤く染まっている。額からも赤い筋が延びていた。
「エクエス・ポルタ・ワスターレ!」
息つく間もなく女に向けて再び召喚魔法を放つ。
それを予想していたのか、銀髪の男は術者であるヘイゼルに向けて闇の刃を突き出す。
「誰が甘いって?」
ヘイゼルの口元が綻ぶ。瞳が紅く光る。
銀髪の男が怯んだ。手元が狂う。
「ドラコー・ポルタ・ワスターレ!」
呼び出した最初の召喚魔は闇色の馬に乗った黒い衣装の騎士で、その手には大きな槍を構え、その姿を捉えたかどうかというときにはすでに女の間合いに入り込んでいる。もちろん、避けられるわけがない。
次に呼び出したのは同じく闇色の瞳を持つ流れ。身を裂かれそうな殺気の持ち主は精神だけを持つ者で、形を持っていない。人間はこの形を持たぬものを龍と呼んだ。
「くそっ」
銀髪の男は勢いがついていたために自ら術の中に飛び込むような形になる。しかし、触れるか触れないかのところで姿を消す。
一方の女も、掠りはしたもののやはり姿を消していた。
「……逃がしたか」
ヘイゼルは足首に巻かれた紐をおもむろに引きちぎる。それらはいとも簡単に解くことができた。
(血で血を洗い流すってことか?)
動き回るうちにシエルの血液に触れた足首の呪符が、その効力を失ってしまったのに気付いたのだ。それで精霊魔法からより強力な召喚魔法を使うことにしたのである。
ヘイゼルはあたりの様子を再度確かめると、倒れているシエルに駆け寄った。
シエルの周りはその少女の血で赤に染めあがっている。身に付けていたマントもその血を吸っていてかなり重い。
ヘイゼルはゆっくりと抱き上げる。呼吸も、心臓も止まっている。いわゆる、死。
(まだ、間に合うだろうか)
少女の傍に落ちた魔法陣がまだ光を残している。
迷っている時間はない。ヘイゼルは冷静に言葉を紡ぐ。
歌のような旋律。
ヘイゼルは静かに言の葉をなぞる。
風の囁きにも似た穏やかな声。
祈りにも似た呪文。
魔法陣から光がふわりと抜けて、少女に宿った。
翠の柔らかな光が包んでいる中、ヘイゼルの腕の中でシエルは息を吹き返した。
「けほっけほっ」
軽く咳き込むと、少女はゆっくりと目を開ける。
ヘイゼルはまだ呪文の詠唱を止めない。
どのくらいそうしていただろうか。彼女の体温が回復してきたのを感じて、ヘイゼルはやっと歌をとめて声をかけた。
「大丈夫か?」
少女は小さく頷く。身体の自由が戻ってきたらしい。彼女は自分の力で起き上がって見せた。
「ったく……。無茶してくれるよ、君は。こっちは本気で死ぬかと思ったぞ」
面倒くさそうに頭を掻きながら言う。
「まずは感謝してほしいものです。こちらも魂が抜けていますし」
大げさに肩を竦めて見せる。かなり回復したようだ。
「大体、神は人間を喰うようなまねはしないと言っておきながら、神の力に触れるためには一度身体から魂が抜けなきゃいけない、つまり仮死状態にならないといけないだなんて聞いていませんよ!」
身につけていた重いマントを外しながら、シエルはむっと頬を膨らまして言う。
「え? 知っていたから俺を半殺しにしたんじゃなかったのか?」
呆れたというような口調で、でもあまり感情的にならないよう抑え気味にヘイゼルは問う。
「あれはまぁ……事故みたいなものですよ」
冷たい笑顔を浮かべてさらりと流す。
(事故……)
ヘイゼルは言いたいことがまた増えてしまったことに、多少苛立ちながらも問うのをやめる。あまり深く聞いてはいけないような気がした。
「……とりあえず、まだあいつらは倒したわけじゃない。近くに潜伏していると思う。これからどうするのがいい?」
気を取り直し、冷静さを前面に出して問う。
「そうですね……策といえるものは私にはありません。この場所に溜まっていた法力も全て使い果たしてしまいましたし。これで私が伏せてきた策は皆無です」
シエルもようやっと落ち着きを取り戻したらしく、熱っぽく語っていた口調が穏やかになる。少し紅くなったのは自分の行いに恥じらいを感じた所為か。
「うむ。そうだな……」
この場所は緑の古代文字で描かれた、何かの儀式を行うような空間だ。中央には聖水を溜める泉が設けられており、入り口から最も遠いところには数段高くなった部分がある。どうやら祭壇とはここであったらしい。入ったときから異常なほどの法力を感じ取っていたのだ。だからあの二人の追っ手も簡単に足を踏み入れることができなかったのだろう。
