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第35話 神父と花売りの少女 その一
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忘れもしない。あれは四年前。
わたしがアムリア軍の従軍神父として、内戦続くクワイン共和国へ赴いたときのことだ。
その少女と出会ったのはハコバ市の外れ、レ=ロム通りの歓楽街だった。
「あの、お花……」
夕方の喧騒に紛れてしまうような小さな声。
振り向くと、人波の中から一束の花が差し出された。
ぎこちない笑顔が痛々しい。まだ十歳にも満たぬ少女だ。
道行く人々に花を売って、貧しい家計の足しにしているのだろう。この国ではさして珍しい光景ではない。
「それ、いくらですか?」
すると少女の瞳に抑え難い気色が浮かび上がった。
「三十シムス!」
金を払って花を受け取った。
バラの花だ。
人熱れの中で、その芳香はしばし鼻孔を楽しませた。
「よかった。やっと売れたわ」
少女が嬉しそうに呟いた。
訊くと、夕方から一つも売れていないのだという。
「でも兵隊さんはよく買ってくれるの。特に酔っ払ったアムリア人の兵隊さんは……」
だからアムリア人は好き。
少女は含羞んだ笑顔を見せた。
別れてから、ふと立ち止まって振り向いた。人波の隙間から、道行く人々に花を売る少女の姿が垣間見えた。
だが誰一人として、彼女に注意を払う者はいなかった。
腕から下げた籠一杯の花束に目が留まったとき、わたしは意を決して踵を返した。
「あら、さっきのおじさん」
少女の目が不思議そうに瞬いた。
わたしは構わずに五百シムス札二枚を差し出すと、
「それ、全部売ってくれませんか?」
「あの、全部?」
「ええ、そうです。それで足りますか?」
「でもお釣りが」
「お釣りはいりません。取っておいてください」
少女は籠ごと花束を差し出すと、
「ありがとう」
わたしの腕の中に籠を残して、人波の中に姿を消した。
さてと、この大量の花束、どうしたものか。
中隊全員に一本ずつ配るか。それには少し足りないようだ。
ならば基地で療養している負傷兵に。
腕時計に目を落とすと、時刻は間もなく十七時になろうとしていた。
見舞いの品を届けるためには、面会時間を考慮する必要がある。
ハコバ基地までランニングで五分。検問所でIDカードを提示することなく、顔パスで通過すると、そのまま医務室へ駆け込んだ。そこには負傷兵が二十名ほど収容されていた。
顔見知りの看護兵がベッドを整えると、驚いた様子で、
「神父さん、どうしたんです? そんなに慌てて?」
「これを各々のテーブルに飾ってください」
わたしは抱えていた花籠を、衛生兵に押し付けた。
「なんですか、これ?」
「天使からの贈り物です」
そして医務室にいた全員に事の次第を説明した。
それから数日の間に、医務室のサイドテーブルから廊下の片隅へ、そして個人の机上から、果てはトイレまで。
多くの兵士が、わたしの話を心の片隅に留め置いてくれて、あの少女から花束を買い求めたのだ。
その夜を皮切りに、少女の花は基地内の至る所を彩ることになった。
わたし自身、その後も何度か少女から花を買い求めた。
あれは前線からの帰還途中、夜更けにハマーでレ=ロム通りを通過した時のことだった。
歓楽街の人通りが途絶えかけたこの時刻に、あの少女を目撃したのだ。
こんな夜遅くまで……。まだ花が売れ残っているのだろうか。
看過するには少々気になる光景だった。
「車を止めてください」
わたしは部下に停車を命じると、ハマーから下車した。
「あっ、おじさん」
少女がわたしの姿を認めて駆け寄ってきた。その愛らしい表情に、パッと花が咲いたような気色を浮かべて。
「どうしたんです? こんな夜更けに」
「待ってたの。おじさんを!」
「わたしを?」
少女は含羞みながら、両手で花束を差し出した。
「ハッピーバースディー、モーリー神父」
不意打ちにも等しいプレゼントだ。誕生日など、当人さえも久しく忘れていたことだ。
「わたしのために……。ありがとう」
受け取った花はハナズオウ。少女が自分の手で摘んだという。
