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2.背の高い彼
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彼が来るのはいつも午後三時過ぎ。
カラン、カランとベルの音が鳴ると同時に、僕の手は豆を挽くハンドルを握ったままピタリと止まる。
今日は朝から冷たい雨が降り続いていたせいで、ランチタイムも客足はまばらだった。
ドアをくぐる彼は、今日も腰を少し折って入ってくる。
背が高すぎるせいで、頭がドアの枠に当たりそうだかららしい。
つい背の高い彼を羨ましく思いつつも、彼の様子をみていると背が高すぎるのも困りものだと思ってしまう。
「いらっしゃいませ。今日もお疲れ様です」
スーツの肩が少しだけ雨粒で濡れてしまった彼に声をかけると、彼は濡れた前髪を手で軽く払いながら、ほんの少しだけ口角を上げてくれる。
その笑顔が、いつもより弱々しくて、胸がチクリと痛んだ。
「寒くありませんか?あっという間に冬みたいですね」
つい先日まで秋の陽射しが降り注ぐ日々だったが、今朝は真冬かと思うくらい朝から寒かった。
「そうですね。布団から出るのがツラくなります」
彼はそう言って、傘を畳んだあと、いつもと同じ彼の指定席に座り、ちょっとだけ僕の顔を見てから視線を逸らした。
彼は小さく笑って答えてくれたけど、声のトーンがいつもより半音低くて、肩の力が抜けているように見えた。
どうしたんだろ……?疲れて、いるのかな?
席に座った彼は、いつもより眉間の影が濃くて、睫毛が伏せられたまま上がらない。
小さくため息を吐く彼の姿を横目でチラッと見ながら、僕は冷たいお水とおしぼりを準備する。
「あの……いつもの、ブラックで……」
どこか気力がないような注文の声に、僕は黙ってうなずき、奥の棚からそっと珈琲豆の袋を取り出す。
今日は、ちょっとだけ特別な珈琲を淹れよう。
彼が少しでも元気になってくれる一杯を……
グアテマラ産の珈琲豆。
マスターが「華やかな甘みのある香りだが、うちのお客さんには人気がなくてね」と言って、寂しそうな顔で隅に追いやった珈琲豆。
マスターはあぁ言ってたけど、多分気付いていたんだと思う。
彼が、無理してブラックを飲んでいるんだって……
だから、今日は特別な一杯にしよう。
いつもよりもお湯の温度を五度ほど低くし、ゆっくり、ゆっくり丁寧に抽出していく。
できるだけ苦味を殺して、香りだけを最大限に引き出していく。
古めの豆だから苦味が丸く削がれ、代わりにキャラメルと熟したプラムみたいな甘い香りがふわっと立つ。
うん。すごくいい香り。
彼は……気づいてくれるかな?
香りが店内に広がり、彼が小さく顔を上げた。
淹れたての珈琲をカップに注ぎ、そっと彼の前に滑らせる。
真っ白なカップの中に並々と注がれた黒い液体。
彼は両手で包み込むようにカップ持ち、いつもより深く香りを吸い込んでから、無言で口をつける。
また眉間に皺がいってる。
気づくかな?どうかな?
珈琲を飲み込んだ彼が、ホッと息を吐き出し、少し驚いた顔で僕の方を見てくる。
けど、僕は気づかないフリをして、先程使った道具を片付けていく。
「……今日の、なんか違うような……」
「今日は豆を変えてみただけです。お口に合わなかったらごめんなさい」
僕はわざと素っ気ない感じでそれだけ答える。
でも、横目でこそっと彼の様子を見ていると、ほんのり頬が緩んで肩の力が抜けているのがはっきりとわかる。
もう一度ゆっくりと香りを確かめるように呼吸してから、味わうようにまたひと口。
「……甘い、香りがする」
ポツリと呟いた声を耳にし、僕は小さくガッツポーズをする。
驚いてる。美味しそうに、飲んでくれてる。
小躍りしたくなる気持ちを抑えつけ、僕はワザと彼の顔を見ないようにグラスに視線をおとした。
「気に入りませんでしたか?」
シンクに置いてあったグラスを磨きながら尋ねる。
驚いてくれたけど、気に入ってもらえなかったら意味がないから……
もし、いつもの珈琲の方がよかったら、残念だけどまた別のものを探すしかない。
彼が眉間に皺を寄せずに飲んでくれる珈琲を……
「いつもの豆に、戻しましょうか……?」
不安で心臓がきゅうっと締め付けられる。
ダメ、だったかな?スッキリした感じのほうが好みだったのかな?
