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第一章「和」国大乱
第十一節「懲悪」
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天高く聳える入道雲。
引っ切り無しに響く蝉の声。
それに、燦燦と降り注ぐ太陽。
ああ、これは。この空は。
とても、とても雄大で――
「――――暑い!!!!」
俺は叫んだ。あの入道雲に届くくらいの、蝉に負けないくらいの、太陽をかき消すくらいの大声で。
エクスクラメーションマークを四つも付けて。
俺たちが検非違使の訓練兵となってから――俺と結の『比翼連理』が判明してから、およそ一ヶ月半が経過した。髪が中途半端に伸びており、坊主と普通の中間で絶妙にダサい髪型になっている、今日この頃。
暦の上では、葉月。つまりは八月だ。夏真っ盛りであり、幾多の生物が活動を盛んにする季節であり――そして何より、暑い。この上なく、暑い。暑苦しい。むさくるしい。うざったい。しんどい。
暑いのは、嫌いだというのに――しかしこんな日にも、訓練は変わらずあるのだった。今すぐにでも、神社の自室に帰りたい。
「情けない声出すんじゃねえよ、肇」
「せやで。暑いからこそ、気張って訓練せな」
「逆におまえらは、なんでそんなに元気なんだよ……」
俺が水筒の水を頭からかぶっていると、秀隆と守治の二人がおちょくりに来る。南国生まれなのか? いや、今の大和には、西側に人間はいないはずだ――妖怪と国交を断絶し、住処を東西に分けている、今の大和には。
「ああ、太逸君め。一人だけ先に抜けて、楽しやがって」
「いや、それを狙ったわけやないやろ」
性格まで荒むな。と、守治が俺に突っ込む。
「まあ、ここじゃ三ヶ月したら、すぐ正隊員になっちまうからな。太逸は俺たちよりも一か月先に入隊してたから、卒業の時期がずれんのは仕方ねえよ」
「そうそう。なんなら僕らも、あと二週間くらいで出てっちゃうんやで? 肇君、この先大丈夫か? 一人で厠行ける?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
しかし彼らの言う通り(俺がトイレに一人で行けないというのは、言う通りではないが)、この『検非違使』はかなり流動の激しい機関で、訓練生は3か月の訓練を経ると、自動で正隊員になる。
だからこの訓練場に、太逸君はいない。更に言うなら、初日に顔合わせをした女子の内の一人、三輪雛さんもまた、もう働きに出ている。
とはいえ、そんな事情を知っていたら、わざわざ夏の暑い季節に入隊しなかったのに。もっと涼しい、秋になってから入ればよかった。
「つーか、そんなに暑いならよ、あの温度を下げる魔術、使えばいいじゃねえか」
「いや、あれはまだ、完璧じゃないし……」
秀隆が今言った、『温度を下げる魔術』というのは、俺の天性、『静寂』を駆使して編み上げようとしている『魔術』のことを言っているのだろうが――俺はまだその『魔術』を、自分のものにできていない。
「おいおい、そんなこと言っとると、上達も早まらんで……いつも教えとるやろ。『魔術』とは、天性の応用。魔力操作の運用。普段から使おとかんと、上達も早まらんのや」
「分かってるよ……」
実際、彼の言う通りではあるのだ。
『魔術』とは、天性の応用――例えば、俺の天性の『静寂』の能力は、普通に使えば、物を『止める』ということに留まる。
しかし、それを利用してもっと高度なことをする場合――『温度を下げる』ことをしたければ、それには、相当複雑な魔力の操作が必要になる。ただ止めるだけでなく、分子レベルで動きを抑制する必要があるからだ。
