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番外編
王太子の視察 前編
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王太子がバンフィールド辺境伯領の視察をしたい、と通達してきたのは、リディアが嫁いでから一年と少し後のことだった。
完全に元通りとは言えないものの、戦地となった辺境伯領は順調に復興してきている。
復興の具合を直に見ること、これまでの労いとこれからの鼓舞が目的らしい。
次代の王たる王太子が直々に視察にやってくるというのだから、受け入れの準備は万端を期さなければならない。
王太子がやって来るのは一月後。
視察自体は前々からしたいと調整が図られていたのだが、王太子側の都合がつかず、やっと調整出来たのが今頃だった。
使者が帰った後の応接室にてソファに身を沈めたリディアは、少し考えた後、隣に座るニールに向けて言った。
「ニールは通常の仕事に専念なさい。受け入れ準備の采配はわたくしがとるわ」
それを聞いたニールが顔を曇らせる。
「姫様は婦人会と商会の調整だってしてるじゃないですか。大事なお身体なんですから、無理しては駄目です!」
リディアの手をとり、珍しく強い口調で言う。
ニールの言う婦人会と商会の調整というのは、寡婦対策の一環でやっている事業のことだ。
先の戦では辺境連隊の隊員に多くの被害が出た為、寡婦や孤児も多く生まれた。
隣国から多額の賠償金をせしめた中から遺族や怪我人に見舞金が支払われたが、無尽蔵というわけではない。
そこで領内の婦人会を再編成し、婦人会を窓口として寡婦やある程度の年齢以上の子供に仕事を斡旋しようとしているのだ。
それには地元の商会との連携が必須な為、その調整にリディアも関わっていた。
だがそちらは徐々に軌道に乗り始めているし、担当の補佐官は別にいる。
「各商会との打ち合わせはもう担当者に任せて問題ないでしょう。大物は引き入れ終えたわ。婦人会の再編成も目処は立っているもの。完全に手を引くわけではないけれど、ある程度は任せられるようにしてきたのだから。無理をするつもりはないわ」
「でも……」
心配そうな顔をしたニールの目線は、リディアの腹部に向けられていた。
ゆったりした服の上からでは分かりにくいが、そこはもう膨らみ始めている。
初子ということもあり、ニールが心配するのも分からなくない。
妊娠が発覚したのは三月ほど前のことだが、その時のニールの喜びぶりといったらなく、思わず引いたほどだ。
それ以来、リディア以上に妊娠時期の過ごし方やお産、子育てについて熱心に調べ、今まで以上にリディアの世話をやくようになった。
それで領主の仕事を放り出すようなら見限るが、筆頭補佐官のカールトンが言うには以前よりも精力的に仕事をこなしているらしい。
多少の浮かれぶりは見逃してやるべきだろう。
自分も随分と寛容になったものだと思いながら、リディアは続けた。
「安定期に入ってつわりも治まったし、医師も根を詰めなければ大丈夫だと言っていたでしょう」
「でも……」
不満げな顔をするニールに、リディアはすっと目を細めた。
「視察の一行といえど、館を訪れる客人を迎える準備をするのは夫人の役目。もてなしの良し悪しがそのままわたくしの評判に関わるのよ。関知しないわけにはいかないわ。それともなあに? わたくしには務まらないとでも言うの?」
リディアはニールの顔を冷たい目でにらみ上げる。
ニールは頬に朱を上らせて、リディアの手をぎゅっと包み込んだ。
「そんなことはありません。姫様なら立派な女主人として振る舞われると分かっています」
「分かっているのなら任せなさい」
「でも……」
「視察内容は補佐官に立案を割り振るし、視察一行の接待については家令に指示するわ。領主が何も知らないのも問題でしょうから、お前にもある程度まとまった時点で報告と相談をするつもりよ。要所は押さえるけれど、一人で背負い込むわけではないの。それなら良いでしょう?」
「ほんっとうに無理はなさらないでくださいね。俺にもガンガンに仕事振ってくださって構いませんから」
ニールは全身で心配だと主張している。