「いや、とても美味しいです。……不思議だな。ブラックなのに、甘く感じる」
彼のそのひと言に、僕の不安だった気持ちが一気に解放される。
よかった。喜んでもらえた。
本当はずっとこの豆の珈琲を飲んでもらいたかった。
苦いのが苦手なのに、我慢して飲んでいるのを知っていたから……
だから、せめて香りだけでも甘く感じるのを飲んで欲しかった。
さっき取り出した珈琲豆を元の棚に戻すとき、こっそり彼を盗み見ると、彼は黙って珈琲を楽しんでいた。
いつもより、少しだけゆっくりとしたペースで珈琲を楽しみ、穏やかな笑みを浮かべている。
「この珈琲【カフェ・コン・レーチェ】って言って、ミルクとはちみつを使ったアレンジも美味しいんですよ」
普段はこんな話ししてたら、マスターに怒られちゃうんだけど、今日くらいはいいよね。
店内に他のお客さんはいないし……
マスターも、さっき休憩に行っちゃったから……
だから、ちょっとだけ。
「はちみつ……珈琲にはちみつなんて、初めて聞きました。そっかぁ、そういう飲み方もあるのか……」
彼はカップをゆっくり回しながら、珍しく目を輝かせてくれた。
疲れて濁った瞳に、小さな光が戻ったように見える。
次はカフェ・コン・レーチェを彼のために淹れてあげよう。
もしかしたら、いつもの【ブラック】って注文が、変わるかもしれない。
小さな変化だけど、僕たちにとっては大きな変化な気がした。
少しずつ、少しずつ、僕たちの関係に変化が訪れているのかもしれない。
「ありがとう……美味しかった」
立ち上がるとき、彼はいつもより少しだけ背筋を伸ばしたように見える。
そして、軽く手を上げて「また明日」と言ってくれた。
出入り口の扉が閉まり、雨音だけが店内に残る。
BGMのオルゴールが優しく流れる中、僕は彼の使ったカップを手にする。
彼の唇が触れた縁に、ほんのりと甘い珈琲の香りに混じって彼の制汗剤の匂いが微かに残っていた。
明日は、晴れるかな。
もしまた明日も雨で、客足が少なかったら――
マスターが休憩に行ってくれたら――
もう少しだけ、話しとか……できないかな。
今度は、はちみつを少しだけ加えて、彼の喜んでくれる一杯を作れたらいいなぁ……
カラン、カランとベルの音が鳴ると同時に、僕の手は豆を挽くハンドルを握ったままピタリと止まる。
今日は朝から冷たい雨が降り続いていたせいで、ランチタイムも客足はまばらだった。
ドアをくぐる彼は、今日も腰を少し折って入ってくる。
背が高すぎるせいで、頭がドアの枠に当たりそうだかららしい。
つい背の高い彼を羨ましく思いつつも、彼の様子をみていると背が高すぎるのも困りものだと思ってしまう。
「いらっしゃいませ。今日もお疲れ様です」
スーツの肩が少しだけ雨粒で濡れてしまった彼に声をかけると、彼は濡れた前髪を手で軽く払いながら、ほんの少しだけ口角を上げてくれる。
その笑顔が、いつもより弱々しくて、胸がチクリと痛んだ。
「寒くありませんか?あっという間に冬みたいですね」
つい先日まで秋の陽射しが降り注ぐ日々だったが、今朝は真冬かと思うくらい朝から寒かった。
「そうですね。布団から出るのがツラくなります」
彼はそう言って、傘を畳んだあと、いつもと同じ彼の指定席に座り、ちょっとだけ僕の顔を見てから視線を逸らした。
彼は小さく笑って答えてくれたけど、声のトーンがいつもより半音低くて、肩の力が抜けているように見えた。
どうしたんだろ……?疲れて、いるのかな?
席に座った彼は、いつもより眉間の影が濃くて、睫毛が伏せられたまま上がらない。
小さくため息を吐く彼の姿を横目でチラッと見ながら、僕は冷たいお水とおしぼりを準備する。
「あの……いつもの、ブラックで……」
どこか気力がないような注文の声に、僕は黙ってうなずき、奥の棚からそっと珈琲豆の袋を取り出す。
今日は、ちょっとだけ特別な珈琲を淹れよう。
彼が少しでも元気になってくれる一杯を……
グアテマラ産の珈琲豆。
マスターが「華やかな甘みのある香りだが、うちのお客さんには人気がなくてね」と言って、寂しそうな顔で隅に追いやった珈琲豆。
マスターはあぁ言ってたけど、多分気付いていたんだと思う。
彼が、無理してブラックを飲んでいるんだって……
だから、今日は特別な一杯にしよう。
いつもよりもお湯の温度を五度ほど低くし、ゆっくり、ゆっくり丁寧に抽出していく。
できるだけ苦味を殺して、香りだけを最大限に引き出していく。
古めの豆だから苦味が丸く削がれ、代わりにキャラメルと熟したプラムみたいな甘い香りがふわっと立つ。
うん。すごくいい香り。
彼は……気づいてくれるかな?