「それに、なまじそれに成功したとしても、何時間もかかっていたら意味あらへんからな。その所作を洗練させて、一瞬でできるように反復して練習する必要があるんや。だから、僕は、口を酸っぱくして言っとるんやで?」
「はいはい、分かってるって……」
「分かってません! ほんまもうあんたは、何遍言うても聞かへんから敵わんわ!」
「なんでちょっとお母さんみたいな口調なんだよ……」
ともかく。このように、ハイレベルなことをスピーディーにこなすことができれば、その天性の発動は『魔術』と呼べる代物になるのだ。
だから俺は、それを完成させるために、一人でずっと修練をしているのだが――その『魔術』はまだ、形になっていない。十分かけてやっと、水が凍り始めるくらいの能力しか持っていない。
「それに、一人でいるときの俺は、だいたい肆等級だし……そんな高度なことをしてたら、逆に疲れる」
「ほんま、やらん理由を探すときだけはいっちょ前やな、君は」
「う、うるさいですね……」
本当に、嫌なところを突いてくるやつだ。こんな、茹だるような暑い日に、努力しろってのが無理な話だというのに。
そもそも俺は、人前で努力するのが苦手なのだ。
特訓とかは、こっそりやりたい。ひんやりした夜に、独りで。
「そうだぞ。肇君!!」
と、俺がこの世界に無いアイスクリームに恋焦がれながらも、二人と話していると、突如。
とんでもない大声で、横から会話を割ってくる者が居た。
「あ、し、宍戸さん――」
「肚から声を出したまえ、肇君!! そんなことで、立派な正隊員になれるのかい!?」
続けて大声で声の雨を降らせてくる彼の名は、宍戸枇榔。
背がかなり高く、俺よりも十数日前に入隊した訓練生であり、つまりは先輩にあたる人なのだが――
「そもそもだね、肇君。ここに居る秀隆さんや守治さんは、君にとっては先輩なのだぞ? そんな横柄な態度で接して、良いと思っているのかい?」
――うん。こういう言動から察せられると思うが、なんというかこう、有体に言えば『うざい』先輩なのだ。
基本的にどんなときも快活で、明るくて、そういうところは長所だと思うのだが、時たま今のように、心底めんどくさいことを言ってくる。
「いや、俺たち、普通にともだちだしな」
「そーそ。そんなこと、別に気にしいひんわ」
「ダメですよ、先輩方! そんな風に肇君を甘やかしては!! 先輩たるもの、もっと毅然とした態度で接しなくては!!」
宍戸さんから見れば、秀隆と守治は先輩なので、敬語を使っている――
いや、俺にとってもそうっちゃそうなのだが、秀隆の言った通り(数少ない)友人なのだし、そもそも一ヶ月や二ヶ月ほどの差で上下関係を語るのは、ナンセンスだと思う。
彼のこの態度は勿論、俺に対してのみでなく、他の後輩に対してもそうなので、その名前も相まって、『獅子の宍戸』なんて異名で呼ばれていたりもするのだが――
しかし、この先輩は、特に俺に対して――『御縁肇』に対してあたりが強い。
これは、俺の被害妄想などではなく、一日に俺に話しかける量が、明らかに他の後輩よりも多い(自らの陰湿さを活かし、わざわざ数えた)。
そしてそれには、のっぴきならない――というか、どうにもならない理由があったりするのだが。
「全く、君はそんな体たらくで、結君を守れるのかい? そんなことでは、僕が奪ってしまうぞ?」
……まあ、つまりはそういうことだ。
この人は、俺の妻のことが――結のことが、気になっているらしい。取りも直さず、好意を抱いているらしい。
何の拍子でそうなったかは知らないが、この人はさりげなく、俺たちの仲を裂こうとしているきらいがある――直接的ではないにせよ、間接的に、唆してくるのだ。本人に対しても、夫の俺に対しても。
この世界に来るまでも、大学の恋人時代から、こういうことはままあったので、適当に受け流しつつ生活をしていたのだが……この人は、歴代のこじらせ男よりも大分しつこい。