わたしはその一本を胸ポケットに差すと、
「さあ、お乗りなさい。家まで送ってあげましょう」
そう言って、少女をハマーの後部座席に乗せた。
「あそこ」
砂埃の舞う道路を走ること五分。
少女は土塀で造られた二階建ての家を指差した。そこに家族五人で住んでいるという。
「お父さんはいないの。去年、戦争で亡くなったの」
それ以上、少女は家族のことを語ろうとはしなかった。
気の毒に……。
沸き上がる憐憫の情は、少女に対して何の力にもならない。信仰の無力感に苛まれるのはこんなときだ。
お父様の魂はいつも側においでです。
主が常にあなたを見守っておられるように。
あなたに神の祝福があらんことを。
せいぜい、こんな慰め方しか出来ない。
そんな言葉を発すれば、神の救済に懐疑的な者は、憎しみの眼差しを投げかけてくる。それは子供とて例外ではないのだ。
なぜ、神様はお父さんを助けてくれなかったの?
以前、教会で葬儀が営まれた時のことだ。
家長を失った少年の疑問に、わたしは答えることが出来なかった。
不慮の事故を神の摂理などと。それは残された者を鞭打つ言葉だ。
少年の悲哀に満ちた瞳に、不条理な死に対するやり場のない怒りが込み上げてくる。
少女も同様の義憤や憎悪をぶつけてくるに違いない。
祝福の言葉を述べながら、わたしは夜空を眺めて瞑目した。
しばし沈黙の時が経過した。
再び目を見開くと、意外なことに、少女は両手を組み、頭を垂れて、神に祈りを捧げているではないか。
「あなたも、わたしと同じく主を崇める者ですか?」
少女は笑顔で頷くと踵を返して駆け去った。そしてふと何かを思い付いたように戸口で振り返った。
「わたしの名前、ミンです。チー=ミンです」
そう言い残して、家の中へ姿を消した。
ミン、か……。
祝福の言葉がまるで自身の言葉のように、自然と口を衝いて出た。それは主の存在を身近に感じる稀有な瞬間でもあった。
なぜなら無私の祝福こそ、主との精神的同化の最上の証なのだから。
少女の微笑みが赦しだとしたら、--自身の至らなさに対する--救われたのはわたしの方だ。
基地へ向かう道すがら、わたしは主の思し召しに感謝の祈りを捧げた。
この異教の国で、ましてやこのような田舎町で、敬虔な神の羔に出会えるのは珍しいことだ。
クワインは仏教国だ。
キリスト教徒の数は全体の一パーセントにも満たない。
たまに都市部の教会で説教を頼まれるが、その際も会衆の数は十人に満たない場合が殆どだ。
少女の家族は、どのような契機で信徒となったのか。
あるいは以前、この地に赴任した従軍神父から教えを受けたのかもしれない。
いずれ折を見て、少女の家族を尋ねてみよう。信仰上の問題を抱えているのなら、相談に応じてもよい。肥沃な土地に落ちた種にこそ、光と水は必要なのだ。
だがその思い付きが実行されることはなかった。
前線と基地とを往復する多忙な日々のうちに、わたしは主への義務を怠ってしまったのだ。
言い訳がましいが、前線では毎日大勢の兵士が戦死している。
彼らの死を看取って後、少女の境遇を想起することは難しかった。
少女から花を買い求めるたびに、次の休日にはと思うのだが、そのような時に限って、他に抜き差しならない用事が出来てしまう。
だが主は、そんなわたしに義務を履行する機会を与えてくれた。
あれは戦死した政府軍兵士の葬儀に立ち会ったときのことだ。
場所は第三軍管区のゴウサップ陸軍墓地。
埋葬を終えて、遺族の号泣から視線を逸らしたその先に、石塔の前に跪く少女の姿を見い出したのだ。
わたしがアムリア軍の従軍神父として、内戦続くクワイン共和国へ赴いたときのことだ。
その少女と出会ったのはハコバ市の外れ、レ=ロム通りの歓楽街だった。
「あの、お花……」
夕方の喧騒に紛れてしまうような小さな声。
振り向くと、人波の中から一束の花が差し出された。
ぎこちない笑顔が痛々しい。まだ十歳にも満たぬ少女だ。
道行く人々に花を売って、貧しい家計の足しにしているのだろう。この国ではさして珍しい光景ではない。
「それ、いくらですか?」
すると少女の瞳に抑え難い気色が浮かび上がった。
「三十シムス!」