香りが店内に広がり、彼が小さく顔を上げた。
淹れたての珈琲をカップに注ぎ、そっと彼の前に滑らせる。
真っ白なカップの中に並々と注がれた黒い液体。
彼は両手で包み込むようにカップ持ち、いつもより深く香りを吸い込んでから、無言で口をつける。
また眉間に皺がいってる。
気づくかな?どうかな?
珈琲を飲み込んだ彼が、ホッと息を吐き出し、少し驚いた顔で僕の方を見てくる。
けど、僕は気づかないフリをして、先程使った道具を片付けていく。
「……今日の、なんか違うような……」
「今日は豆を変えてみただけです。お口に合わなかったらごめんなさい」
僕はわざと素っ気ない感じでそれだけ答える。
でも、横目でこそっと彼の様子を見ていると、ほんのり頬が緩んで肩の力が抜けているのがはっきりとわかる。
もう一度ゆっくりと香りを確かめるように呼吸してから、味わうようにまたひと口。
「……甘い、香りがする」
ポツリと呟いた声を耳にし、僕は小さくガッツポーズをする。
驚いてる。美味しそうに、飲んでくれてる。
小躍りしたくなる気持ちを抑えつけ、僕はワザと彼の顔を見ないようにグラスに視線をおとした。
「気に入りませんでしたか?」
シンクに置いてあったグラスを磨きながら尋ねる。
驚いてくれたけど、気に入ってもらえなかったら意味がないから……
もし、いつもの珈琲の方がよかったら、残念だけどまた別のものを探すしかない。
彼が眉間に皺を寄せずに飲んでくれる珈琲を……
「いつもの豆に、戻しましょうか……?」
不安で心臓がきゅうっと締め付けられる。
ダメ、だったかな?スッキリした感じのほうが好みだったのかな?
「いや、とても美味しいです。……不思議だな。ブラックなのに、甘く感じる」
彼のそのひと言に、僕の不安だった気持ちが一気に解放される。
よかった。喜んでもらえた。
本当はずっとこの豆の珈琲を飲んでもらいたかった。
苦いのが苦手なのに、我慢して飲んでいるのを知っていたから……
だから、せめて香りだけでも甘く感じるのを飲んで欲しかった。
さっき取り出した珈琲豆を元の棚に戻すとき、こっそり彼を盗み見ると、彼は黙って珈琲を楽しんでいた。
いつもより、少しだけゆっくりとしたペースで珈琲を楽しみ、穏やかな笑みを浮かべている。
「この珈琲【カフェ・コン・レーチェ】って言って、ミルクとはちみつを使ったアレンジも美味しいんですよ」
普段はこんな話ししてたら、マスターに怒られちゃうんだけど、今日くらいはいいよね。
店内に他のお客さんはいないし……
マスターも、さっき休憩に行っちゃったから……
だから、ちょっとだけ。
「はちみつ……珈琲にはちみつなんて、初めて聞きました。そっかぁ、そういう飲み方もあるのか……」
彼はカップをゆっくり回しながら、珍しく目を輝かせてくれた。
疲れて濁った瞳に、小さな光が戻ったように見える。
次はカフェ・コン・レーチェを彼のために淹れてあげよう。
もしかしたら、いつもの【ブラック】って注文が、変わるかもしれない。
小さな変化だけど、僕たちにとっては大きな変化な気がした。
少しずつ、少しずつ、僕たちの関係に変化が訪れているのかもしれない。
「ありがとう……美味しかった」
立ち上がるとき、彼はいつもより少しだけ背筋を伸ばしたように見える。
そして、軽く手を上げて「また明日」と言ってくれた。
出入り口の扉が閉まり、雨音だけが店内に残る。
BGMのオルゴールが優しく流れる中、僕は彼の使ったカップを手にする。
彼の唇が触れた縁に、ほんのりと甘い珈琲の香りに混じって彼の制汗剤の匂いが微かに残っていた。
明日は、晴れるかな。
もしまた明日も雨で、客足が少なかったら――
マスターが休憩に行ってくれたら――
もう少しだけ、話しとか……できないかな。
今度は、はちみつを少しだけ加えて、彼の喜んでくれる一杯を作れたらいいなぁ……
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