「大体、君はまだ肆等級ほどなのだろう? 上位発現者である参等級の僕こそ、彼女にはふさわしいと思うのだが」
「いや、だから、俺たちは――」
俺たちは二人で居ると、強くなる――『比翼連理』の効果で、弐等級ほどの強さになるんだけど……何遍も同じ説明をしているのに、彼は納得いかないらしい。
「――はあ。まあ、何でもいいですけど……」
こうなってしまった彼が、何を考えているのかなど理解できない。恋は盲目というのは、ひとが思うよりも正しいのだ。経験則だが。
「でも、これだけは言っておきますよ」
「ン? 何だい?」
灼熱の太陽が頭上に差し掛かり、もうすぐ昼食の時間だというところで、俺は宍戸さんに向き直る。
何を誤解されようと、言っておかなければならないことがある――これも何回も、言っている台詞ではあるのだが。
「これだけは言っておきます。結に一番ふさわしいのは、自分です」
そんなクサい台詞と共に、正午を告げる鐘の音が鳴り響く。
眉間に皺を寄せる宍戸さんを背に、俺と二人の友人は揃って、食堂へと向かうのだった。
―――――――――――
「『これだけは言っておきます。結に一番ふさわしいのは、自分です』――だってよ!!」
「ハハハ! 自分、かっこつけすぎやろ!!」
「失せろ、てめえら」
腹を抱えて笑う先輩に向けて、俺は鋭く言い放つ。
そんな短い、強烈な暴言を吐くのは、久しぶりだった。こんな悪口、友人に言わせないで欲しい――たとえ後輩だとしても、尚更。
「ちょっと男子、何笑ってんの? めちゃくちゃカッコいいじゃん! あー、いいなー。私もそんなこと言ってほしー!」
「まあ、粗雑で幼稚な君たちが、乙女心を汲み取るのは無理な話だろうがね――私は別に、言われたい願望はないが」
と、正面に座る二人、ギャルっぽい夛賀波三嵜さんと、ダウナーな叢雲更芽さんの二人が、俺を庇ってくれる。今だけは彼女らのことを、女神だとも思える。
「でもさ、枇榔くんも無謀な夢みるよね。よりによって、訓練生内でいっちばんのおしどり夫婦の結ちゃんを好きになるなんて。普通無理だって、分かると思うんだけど」
「いや、ああいう部類の人間はむしろ、逆境に燃えるのかもしれないぞ。自分を世界の中心と捉えて、思い通りになるまで苦労する――難敵にこそ全霊を尽くすという、そういう自分が、好きなのだろう」
その女神たち、夛賀波さんと叢雲さんが、宍戸さんについて考察している。恋バナをするときの女子の眼光の鋭さというのは、どこで培うのだろう……ということはさておき。
逆境に燃える、主人公か。
俺みたいなやつには、一生分からない感覚だ。
『枇榔』という名前も、どことなく、語感が『ヒーロー』と似ている感じがするし――考えすぎか?
「ところでよ。そのお姫様はどこにいんだ? お前らと一緒じゃなかったのか?」
「ああ、結ちゃんなら、ちょっとお花を摘みに行くって言ってたけど」
「はあ? 花? 何でそんなもん摘んでくんだよ?」
「秀隆ってさあ、ほんっっとうに、馬鹿だよね」
「え!? 何で!?」
そんな馬鹿な掛け合いは置いておくとして。
しかし、テレパシーも通じないということは、半径三十メートルの位置にはいないってことになる。
『比翼連理』は、お互いの距離が三十メートル以内でなければ発動しないので、相手の脳内を覗けるか覗けないかで、その範囲に居るかが分かる。
「それにしたって、遅い気ぃするけどな……肇君、確か君たちの指輪って、なんか特殊な能力が宿っとったやろ? 変わりはないんか?」
「いや、普段通りだけど……」
守治の言う通り、俺たちが嵌めている結婚指輪には、特殊な機能がある。これを嵌めていないと、たとえ近距離に居たとしても『比翼連理』が発動しない。
この指輪が、俺たちを結ぶ楔なのだ。その仕組みは、未だ解明されていないが。
