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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編

2-3.されど時は不可逆なりて

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「で、あれはなんなんだよ?」

 椅子に腰を落ち着けたルパートは、苦笑いを浮かべながら奥を指差した。当然といえば当然の問いに、キールは俯くしかない。悪い事をしているつもりはなかった。しかし、実際問題、このルパートを前にしてしまうとそれすらも言い訳に思えてしまう。

 綺麗に片付けられたテーブルの上には、食事の代わりにハーブティが置かれている。漂うカモミールの香りも慰めにならず、キールは諦めたように肩を落とす。

「いえ、その……。……拾いました」
「拾った……だと。お前まさかそういう趣味か」
「すいません何言っているかわかりません」
「わかってるんじゃねぇか。てか、俺が聞いてるのはそういう事じゃないんだけど」

 とん、と指先がテーブルを叩く。大きな音ではないのに、キールはびくりと身をすくませる。明らかに挙動不審な青年に、ルパートは苦笑いを深くした。

「怯えるな。別に怒ってるわけじゃあない」
「ええ……わかってます。これは単に、条件反射で」
「そっちのが酷いだろてめえ。てか、未だに俺がボコったのを根に持ってんのかよ」

 ルパートは指先で円を描きながら言う。そこはかとなく漂う剣呑な気配に、キールはますます小さくなる。

 今となっては過去だが——かつて狂気に取り憑かれたキールはとある村を襲った。

 それがルパートの住む村であり、当然の成り行きとして彼はキールを迎え撃つことになる。彼らは三日三晩戦い続け、辛くもルパートが勝利することで終結を迎えた。それでめでたしめでたし、ならばキールは今ここにいない。ここに至るには様々な事情があり、言うなれば妥協、という言葉がふさわしい。

 狂気に取り憑かれた魔法使いキールは、文字通り『災厄』だった。そんなものにただの人間が立ち向かうのは不可能と言っていい。だが、悠然とそれの前に立ちふさがったのがルパートだった。

 先代ラッセン大公に仕えた弓の名手にして、隠形術《おんぎょうじゅつ》の使い手。そして世にも稀なる『森の愛し子』である彼は、森にキールを誘い込むと——文字通りボコボコにした。

 キール自身、その時のことをはっきりと記憶しているわけではない。しかしながら、笑顔で悠然と人を殴るその顔が——あまりにも恐ろしくて怖かったことだけは覚えている。

 そして、戦いが終わり我に返ったキールは、どういうわけかその村で暮らすことになってしまった。ルパート曰く、壊したものを元に戻すなら罪には問わない。そして村に利益をもたらすなら、それはすでに罪ではない、と。

 だがそんなことで許されては、キールもたまったものではない。色々言い募った結果、返ってきたのは——顎を打ち抜く拳の一撃。なす術なく吹っ飛ばされたキールは、本当の意味での理不尽を知った。

「根に持ってはいません。むしろ感謝はしています」
「そんな怯えた子リスみたいな目で人を見るんじゃねぇー。てか、最後はお前だって納得しただろ」
「ええ……未だに夢に見ますよ。最後、あなたにされたこと……」

 予期せず思い出してしまい、キールはテーブルに突っ伏した。どうしようもなかったとはいえ、あんな所業を人が行えるとは……と、言ったところで、キールが感謝していることに変わりはないのだが。

「だーかーらー、もう言うなって。俺だって鬼畜だったと思ってんだから。それより問題は、アレだアレ!」
 指を奥の部屋に突きつけられて、キールはテーブルから起き上がった。その先にはあの少女が隠れたままでいる。なんの物音もしないのに眉尻を下げながら、青年は小さく首を傾げた。

「アレって……あの子のことですよね。それについてはさっき言ったことが全てなんですが。今はまだ、ですけども」
「拾っただけ、か。じゃあ、素性とかはわからないのか」
「ええ……皆目。そもそも、言葉は理解できても、喋ることはできないようなんです。どこから来たのか、そもそも帰る場所はあるのか……そういったこと自体、全くわからない状況です」

 状況を説明しながらも、キールは不安を感じずにはいられなかった。もしあの少女が村にとって異物だと判断されたら、一体どうなってしまうのか。まとめ役であるルパートは寛大な男ではあるが、何事にも例外はあるのだ。

 考え深げに顎に手を当てた男は、すぐに答えを返すことはなかった。静けさが部屋を包み、落ち着きなくキールが手を組み直す。カタカタと、壁の時計が小さな音を立て——ふと、ルパートが視線を上げた。

「キール」

 不意に名前を呼ばれ、キールは思わず肩を震わせる。戸惑いながら視線を動かせば、そこには不自然なほど表情のない男の顔があった。不穏しか感じないその表情に、キールの不安は膨れ上がっていく。

「一つ、はっきりさせておく。俺は
「ルパートさん……⁉︎」
「だから、お前も覚悟を決めろ」

 すっと、音もなくルパートが席を立つ。唐突な行動にキールは目を見開いたが、男は気にも留めず歩を進める。その先にあるのは、寝室で——反射的にキールは椅子を蹴って駆け出していた。

「ルパートさん! 何をするつもりですか⁉︎」
「何も。今のところは何も。……お前、本当に気づかないのか」
「何を言って——……」

 キールが伸ばした腕を払いのけ、ルパートは寝室に踏み込んだ。目眩がする。恐ろしいことが起こりそうで、起こってしまいそうで——ふらつきながらも踏み込んだキールは、己の甘さを痛感することになった。

「え……」

 寝室は、昨日のままに荒れ果てていた。けれど問題はそこではない。キールは一瞬呆然と立ち尽くし、乱れる呼吸もそのままに寝室の窓に駆け寄った。

「な……っ、どうして!」

 窓が、開いていた。風に揺られるカーテンだけが、その不在を教えてくれる。首を振ったところで、その姿は現れてはくれない。少女は——部屋から消えていた。

「さてどうする出来損ない? お前はまだ、あの頃のままなのか?」

 ルパートが感情もなく囁く。俯いたまま手を握りしめ、キールは踵を返す。歩んで歩いて——大股で進み、緩やかに速度を上げて駆け出していく。どこを目指せばいいかなどわからない。それでも駆け出さなければ失ってしまうものもあるのだと言うことだけは、理解できる。

「たとえ出来損ないだとしても——」

 諦め続けた人生だったとしても、生きることで様々なものに敗れたとしても。誰かの希望を摘み取って生きることが正しいなどとは思えない。

 だからこそ、今度こそ何も失いたくない。たとえそれが、傲慢だったとしても——もう、後悔はしたくない。
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