確かに医学が進歩し百年ほど前よりは死亡率は下がったとはいえ、まだお産で命を落とす者は少なくない。
リディアはつわりも軽い方だったし、今のところ母子共に問題はないと医師から言われているが、万が一ということも考えられる。
だから心配するのは分かる。
分かる。が、過剰に心配されるのはうっとうしいものだ。
ニールが身を屈め、服の上からリディアの腹をそっと撫でる。
「ううう。俺が代わりに産めればいいんですけど……」
そんな気色悪いことをつぶやかれては、寛容になったはずの心もあっという間に限界値を突破してしまう。
「……何を気持ち悪いことを言っているの」
リディアは久しぶりに凍てつくような目でニールを見下ろした。
この男はとうとう頭に蛆でも涌いたのだろうか。
変態だ変態だと思っていたが、ここまでとは……。
リディアはニールの手を振り払い距離をとる。
「え? いや、変な意味ではないです!」
リディアが本気で引いていることを察したニールが、慌てて弁明し出した。
「体の丈夫さには自信がありますし、姫様に負担がかかるくらいなら俺がっていうつもりで! 本当に! 姫様に無理をさせたくないって思いが高じてで! 決して変な意味では!」
「無理をするなというなら、安定期に入ったからといっていかがわしいことをするのは止めた方がいいわね」
「お腹の赤ちゃんを驚かさなければ大丈夫だって医者は言ってました! 何度も確かめましたから大丈夫です! 乳首をいじり過ぎないとか深く挿入し過ぎないとか、子種はなるべく外に出すとかお腹に負担をかけない体位とかいろいろ注意事項も聞きましたし!」
「そんなことを何回も確かめるのではないわ! このうつけが!」
激高したリディアは、持っていた扇をニールに投げつけた。
道理で最近の検診中、医師が生暖かい目を向けてくる上、『激しい運動は控え、腹を冷やさないように』と注意をしてくるはずだ。
恥ずかしくて仕方がない。
真っ赤な顔で怒り狂うリディアを、ニールがおろおろしながら宥めにかかる。
「ひっ、姫様。俺が悪かったです! 俺が全面的に悪かったですから落ち着いてください! あまり興奮なさるとお腹に障ります!」
「お前が全面的に悪いのは当たり前でしょう! 変態!」
「変態で申し訳ありません。謝ります。謝りますから落ち着いて! お願いですから落ち着いてください!」
座っていたソファから降りたニールが、とうとう土下座し出した。
それを見て、リディアは多少冷静になる。
感情的になってわめいてしまうなど、みっともない真似をしてしまった。
お腹の子にも悪い。
数度大きく深呼吸を繰り返し、額を床の絨毯にこすりつけんばかりに土下座しているニールを見下ろす。
少し甘やかし過ぎた自分も悪いのだろう。
ここで一度、きっちりと締め直しておかなければ。
そう決意したリディアは、ソファの背もたれに寄りかかりニールに声をかける。
「ニール。顔を上げなさい」
「はっ。姫様」
冷静な声音にほっとしたように顔を上げたニールは、リディアの冷ややかな表情を見て、固まった。
明らかに許しを与える顔ではなかったからだ。
「ニールがわたくしの負担を心配していることは、よく分かったわ」
「そ、それは良かったです」
「だから、わたくしも自重しようと思うのよ。視察一行を迎える準備はしなくてはならないのだから、せめて夜はゆっくりと休まなくてはね」
「え゛」
ニールの顔が盛大にひきつる。
リディアは花がほころぶような満面の笑みを浮かべ、言い放った。
「視察が無事に終わるまで、いかがわしい行為は一切禁止とします」
「そんな!」
この世の終わりがやって来たような顔で、ニールがリディアの足にすがりつく。
「ひ、姫様。せめて、せめておあずけは三日くらいで……」
「それを破ったら寝室も分けるし、産褥明けまで禁止期間を延長するわ。もちろん、湯も一緒に入らないから」
にこやかな笑みを崩さず、リディアはとどめを刺す。
「それが嫌なら、一月くらい我慢なさい。わたくしに恥をかかせた罰よ」
「ううう。姫様……」
「そのような哀れな顔をしても駄目なものは駄目。そうね。我慢が利かないというのなら、やはり今日から寝室を分けて湯も別に……」
