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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編

2-4.ヒトであるが故の無為と無知

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 走った。足に絡みつく蔦を払い、腕にぶつかる枝をかき分けて走り続ける。どこに少女が向かったかなど、あてもなければ確信もなかった。だが見えないない糸に導かれるように、キールは走り抜ける。

 あの少女が何を考えて姿を消したか。そんなものは答えるまでもない。獣のように鋭敏な感覚で、身の危険を感じたのだろう。だとしたら、またしても自分の手落ちだ——頰をかすめた枝先に顔をしかめ、彼はさらに走る速度を上げていく。

 昼とはいえ、鬱蒼とした森は太陽の光を地面まで通さない。薄い闇が凝る世界は静かで、わずかに吹く風だけが時の経過を伝えている。そんな中、キールはまるで時が引き伸ばされていくような感覚に襲われていた。

 人間にとって、時間とはあらゆる意味で有限だ。限りある砂時計が落ちきるまでの猶予を、生きるという言葉で語っているに過ぎない。けれど、魔法使いは——その砂時計の落ちきる時間を、自身の意志で制御することが出来るのだ。

 それは過ぎ去る一瞬を、永遠に引き伸ばし続けているようなものだ。周囲から見ればそれは、時が止まっているように見えることだろう。だからただの人にとって、魔法使いの時間は永遠に感じられるのだ。

 キールもまた、出来損ないとはいえ魔法使いである。不完全であっても、自身の時を意識的に制御することができた。自身と周囲の時間の流れをずらすことで、一時的に限界以上の加速を実現させる。今、キールの目には全てが止まっているように見えていた。

 時を歪める加速を繰り返し、キールは森を駆け抜けていく。目標がないとは言え、無意味に走り続けるのは無理がある。休めそうな場所や隠れられそうな場所を重点的に探しつつ、素早く移動を行う。

 そして最終的にたどり着いた場所——それは森の中程にある草原だった。木々が避けるようにして形作られたそこは、用途不明の遺跡群が存在している。

 崩れ去り、かつてを偲ばせるものも失われつつある石柱の間を抜け、その先に存在する祭壇のような場所にたどり着く。そして周囲を見渡し——草に埋もれた石壁のそばに、求める姿を見つけた。

「そこにいたのか……きみ」

 草をかき分け歩み寄ったキールを、少女は見ることもしなかった。伏せられた顔と、下を向いた耳。震えることもない身体を抱きしめるようにして、彼女はうずくまる。

 その姿を目にした瞬間、キールの胸にチリチリした痛みが走った。理由もわからず胸を押さえると、ゆっくりと顔を上げる。しかし、彼女の目はキールを見ていなかった。

「……何故《なにゆえ》、追って来たのかね?」

 静かに、少女の唇が言葉を紡いだ。明らかな異常を感じたキールは後退ろうとした。けれど、出来なかった。少女の目に囚われたように、身体は指先一つ動かせない。冷や汗を浮かべ、青年は少女であるはずのものを見つめる。少女は獣の瞳を細め、老人のように枯れた笑みを浮かべた。

「答えられぬか。当然のことであろうな。そこまで若き身の上では、自身の心の動きも制御できまい。たとえ魔法使いであろうとも……『解』を得られぬものであるならば尚更に」
「なにを……言っているんだ……⁉︎」

 かろうじて声だけは出せた。そのことに安堵するより早く、少女であるはずのものは乾いた笑い声を立てる。キールが唇を震わせれば、その者は笑みをさらに深めていく。

「何を、とはおかしなことを。君も魔法使いであるならば、私が何者であるかなど言葉にせずとも理解できるであろう。それとも何かね? 君はその程度も理解できないほど愚かなのかね?」
「か……勝手なことを……。そこまでの言いよう……僕を愚かと呼ぶお前は、一体何なんだ⁉︎」

 苦し紛れに叫んだ言葉は、笑い声に掻き消された。少女の形をしながらも、少女ではあり得ないその声音。混乱を深くする青年に向かい、その者はすっと指を突きつける。

「私はオーリオール・アルジェント=イドラギヌス。君と同じ魔法使いだよ、フラメウの子」

 流れるように告げ、その者——魔法使いオーリオールは優雅に礼をした。動くこともできないキールは、短い呻きとともに唾を飲み込んだ。そんな彼の姿に、オーリオールは悠然と微笑んだ。

 幼い姿とは似つかわしくない所作、そしてフラメウの名を出されれば、キールも認めざるを得なかった。彼女は、いや彼かもしれないが、少なくとも今までの少女ではない、と。だが、それならば一体、少女はどこに——

「驚いているね。そこまで反応があるとは、こちらとしても意外だ。仮にもフラメウの子である君が、魔法使いの気配に気づかないなどということがあるのだろうか。いや、実に不可思議なことだ」
「皮肉はそこまでにしてもらおうか……。何故、僕がフラメウの関係者だと思うんだ。それにオーリオール、だったか。お前が魔法使いだというのが本当なら、あの子は一体どこに行ったんだ?」
「オーリでいいよ、フラメウの子。お望みとあらばいくらでも質問に答えよう」

 歯噛みするキールに笑いかけ、オーリは指を一つ鳴らした。するとキールの身体が傾ぎ、彼はそのまま膝をつく。硬直が解けた。そう頭で理解していても、感覚はすぐに戻ってこない。荒い呼吸を繰り返すキールが顔をあげると、そこには微笑む魔法使いが立っていた。

「だがね、質問に答える前に私の話を聞いてほしい。これはの今度にも関わる話なのだが——」

 同意など最初から求める気もないのか。睨みつけるキールに構わず、オーリオールはそれを語り始めた——。
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