金を払って花を受け取った。
バラの花だ。
人熱れの中で、その芳香はしばし鼻孔を楽しませた。
「よかった。やっと売れたわ」
少女が嬉しそうに呟いた。
訊くと、夕方から一つも売れていないのだという。
「でも兵隊さんはよく買ってくれるの。特に酔っ払ったアムリア人の兵隊さんは……」
だからアムリア人は好き。
少女は含羞んだ笑顔を見せた。
別れてから、ふと立ち止まって振り向いた。人波の隙間から、道行く人々に花を売る少女の姿が垣間見えた。
だが誰一人として、彼女に注意を払う者はいなかった。
腕から下げた籠一杯の花束に目が留まったとき、わたしは意を決して踵を返した。
「あら、さっきのおじさん」
少女の目が不思議そうに瞬いた。
わたしは構わずに五百シムス札二枚を差し出すと、
「それ、全部売ってくれませんか?」
「あの、全部?」
「ええ、そうです。それで足りますか?」
「でもお釣りが」
「お釣りはいりません。取っておいてください」
少女は籠ごと花束を差し出すと、
「ありがとう」
わたしの腕の中に籠を残して、人波の中に姿を消した。
さてと、この大量の花束、どうしたものか。
中隊全員に一本ずつ配るか。それには少し足りないようだ。
ならば基地で療養している負傷兵に。
腕時計に目を落とすと、時刻は間もなく十七時になろうとしていた。
見舞いの品を届けるためには、面会時間を考慮する必要がある。
ハコバ基地までランニングで五分。検問所でIDカードを提示することなく、顔パスで通過すると、そのまま医務室へ駆け込んだ。そこには負傷兵が二十名ほど収容されていた。
顔見知りの看護兵がベッドを整えると、驚いた様子で、
「神父さん、どうしたんです? そんなに慌てて?」
「これを各々のテーブルに飾ってください」
わたしは抱えていた花籠を、衛生兵に押し付けた。
「なんですか、これ?」
「天使からの贈り物です」
そして医務室にいた全員に事の次第を説明した。
それから数日の間に、医務室のサイドテーブルから廊下の片隅へ、そして個人の机上から、果てはトイレまで。
多くの兵士が、わたしの話を心の片隅に留め置いてくれて、あの少女から花束を買い求めたのだ。
その夜を皮切りに、少女の花は基地内の至る所を彩ることになった。
わたし自身、その後も何度か少女から花を買い求めた。
あれは前線からの帰還途中、夜更けにハマーでレ=ロム通りを通過した時のことだった。
歓楽街の人通りが途絶えかけたこの時刻に、あの少女を目撃したのだ。
こんな夜遅くまで……。まだ花が売れ残っているのだろうか。
看過するには少々気になる光景だった。
「車を止めてください」
わたしは部下に停車を命じると、ハマーから下車した。
「あっ、おじさん」
少女がわたしの姿を認めて駆け寄ってきた。その愛らしい表情に、パッと花が咲いたような気色を浮かべて。
「どうしたんです? こんな夜更けに」
「待ってたの。おじさんを!」
「わたしを?」
少女は含羞みながら、両手で花束を差し出した。
「ハッピーバースディー、モーリー神父」
不意打ちにも等しいプレゼントだ。誕生日など、当人さえも久しく忘れていたことだ。
「わたしのために……。ありがとう」
受け取った花はハナズオウ。少女が自分の手で摘んだという。
わたしはその一本を胸ポケットに差すと、
「さあ、お乗りなさい。家まで送ってあげましょう」
そう言って、少女をハマーの後部座席に乗せた。
「あそこ」
砂埃の舞う道路を走ること五分。
少女は土塀で造られた二階建ての家を指差した。そこに家族五人で住んでいるという。
「お父さんはいないの。去年、戦争で亡くなったの」
それ以上、少女は家族のことを語ろうとはしなかった。
気の毒に……。
沸き上がる憐憫の情は、少女に対して何の力にもならない。信仰の無力感に苛まれるのはこんなときだ。
お父様の魂はいつも側においでです。
主が常にあなたを見守っておられるように。
あなたに神の祝福があらんことを。
せいぜい、こんな慰め方しか出来ない。
そんな言葉を発すれば、神の救済に懐疑的な者は、憎しみの眼差しを投げかけてくる。それは子供とて例外ではないのだ。
なぜ、神様はお父さんを助けてくれなかったの?