「わっ、分かりました! 王太子殿下の視察が終わるまで我慢しますから! 寝台と湯は一緒でお願いします!」
言質はとった。
これで心置きなく、視察の準備にかかれる。
半泣きですがりつくニールを見下ろし、リディアは満足げにうなずいたのだった。
「ようこそいらっしゃいました。王太子殿下」
「あぁ。世話をかけるぞ、辺境伯」
バンフィールド辺境伯の館に到着した王太子一行を出迎える為玄関広間で待ちかまえていたリディアは、久しぶりに見る兄の姿に目を細めた。
長兄ウィリアムは父王譲りの金茶の髪にリディアより薄い青い瞳、母妃寄りの顔立ちと、きらきらしい見目をしている。
若い侍女が王子様らしい王子様と評してきゃあきゃあ騒いだこともあるほどだ。
歳はリディアより七つ上の三十一。
性格的には少し情けないところがあったものの、堂々とニールの挨拶を受けている様は王位継承者としての風格が出てきたと言えるだろう。
そのウィリアムにも臆した風もなく相対しているニールも肝が太い。
国王に対しても普通に接していたのだから、今更王太子相手に緊張することもないのだろう。
そんなことを考えていたリディアは、ウィリアムの視線が自身に向いたことを察し、優雅に貴婦人の礼をとる。
「長旅お疲れ様でございました。王太子殿下の訪れを心より歓迎致します」
「久しいな、グレイス。他人行儀な挨拶は寂しいものだ。降嫁しても君が私の妹であることには変わりない。今まで通りに呼んでくれ」
「えぇ。分かったわ。ウィル兄様」
リディアは柔らかな笑みを浮かべて答えた。
ウィリアムも満足げにうなずく。
「しかし、あの小さかったグレイスが奥方をしているのを見ると、何やら感慨深いものがある。……大事にしているのだろうな」
リディアに向けていた穏やかな笑みを引っ込めて、ウィリアムが横目でぎろりとにらむ。
にらまれたニールは、力いっぱいにうなずいた。
「もちろんです」
出迎えの使用人や補佐官たちも一斉にうなずいたのを見て、ウィリアムが闊達に笑った。
「王都へ伝わってくる話は聞いていたが……噂は本当のようだな」
リディアはぴくりと笑みの浮かぶ顔をひきつらせ、ウィリアムに尋ねる。
「ちなみに、どのような噂ですの?」
「『結婚から一年経っても仲むつまじい熱々ぶりで、独身者が崖から身投げをしたくなるほど』だそうだ」
「……そんな話が王都に伝わっているの」
「あぁ。しかし、それも嘘ではなさそうだと分かって良かった。……これからも大事にするのだぞ」
「はい。生涯をかけて幸せにすると誓いましたので」
「っ!」
恥ずかしげもなく言い放ったニールを、リディアは頬に朱を浮かべてにらむ。
リディアの視線を受けて、とろけるような顔をするのが更に腹立たしい。
図らずも見つめ合う形になったリディアたちに、ウィリアムが苦笑を浮かべて咳払いした。
「あー、二人の熱々ぶりはよく分かった。分かったので副使を紹介しても良いか?」
「はい。お願い致します」
ウィリアムのからかいも当然のように受け流し、ニールが言う。
リディアも王女時代に培った仮面をかぶり直し、柔らかに微笑んだ。
年若い領主夫妻の様子に微笑ましげに目を細めて、ウィリアムは横に進み出た痩せぎすの男を紹介する。
「今回副使となったドイル子爵だ」
「ハミルトン・ドイルです。お会い出来て光栄です。バンフィールド辺境伯」
ドイルが薄い笑みを浮かべ、手を差し出す。
その仕草や目つきがどうも卑屈なくせに尊大なように、リディアには思えた。
ドイル子爵は確か三十をいくつか過ぎた歳だったはずだ。
ニールとは一回り以上違う。
生まれも歳も下だが、現在の身分や立場はニールの方が圧倒的に上。
その辺りに屈折した感情を抱えているのかも知れないと、下種な勘ぐりをする。
ニールは気付いているのかいないのか分からないが、にこやかにドイルの手を握り返した。
「ようこそ、ドイル子爵。こちらこそ光栄です」
一通りの挨拶を済ませたドイルが、リディアの方を見る。
その目に憐憫と好色の色が混じったように見えるのは被害妄想だろうか。
(でもこの男は好かないわ。まるで蛞蝓のよう)
元来、人の好き嫌いの激しいリディアである。
領主夫人として好悪を表に出すことはないが、好んで近づきたいとは思わない人物一覧にしっかりとドイルの名を刻んだ。