「魔力も解放されたことだし、張り切って元凶を倒しに向かうのもよいけどな」
手首をさすりながら提案を始める。
「ここに用事がないとすれば、別の場所に移動したほうがいいかもしれない。あいつらも黙っちゃいないだろう」
「……そうですね。では、外に向かいましょう。ここから出るとすれば、身捧げの湖に出ることになると思いますが」
浮かない顔でシエルは一つの案を出す。そのときには重い衣装を何枚か脱ぎ捨て、軽装になっていた。かつては白かったはずの服が全て真っ赤に染まっているのには、二人とも思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。
「仕方ない。やつもそこで待っているだろうし」
閉口する様子でヘイゼルは呟く。
「そうと決まれば、早速行きましょう。道はわかります」
「よっし。あまり気乗りがしないけど行きますか」
片手を差し出して言うヘイゼルに、シエルは首を傾げた。
「歩ける?」
シエルは何も答えずにただ嬉しそうに微笑む。
「じゃ、案内よろしくな」
軽々と少女を抱きかかえるとヘイゼルは指示通りの方角に足を向けた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
最難関ダンジョンをクリアした成功報酬は勇者パーティーの裏切りでした
新緑あらた
ファンタジー
最難関であるS級ダンジョン最深部の隠し部屋。金銀財宝を前に告げられた言葉は労いでも喜びでもなく、解雇通告だった。
「もうオマエはいらん」
勇者アレクサンダー、癒し手エリーゼ、赤魔道士フェルノに、自身の黒髪黒目を忌避しないことから期待していた俺は大きなショックを受ける。
ヤツらは俺の外見を受け入れていたわけじゃない。ただ仲間と思っていなかっただけ、眼中になかっただけなのだ。
転生者は曾祖父だけどチートは隔世遺伝した「俺」にも受け継がれています。
勇者達は大富豪スタートで貧民窟の住人がゴールです(笑)
この聖水、泥の味がする ~まずいと追放された俺の作るポーションが、実は神々も欲しがる奇跡の霊薬だった件~
夏見ナイ
ファンタジー
「泥水神官」と蔑まれる下級神官ルーク。彼が作る聖水はなぜか茶色く濁り、ひどい泥の味がした。そのせいで無能扱いされ、ある日、無実の罪で神殿から追放されてしまう。
全てを失い流れ着いた辺境の村で、彼は自らの聖水が持つ真の力に気づく。それは浄化ではなく、あらゆる傷や病、呪いすら癒す奇跡の【創生】の力だった!
ルークは小さなポーション屋を開き、まずいけどすごい聖水で村人たちを救っていく。その噂は広まり、呪われた女騎士やエルフの薬師など、訳ありな仲間たちが次々と集結。辺境の村はいつしか「癒しの郷」へと発展していく。
一方、ルークを追放した王都では聖女が謎の病に倒れ……。
落ちこぼれ神官の、痛快な逆転スローライフ、ここに開幕!
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
無能扱いされ、パーティーを追放されたおっさん、実はチートスキル持ちでした。戻ってきてくれ、と言ってももう遅い。田舎でゆったりスローライフ。
さら
ファンタジー
かつて勇者パーティーに所属していたジル。
だが「無能」と嘲られ、役立たずと追放されてしまう。
行くあてもなく田舎の村へ流れ着いた彼は、鍬を振るい畑を耕し、のんびり暮らすつもりだった。
――だが、誰も知らなかった。
ジルには“世界を覆すほどのチートスキル”が隠されていたのだ。
襲いかかる魔物を一撃で粉砕し、村を脅かす街の圧力をはねのけ、いつしか彼は「英雄」と呼ばれる存在に。
「戻ってきてくれ」と泣きつく元仲間? もう遅い。
俺はこの村で、仲間と共に、気ままにスローライフを楽しむ――そう決めたんだ。
無能扱いされたおっさんが、実は最強チートで世界を揺るがす!?
のんびり田舎暮らし×無双ファンタジー、ここに開幕!
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる