上 下
36 / 77

第35話 神父と花売りの少女 その一

しおりを挟む
 忘れもしない。あれは四年前。
 わたしがアムリア軍の従軍神父として、内戦続くクワイン共和国へ赴いたときのことだ。
 その少女と出会ったのはハコバ市の外れ、レ=ロム通りの歓楽街だった。
 
「あの、お花……」

 夕方の喧騒に紛れてしまうような小さな声。
 振り向くと、人波の中から一束の花が差し出された。
 ぎこちない笑顔が痛々しい。まだ十歳にも満たぬ少女だ。
 道行く人々に花を売って、貧しい家計の足しにしているのだろう。この国ではさして珍しい光景ではない。

「それ、いくらですか?」

 すると少女の瞳に抑え難い気色が浮かび上がった。
 
「三十シムス!」

 金を払って花を受け取った。
 バラの花だ。
 人熱ひといきれの中で、その芳香はしばし鼻孔を楽しませた。
 
「よかった。やっと売れたわ」

 少女が嬉しそうに呟いた。
 訊くと、夕方から一つも売れていないのだという。
 
「でも兵隊さんはよく買ってくれるの。特に酔っ払ったアムリア人の兵隊さんは……」
 
 だからアムリア人は好き。
 少女は含羞はにかんだ笑顔を見せた。
 別れてから、ふと立ち止まって振り向いた。人波の隙間から、道行く人々に花を売る少女の姿が垣間見えた。
 だが誰一人として、彼女に注意を払う者はいなかった。
 腕から下げた籠一杯の花束に目が留まったとき、わたしは意を決して踵を返した。
 
「あら、さっきのおじさん」

 少女の目が不思議そうに瞬いた。
 わたしは構わずに五百シムス札二枚を差し出すと、

「それ、全部売ってくれませんか?」
「あの、全部?」
「ええ、そうです。それで足りますか?」
「でもお釣りが」
「お釣りはいりません。取っておいてください」

 少女は籠ごと花束を差し出すと、

「ありがとう」

 わたしの腕の中に籠を残して、人波の中に姿を消した。
 さてと、この大量の花束、どうしたものか。
 中隊全員に一本ずつ配るか。それには少し足りないようだ。
 ならば基地で療養している負傷兵に。
 
 腕時計に目を落とすと、時刻は間もなく十七時になろうとしていた。
 見舞いの品を届けるためには、面会時間を考慮する必要がある。
 ハコバ基地までランニングで五分。検問所でIDカードを提示することなく、顔パスで通過すると、そのまま医務室へ駆け込んだ。そこには負傷兵が二十名ほど収容されていた。
 顔見知りの看護兵がベッドを整えると、驚いた様子で、

「神父さん、どうしたんです? そんなに慌てて?」
「これを各々のテーブルに飾ってください」

 わたしは抱えていた花籠を、衛生兵に押し付けた。

「なんですか、これ?」
「天使からの贈り物です」

 そして医務室にいた全員に事の次第を説明した。
 それから数日の間に、医務室のサイドテーブルから廊下の片隅へ、そして個人の机上から、果てはトイレまで。
 多くの兵士が、わたしの話を心の片隅に留め置いてくれて、あの少女から花束を買い求めたのだ。
 その夜を皮切りに、少女の花は基地内の至る所を彩ることになった。
 わたし自身、その後も何度か少女から花を買い求めた。
 あれは前線からの帰還途中、夜更けにハマーでレ=ロム通りを通過した時のことだった。
 歓楽街の人通りが途絶えかけたこの時刻に、あの少女を目撃したのだ。
 こんな夜遅くまで……。まだ花が売れ残っているのだろうか。
 看過するには少々気になる光景だった。
 
「車を止めてください」

 わたしは部下に停車を命じると、ハマーから下車した。

「あっ、おじさん」

 少女がわたしの姿を認めて駆け寄ってきた。その愛らしい表情に、パッと花が咲いたような気色を浮かべて。
 
「どうしたんです? こんな夜更けに」
「待ってたの。おじさんを!」
「わたしを?」

 少女は含羞みながら、両手で花束を差し出した。

「ハッピーバースディー、モーリー神父」

 不意打ちにも等しいプレゼントだ。誕生日など、当人さえも久しく忘れていたことだ。
 
「わたしのために……。ありがとう」

 受け取った花はハナズオウ。少女が自分の手で摘んだという。
 わたしはその一本を胸ポケットに差すと、

「さあ、お乗りなさい。家まで送ってあげましょう」

 そう言って、少女をハマーの後部座席に乗せた。

「あそこ」

 砂埃の舞う道路を走ること五分。
 少女は土塀で造られた二階建ての家を指差した。そこに家族五人で住んでいるという。

「お父さんはいないの。去年、戦争で亡くなったの」

 それ以上、少女は家族のことを語ろうとはしなかった。
 気の毒に……。
 沸き上がる憐憫の情は、少女に対して何の力にもならない。信仰の無力感に苛まれるのはこんなときだ。