リディアがそんなことを考えているとも露知らず、ドイルが貴婦人に対する礼をとる。
「リディア=グレイス姫様にはご機嫌麗しく。こうして拝顔出来ましたことを大変喜ばしく光栄に存じます」
二重に失礼な男だ、とリディアはドイルに対する評価を更に下方修正する。
一つ目はニールに対しての挨拶より丁重であったこと。
元王女であっても今は降嫁した身だ。
領主であるニールを下とするのは失礼である。
二つ目。
「ご丁寧にありがとう。ですが、わたくしはもう王女ではありません。バンフィールド辺境伯夫人です。姫という呼称は相応しくないでしょう」
ニールの『姫様』という呼称は癖のようなものだし、こうした公的な場では呼ばない。
リディアは不愉快さを抱えつつ、困ったように眉を下げた。
ニールのいる方から、わずかにひんやりとした気配が伝わってくる。
ちらりと見れば、顔はにこやかな笑みを浮かべているが目が笑っていない。
先ほどから伝わってくる気配は、殺気を押し殺しても漏れてしまったものらしい。
これでもニールにしては我慢している方だろう。
ウィリアムの前でなければ、もっと殺気がだだ漏れに違いない。
ドイルは気配に鈍感なのか、ニタリと笑って頭を下げた。
「これはこれは、失礼致しました。麗しのリディア=グレイス様にお会い出来て、舞い上がってしまったようです。ついうっかり口が滑ってしまいました。平にご容赦を」
「つい口が滑ってしまわれるほどドイル子爵はお疲れのようですね。すぐに部屋へご案内させましょう」
ドイルの視線からリディアを遮るように、ニールが進み出た。
ドイルが何か言う前に、ウィリアムがうなずく。
「そうだな。そうした方がよかろう。グレイスも立ちっぱなしでは腹のややこに障る」
「お気遣いありがとう。ウィル兄様」
「なに。可愛い妹とその子のことを気遣うのは当たり前のことだ。……あぁ。礼儀知らずと謗ることはないから、ドイル子爵を先に案内してやってくれ。よほど疲れているようなのでな」
「かしこまりました」
ウィリアムの言葉を受けた家令が慇懃に礼をし、従僕にドイルを連れていくように指示を出す。
数人の従僕に囲まれて連れて行かれるドイルを見送って、面差しの似た兄妹と妹の夫は揃って息を吐いた。
完全に元通りとは言えないものの、戦地となった辺境伯領は順調に復興してきている。
復興の具合を直に見ること、これまでの労いとこれからの鼓舞が目的らしい。
次代の王たる王太子が直々に視察にやってくるというのだから、受け入れの準備は万端を期さなければならない。
王太子がやって来るのは一月後。
視察自体は前々からしたいと調整が図られていたのだが、王太子側の都合がつかず、やっと調整出来たのが今頃だった。
使者が帰った後の応接室にてソファに身を沈めたリディアは、少し考えた後、隣に座るニールに向けて言った。
「ニールは通常の仕事に専念なさい。受け入れ準備の采配はわたくしがとるわ」
それを聞いたニールが顔を曇らせる。
「姫様は婦人会と商会の調整だってしてるじゃないですか。大事なお身体なんですから、無理しては駄目です!」
リディアの手をとり、珍しく強い口調で言う。
ニールの言う婦人会と商会の調整というのは、寡婦対策の一環でやっている事業のことだ。
先の戦では辺境連隊の隊員に多くの被害が出た為、寡婦や孤児も多く生まれた。
隣国から多額の賠償金をせしめた中から遺族や怪我人に見舞金が支払われたが、無尽蔵というわけではない。
そこで領内の婦人会を再編成し、婦人会を窓口として寡婦やある程度の年齢以上の子供に仕事を斡旋しようとしているのだ。
それには地元の商会との連携が必須な為、その調整にリディアも関わっていた。
だがそちらは徐々に軌道に乗り始めているし、担当の補佐官は別にいる。
「各商会との打ち合わせはもう担当者に任せて問題ないでしょう。大物は引き入れ終えたわ。婦人会の再編成も目処は立っているもの。完全に手を引くわけではないけれど、ある程度は任せられるようにしてきたのだから。無理をするつもりはないわ」
「でも……」
心配そうな顔をしたニールの目線は、リディアの腹部に向けられていた。
ゆったりした服の上からでは分かりにくいが、そこはもう膨らみ始めている。
