君の知らない物語

こうらい ゆあ

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8.波の間

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 すっかり陽が暮れて、図書準備室の窓の外は深い藍色に染まっている。
 遠くから、さざ波の音が聞こえてくる気がする。
 誰もいない図書室に、時計の針の音と、涼の小さな鼻をすする音だけが響く。
 夕陽はとっくに沈み、部屋の中は薄暗い。
 電気を付けなきゃって思うのに、付けたら居残りしてるのが先生にバレてしまう。
 早く帰らなきゃってわかっているのに、ここに涼がいてくれるから、帰りたくない。
 涼が、僕のそばで、こんなふうに弱さを見せてくれた。
 それだけで、胸が温かくて、でもどこか苦しい。

 窓の外では、初夏の夜風がカーテンをそっと揺らし、遠くの海が月光を映して静かに輝く。
 部屋の薄暗い明かりが、カウンターの木の表面に淡い光を投げかける。

 涼はカウンターの下に丸まって座ったまま、膝を抱えて顔を伏せている。
 涼の小さな鼻をすする音が、静かな空間に溶け込み、時計の音が大きく聞こえる。
 汗で湿った髪に、薄暗い部屋の光が淡く反射しているように見えた。
 ユニフォームから漂う潮風のような匂いが、静かな部屋に溶け込む。

 僕の手は、さっき撫でた涼の髪の感触をまだ覚えている。
 火照った温もりが、涼がどれだけ頑張ってきたかを教えてくれる。
 指先に残る温かさが、涼の努力と疲れを静かに伝える。
 汗で湿った髪の感触が、僕の心に彼の存在を刻む。
「……俺、スタメンになったんだ」
 突然、涼がポツリと呟いた。
 顔はまだ伏せたまま、声は小さくて、どこか遠くを彷徨うような響きがある。
 涼が、僕にこんなふうに心の中を見せてくれるなんて思ってなくて、少し驚いてしまった。
 彼の声が、図書準備室内に静かに響く。
 いつも明るい涼の声とは違い、かすかな震えが感情の重さを伝える。

「夏のインターハイにスタメンで出してもらえることになって、嬉しくてしかたなかった。でも……」
 涼の声が、途中で詰まる。
 顔を少し上げた彼の目から、大きな涙が零れ落ちる。
 星屑みたいにキラキラと光って、頬を滑り落ちた。
 涼が泣いているのがわかり、胸がぎゅっと締め付けられる。
 いつもみんなを照らす光の精霊みたいな涼が、こんなふうに涙を流すなんて……
 彼の赤くなった目が、部屋の薄明かりに照らされて潤む。
 唇が小さく震え、抑えていた感情が溢れ出る。
 
「俺を一番可愛がってくれてた先輩が、俺のせいでベンチになっちまった」
 涼の声は震えながら、言葉を紡ぐ。
 先輩は、ずっとスタメンだった。
 でも、先日の試合で怪我をして、ベンチ入りになってしまった。
 その代わりに、涼がスタメンに選ばれたんだ。
 最初は先輩も応援してくれていたらしいけど、自分が出られない苛立ちから、涼にキツい言葉を投げかけてしまったらしい。
 涼の声が途切れ途切れに響き、言葉の端々に自責の念が滲む。
 カウンターの下で膝を抱える彼の姿が、いつも教室で輝く姿とは別人のように見える。
 
 涼の目から、ボロボロと涙が零れ落ちる。
「先輩は、このインターハイで引退なのに、俺がその機会を奪っちまった……」
 涼の言葉が、胸に突き刺さる。
 涼がこんな思いを抱えていたなんて、知らなかった。
 いつもキラキラした笑顔で、みんなの中心にいる涼が、こんなふうに自分を責めているなんて。
 心臓がドキドキと速く鳴る。
 何か言わなきゃ。
 でも、なんて言えばいい?
 昼休みに見た疲れた笑顔や目の下のクマが、頭に浮かび、胸を締め付ける。
 涼は、ずっと悩んでたんだ……
 悩んで、悔やんで……
 でも、誰にも相談することもできなかったんだ……
 
「涼……涼が頑張って練習してたから、選ばれたんだよ。先輩の怪我はきっかけに過ぎないよ」
 ありきたりな言葉しか出てこない。
 僕の言葉なんて、涼には届かないかもしれない。
 涼の心の重さを、こんな簡単な言葉で軽くできるはずがない。
 自分が情けなくて、胸がちくちくと痛む。
 涼の痛みを和らげたいのに、言葉が足りない自分に苛立つ。
 
「……真尋には、わかんねぇよ」
 涼が、拗ねたようにポツリと呟く。
 顔を伏せたまま、声は小さくて、どこか刺々しい。
 涼の言葉が、鋭い針みたいに刺さる。
 うん、わかってる。
 僕には、涼の気持ちなんて、本当にはわからない。
 バスケ部のプレッシャーも、先輩との関係も、僕には想像することしかできない。
 彼の言葉が、静かな部屋に響き、僕の心に寂しさを刻む。
 どういう言葉をかけるのが正解だったのか、僕にはわからない。
 いつもそばで話す涼が、今は遠く感じ、寂しさだけが募っていく。
 
「……うん。ごめん」
 僕はただ、謝ることしかできない。
 涼の気持ちが落ち着くなら、それでいい。
 僕にできるのは、こうやってそばにいることだけだ。
 涼がここにいてくれること、僕にこんな弱さを見せてくれることが、嬉しくて、でも切なくて、胸がぐちゃぐちゃになる。
 
 涼は、何も言わず、ただ静かに膝を抱えていた。
 図書室の閉館時間はとっくに過ぎていた。
 時計の針が静かに進む音が、部屋の薄暗さに溶け込む。
 涼の小さな呼吸が、静寂の中でかすかに響く。
 窓の外では、海が星空を映してキラキラと光っている。
 波の音が、遠くから聞こえてくる気がする。
 僕たちの秘密の時間は、この小さな部屋の中で、ひっそりと息づいている。
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