 お父様の魂はいつも側においでです。
 主が常にあなたを見守っておられるように。
 あなたに神の祝福があらんことを。
 
 せいぜい、こんな慰め方しか出来ない。
 そんな言葉を発すれば、神の救済に懐疑的な者は、憎しみの眼差しを投げかけてくる。それは子供とて例外ではないのだ。
 
 なぜ、神様はお父さんを助けてくれなかったの?
 以前、教会で葬儀が営まれた時のことだ。
 家長を失った少年の疑問に、わたしは答えることが出来なかった。
 不慮の事故を神の摂理などと。それは残された者を鞭打つ言葉だ。
 少年の悲哀に満ちた瞳に、不条理な死に対するやり場のない怒りが込み上げてくる。
 少女も同様の義憤や憎悪をぶつけてくるに違いない。
 祝福の言葉を述べながら、わたしは夜空を眺めて瞑目した。
 しばし沈黙の時が経過した。
 再び目を見開くと、意外なことに、少女は両手を組み、頭を垂れて、神に祈りを捧げているではないか。
 
「あなたも、わたしと同じく主を崇める者ですか?」

 少女は笑顔で頷くと踵を返して駆け去った。そしてふと何かを思い付いたように戸口で振り返った。

「わたしの名前、ミンです。チー=ミンです」

 そう言い残して、家の中へ姿を消した。
 ミン、か……。
 祝福の言葉がまるで自身の言葉のように、自然と口を衝いて出た。それは主の存在を身近に感じる稀有な瞬間でもあった。
 なぜなら無私の祝福こそ、主との精神的同化の最上の証なのだから。
 少女の微笑みが赦しだとしたら、--自身の至らなさに対する--救われたのはわたしの方だ。
 基地へ向かう道すがら、わたしは主の思し召しに感謝の祈りを捧げた。
 この異教の国で、ましてやこのような田舎町で、敬虔な神のこひつじに出会えるのは珍しいことだ。

 クワインは仏教国だ。
 キリスト教徒の数は全体の一パーセントにも満たない。
 たまに都市部の教会で説教を頼まれるが、その際も会衆の数は十人に満たない場合が殆どだ。
 少女の家族は、どのような契機で信徒となったのか。
 あるいは以前、この地に赴任した従軍神父から教えを受けたのかもしれない。
 いずれ折を見て、少女の家族を尋ねてみよう。信仰上の問題を抱えているのなら、相談に応じてもよい。肥沃な土地に落ちた種にこそ、光と水は必要なのだ。
 
 だがその思い付きが実行されることはなかった。
 前線と基地とを往復する多忙な日々のうちに、わたしは主への義務を怠ってしまったのだ。
 言い訳がましいが、前線では毎日大勢の兵士が戦死している。
 彼らの死を看取って後、少女の境遇を想起することは難しかった。
 少女から花を買い求めるたびに、次の休日にはと思うのだが、そのような時に限って、他に抜き差しならない用事が出来てしまう。
 だが主は、そんなわたしに義務を履行する機会を与えてくれた。
 あれは戦死した政府軍兵士の葬儀に立ち会ったときのことだ。
 場所は第三軍管区のゴウサップ陸軍墓地。
 埋葬を終えて、遺族の号泣から視線を逸らしたその先に、石塔の前に跪く少女の姿を見い出したのだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

メカメカパニックin桜が丘高校~⚙②天災科学者源外君の日曜日

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:6

亡き王女のためのパヴァーヌ

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:18

銀河連邦大戦史 双頭の竜の旗の下に

SF / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:8

闇息

現代文学 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:3

碧春

現代文学 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:4

メカメカパニックin桜が丘高校~⚙①天災科学者源外君の躁鬱

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:4

黎明

現代文学 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:4

黒猫のチャオ 人間に恋した猫の話

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:6

そこの彼女 君は天使ですか? それとも悪魔ですか?

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:4

処理中です...