初子ということもあり、ニールが心配するのも分からなくない。
妊娠が発覚したのは三月ほど前のことだが、その時のニールの喜びぶりといったらなく、思わず引いたほどだ。
それ以来、リディア以上に妊娠時期の過ごし方やお産、子育てについて熱心に調べ、今まで以上にリディアの世話をやくようになった。
それで領主の仕事を放り出すようなら見限るが、筆頭補佐官のカールトンが言うには以前よりも精力的に仕事をこなしているらしい。
多少の浮かれぶりは見逃してやるべきだろう。
自分も随分と寛容になったものだと思いながら、リディアは続けた。
「安定期に入ってつわりも治まったし、医師も根を詰めなければ大丈夫だと言っていたでしょう」
「でも……」
不満げな顔をするニールに、リディアはすっと目を細めた。
「視察の一行といえど、館を訪れる客人を迎える準備をするのは夫人の役目。もてなしの良し悪しがそのままわたくしの評判に関わるのよ。関知しないわけにはいかないわ。それともなあに? わたくしには務まらないとでも言うの?」
リディアはニールの顔を冷たい目でにらみ上げる。
ニールは頬に朱を上らせて、リディアの手をぎゅっと包み込んだ。
「そんなことはありません。姫様なら立派な女主人として振る舞われると分かっています」
「分かっているのなら任せなさい」
「でも……」
「視察内容は補佐官に立案を割り振るし、視察一行の接待については家令に指示するわ。領主が何も知らないのも問題でしょうから、お前にもある程度まとまった時点で報告と相談をするつもりよ。要所は押さえるけれど、一人で背負い込むわけではないの。それなら良いでしょう?」
「ほんっとうに無理はなさらないでくださいね。俺にもガンガンに仕事振ってくださって構いませんから」
ニールは全身で心配だと主張している。
確かに医学が進歩し百年ほど前よりは死亡率は下がったとはいえ、まだお産で命を落とす者は少なくない。
リディアはつわりも軽い方だったし、今のところ母子共に問題はないと医師から言われているが、万が一ということも考えられる。
だから心配するのは分かる。
分かる。が、過剰に心配されるのはうっとうしいものだ。
ニールが身を屈め、服の上からリディアの腹をそっと撫でる。
「ううう。俺が代わりに産めればいいんですけど……」
そんな気色悪いことをつぶやかれては、寛容になったはずの心もあっという間に限界値を突破してしまう。
「……何を気持ち悪いことを言っているの」
リディアは久しぶりに凍てつくような目でニールを見下ろした。
この男はとうとう頭に蛆でも涌いたのだろうか。
変態だ変態だと思っていたが、ここまでとは……。
リディアはニールの手を振り払い距離をとる。
「え? いや、変な意味ではないです!」
リディアが本気で引いていることを察したニールが、慌てて弁明し出した。
「体の丈夫さには自信がありますし、姫様に負担がかかるくらいなら俺がっていうつもりで! 本当に! 姫様に無理をさせたくないって思いが高じてで! 決して変な意味では!」
「無理をするなというなら、安定期に入ったからといっていかがわしいことをするのは止めた方がいいわね」
「お腹の赤ちゃんを驚かさなければ大丈夫だって医者は言ってました! 何度も確かめましたから大丈夫です! 乳首をいじり過ぎないとか深く挿入し過ぎないとか、子種はなるべく外に出すとかお腹に負担をかけない体位とかいろいろ注意事項も聞きましたし!」
「そんなことを何回も確かめるのではないわ! このうつけが!」
激高したリディアは、持っていた扇をニールに投げつけた。
道理で最近の検診中、医師が生暖かい目を向けてくる上、『激しい運動は控え、腹を冷やさないように』と注意をしてくるはずだ。
恥ずかしくて仕方がない。
真っ赤な顔で怒り狂うリディアを、ニールがおろおろしながら宥めにかかる。
「ひっ、姫様。俺が悪かったです! 俺が全面的に悪かったですから落ち着いてください! あまり興奮なさるとお腹に障ります!」
「お前が全面的に悪いのは当たり前でしょう! 変態!」
「変態で申し訳ありません。謝ります。謝りますから落ち着いて! お願いですから落ち着いてください!」