以前、教会で葬儀が営まれた時のことだ。
家長を失った少年の疑問に、わたしは答えることが出来なかった。
不慮の事故を神の摂理などと。それは残された者を鞭打つ言葉だ。
少年の悲哀に満ちた瞳に、不条理な死に対するやり場のない怒りが込み上げてくる。
少女も同様の義憤や憎悪をぶつけてくるに違いない。
祝福の言葉を述べながら、わたしは夜空を眺めて瞑目した。
しばし沈黙の時が経過した。
再び目を見開くと、意外なことに、少女は両手を組み、頭を垂れて、神に祈りを捧げているではないか。
「あなたも、わたしと同じく主を崇める者ですか?」
少女は笑顔で頷くと踵を返して駆け去った。そしてふと何かを思い付いたように戸口で振り返った。
「わたしの名前、ミンです。チー=ミンです」
そう言い残して、家の中へ姿を消した。
ミン、か……。
祝福の言葉がまるで自身の言葉のように、自然と口を衝いて出た。それは主の存在を身近に感じる稀有な瞬間でもあった。
なぜなら無私の祝福こそ、主との精神的同化の最上の証なのだから。
少女の微笑みが赦しだとしたら、--自身の至らなさに対する--救われたのはわたしの方だ。
基地へ向かう道すがら、わたしは主の思し召しに感謝の祈りを捧げた。
この異教の国で、ましてやこのような田舎町で、敬虔な神の羔に出会えるのは珍しいことだ。
クワインは仏教国だ。
キリスト教徒の数は全体の一パーセントにも満たない。
たまに都市部の教会で説教を頼まれるが、その際も会衆の数は十人に満たない場合が殆どだ。
少女の家族は、どのような契機で信徒となったのか。
あるいは以前、この地に赴任した従軍神父から教えを受けたのかもしれない。
いずれ折を見て、少女の家族を尋ねてみよう。信仰上の問題を抱えているのなら、相談に応じてもよい。肥沃な土地に落ちた種にこそ、光と水は必要なのだ。
だがその思い付きが実行されることはなかった。
前線と基地とを往復する多忙な日々のうちに、わたしは主への義務を怠ってしまったのだ。
言い訳がましいが、前線では毎日大勢の兵士が戦死している。
彼らの死を看取って後、少女の境遇を想起することは難しかった。
少女から花を買い求めるたびに、次の休日にはと思うのだが、そのような時に限って、他に抜き差しならない用事が出来てしまう。
だが主は、そんなわたしに義務を履行する機会を与えてくれた。
あれは戦死した政府軍兵士の葬儀に立ち会ったときのことだ。
場所は第三軍管区のゴウサップ陸軍墓地。
埋葬を終えて、遺族の号泣から視線を逸らしたその先に、石塔の前に跪く少女の姿を見い出したのだ。
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