座っていたソファから降りたニールが、とうとう土下座し出した。
それを見て、リディアは多少冷静になる。
感情的になってわめいてしまうなど、みっともない真似をしてしまった。
お腹の子にも悪い。
数度大きく深呼吸を繰り返し、額を床の絨毯にこすりつけんばかりに土下座しているニールを見下ろす。
少し甘やかし過ぎた自分も悪いのだろう。
ここで一度、きっちりと締め直しておかなければ。
そう決意したリディアは、ソファの背もたれに寄りかかりニールに声をかける。
「ニール。顔を上げなさい」
「はっ。姫様」
冷静な声音にほっとしたように顔を上げたニールは、リディアの冷ややかな表情を見て、固まった。
明らかに許しを与える顔ではなかったからだ。
「ニールがわたくしの負担を心配していることは、よく分かったわ」
「そ、それは良かったです」
「だから、わたくしも自重しようと思うのよ。視察一行を迎える準備はしなくてはならないのだから、せめて夜はゆっくりと休まなくてはね」
「え゛」
ニールの顔が盛大にひきつる。
リディアは花がほころぶような満面の笑みを浮かべ、言い放った。
「視察が無事に終わるまで、いかがわしい行為は一切禁止とします」
「そんな!」
この世の終わりがやって来たような顔で、ニールがリディアの足にすがりつく。
「ひ、姫様。せめて、せめておあずけは三日くらいで……」
「それを破ったら寝室も分けるし、産褥明けまで禁止期間を延長するわ。もちろん、湯も一緒に入らないから」
にこやかな笑みを崩さず、リディアはとどめを刺す。
「それが嫌なら、一月くらい我慢なさい。わたくしに恥をかかせた罰よ」
「ううう。姫様……」
「そのような哀れな顔をしても駄目なものは駄目。そうね。我慢が利かないというのなら、やはり今日から寝室を分けて湯も別に……」
「わっ、分かりました! 王太子殿下の視察が終わるまで我慢しますから! 寝台と湯は一緒でお願いします!」
言質はとった。
これで心置きなく、視察の準備にかかれる。
半泣きですがりつくニールを見下ろし、リディアは満足げにうなずいたのだった。
「ようこそいらっしゃいました。王太子殿下」
「あぁ。世話をかけるぞ、辺境伯」
バンフィールド辺境伯の館に到着した王太子一行を出迎える為玄関広間で待ちかまえていたリディアは、久しぶりに見る兄の姿に目を細めた。
長兄ウィリアムは父王譲りの金茶の髪にリディアより薄い青い瞳、母妃寄りの顔立ちと、きらきらしい見目をしている。
若い侍女が王子様らしい王子様と評してきゃあきゃあ騒いだこともあるほどだ。
歳はリディアより七つ上の三十一。
性格的には少し情けないところがあったものの、堂々とニールの挨拶を受けている様は王位継承者としての風格が出てきたと言えるだろう。
そのウィリアムにも臆した風もなく相対しているニールも肝が太い。
国王に対しても普通に接していたのだから、今更王太子相手に緊張することもないのだろう。
そんなことを考えていたリディアは、ウィリアムの視線が自身に向いたことを察し、優雅に貴婦人の礼をとる。
「長旅お疲れ様でございました。王太子殿下の訪れを心より歓迎致します」
「久しいな、グレイス。他人行儀な挨拶は寂しいものだ。降嫁しても君が私の妹であることには変わりない。今まで通りに呼んでくれ」
「えぇ。分かったわ。ウィル兄様」
リディアは柔らかな笑みを浮かべて答えた。
ウィリアムも満足げにうなずく。
「しかし、あの小さかったグレイスが奥方をしているのを見ると、何やら感慨深いものがある。……大事にしているのだろうな」
リディアに向けていた穏やかな笑みを引っ込めて、ウィリアムが横目でぎろりとにらむ。
にらまれたニールは、力いっぱいにうなずいた。
「もちろんです」
出迎えの使用人や補佐官たちも一斉にうなずいたのを見て、ウィリアムが闊達に笑った。
「王都へ伝わってくる話は聞いていたが……噂は本当のようだな」
リディアはぴくりと笑みの浮かぶ顔をひきつらせ、ウィリアムに尋ねる。
「ちなみに、どのような噂ですの?」
「『結婚から一年経っても仲むつまじい熱々ぶりで、独身者が崖から身投げをしたくなるほど』だそうだ」
「……そんな話が王都に伝わっているの」
「あぁ。しかし、それも嘘ではなさそうだと分かって良かった。……これからも大事にするのだぞ」
「はい。生涯をかけて幸せにすると誓いましたので」
「っ!」
恥ずかしげもなく言い放ったニールを、リディアは頬に朱を浮かべてにらむ。
リディアの視線を受けて、とろけるような顔をするのが更に腹立たしい。
図らずも見つめ合う形になったリディアたちに、ウィリアムが苦笑を浮かべて咳払いした。
「あー、二人の熱々ぶりはよく分かった。分かったので副使を紹介しても良いか?」
「はい。お願い致します」
ウィリアムのからかいも当然のように受け流し、ニールが言う。
リディアも王女時代に培った仮面をかぶり直し、柔らかに微笑んだ。
年若い領主夫妻の様子に微笑ましげに目を細めて、ウィリアムは横に進み出た痩せぎすの男を紹介する。
「今回副使となったドイル子爵だ」
「ハミルトン・ドイルです。お会い出来て光栄です。バンフィールド辺境伯」
ドイルが薄い笑みを浮かべ、手を差し出す。
その仕草や目つきがどうも卑屈なくせに尊大なように、リディアには思えた。
ドイル子爵は確か三十をいくつか過ぎた歳だったはずだ。
ニールとは一回り以上違う。
生まれも歳も下だが、現在の身分や立場はニールの方が圧倒的に上。
その辺りに屈折した感情を抱えているのかも知れないと、下種な勘ぐりをする。
ニールは気付いているのかいないのか分からないが、にこやかにドイルの手を握り返した。
「ようこそ、ドイル子爵。こちらこそ光栄です」
一通りの挨拶を済ませたドイルが、リディアの方を見る。
その目に憐憫と好色の色が混じったように見えるのは被害妄想だろうか。
(でもこの男は好かないわ。まるで蛞蝓のよう)
元来、人の好き嫌いの激しいリディアである。
領主夫人として好悪を表に出すことはないが、好んで近づきたいとは思わない人物一覧にしっかりとドイルの名を刻んだ。
リディアがそんなことを考えているとも露知らず、ドイルが貴婦人に対する礼をとる。
「リディア=グレイス姫様にはご機嫌麗しく。こうして拝顔出来ましたことを大変喜ばしく光栄に存じます」
二重に失礼な男だ、とリディアはドイルに対する評価を更に下方修正する。
一つ目はニールに対しての挨拶より丁重であったこと。
元王女であっても今は降嫁した身だ。
領主であるニールを下とするのは失礼である。
二つ目。
「ご丁寧にありがとう。ですが、わたくしはもう王女ではありません。バンフィールド辺境伯夫人です。姫という呼称は相応しくないでしょう」
ニールの『姫様』という呼称は癖のようなものだし、こうした公的な場では呼ばない。
リディアは不愉快さを抱えつつ、困ったように眉を下げた。
ニールのいる方から、わずかにひんやりとした気配が伝わってくる。
ちらりと見れば、顔はにこやかな笑みを浮かべているが目が笑っていない。
先ほどから伝わってくる気配は、殺気を押し殺しても漏れてしまったものらしい。
これでもニールにしては我慢している方だろう。
ウィリアムの前でなければ、もっと殺気がだだ漏れに違いない。
ドイルは気配に鈍感なのか、ニタリと笑って頭を下げた。
「これはこれは、失礼致しました。麗しのリディア=グレイス様にお会い出来て、舞い上がってしまったようです。ついうっかり口が滑ってしまいました。平にご容赦を」
「つい口が滑ってしまわれるほどドイル子爵はお疲れのようですね。すぐに部屋へご案内させましょう」
ドイルの視線からリディアを遮るように、ニールが進み出た。
ドイルが何か言う前に、ウィリアムがうなずく。
「そうだな。そうした方がよかろう。グレイスも立ちっぱなしでは腹のややこに障る」
「お気遣いありがとう。ウィル兄様」
「なに。可愛い妹とその子のことを気遣うのは当たり前のことだ。……あぁ。礼儀知らずと謗ることはないから、ドイル子爵を先に案内してやってくれ。よほど疲れているようなのでな」
「かしこまりました」
ウィリアムの言葉を受けた家令が慇懃に礼をし、従僕にドイルを連れていくように指示を出す。
数人の従僕に囲まれて連れて行かれるドイルを見送って、面差しの似た兄妹と妹の夫は揃って息を吐いた。
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