それと、もう一つ。お互いにこの指輪を嵌めているとき、これは『熱』を帯びている。本当に、触覚的に『熱い』わけではないが、力が漲っているような感覚がするのだ。
テレパシーとは違い、距離が離れていたとしても、何故かその『熱』は、感じ取れる――魔法とはまた違う、不可思議な現象。
「まあ、そんなに心配しなくても、大丈夫だと思うけど――」
大方、蝶やら花やらに気を取られて、道草でも食ってるんだろ――なんて。
そんな危機感のない台詞を吐いた俺は、しかし、すぐに、思い知らされることになる。
左手の薬指から、忽然と『熱』が消えた。
いつも帯びているはずの『熱』が――正体不明の『熱』が、消えたのだ。
そこで俺は、一気に顔から血の気が引く。
まるで、自分の片翼がもがれたかのような――自分を支える一方の枝が折れたかのような喪失感に襲われる。
まずい。
これは間違いなく、何かあった。
だって、おのずから結が、指輪を外すわけがない――風呂ならともかく、こんな昼時に、わざわざ着脱するはずがないのだ。
だからこれは、有事だ――緊急事態だ。
「結を――結を、さがさなきゃ」
俺は箸を乱雑に放り、わき目も降らず食堂を飛び出す。
焦りと恐怖と、憂患とともに。
―――――――――――
その光景を見たときに、最初に湧いた感想は、『ああ、こんなこと、本当にあるんだ』というものだった。
本来ならば夫として、怒りだとか、焦りだとかいう感情が湧く必要があったのだろうが――感情などというものは、そう易々とコントロールできるものではない。
だから、仕方のないことなのだ。
倉庫の裏で、あの先輩に絡まれている結を見たとき、どこかそんな、他人事のような感情を抱いたのは。
「かえしてください!!」
「おいおい、そんなに目くじらを立てずとも――こんなものよりも、もっと良いものを贈ってあげるというのに」
見ると、結が躍起になって、宍戸さんの手から何かを取り返そうとしている。彼の右手に握られた、銀色に光るそれを、身長差があるというのに――
その、結婚指輪を。
――なるほど。つまり彼が、結から無理やり指輪を奪ったのか。だから、俺の薬指から、『熱』の感覚がなくなったと。
その謎が解けたのと同時に、俺の憂慮は薄れ――そして、遅ればせながらに、怒りが湧いてきた。
山姥に向けたのと、似たような怒りが。
「宍戸さん! 何してるんですか!!」
「む、肇君? それに、秀隆さんに、守治さんに――き、君たちが、何故ここに……!?」
俺が血相を変えて彼に詰め寄ると、彼は驚いたように仰け反り、俺から距離を取る。とはいえ、俺に驚いたというより、後ろに居る四人の先輩――秀隆、守治、夛賀波さん、叢雲さんの四人に、恐れをなしたようだったが。
それでも俺は結を背中に庇って、彼に対峙した。
「……返してくださいよ、それ」
「――ふん、そんなに返して欲しいなら、力づくで奪い取ってみたまえよ……もっとも、この指輪が無ければ、『比翼連理』は発動しない、のだよな。その状態で、果たして俺に勝てるのかな?」
……はっ。
何だ。
俺の説明、ちゃんと聞いてたんじゃねえか。
だからこそ、結から指輪をはぎ取ったのか……全く、彼が快活だという俺の評価は、覆さねばならないかもしれない。
この人は明らかに、陰湿だ。
「おい、肇、どうする? こいつ、俺たちが一発ぶん殴って――」
「いや、秀隆。それにみんな。手を出さないでくれ」
後ろの四人が――参等級の四人が、束になって宍戸さんに立ち向かおうとしてくれるが。
俺はそれを制止し、彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。俺の目線より、幾分か高い位置にある彼の瞳を。
「俺一人で、十分だから」
「は、はじめちゃん……」
「……ははっ! 威勢がいいねえ。いつもそんな態度なら、張り合いがあるってのにさ」
彼は俺の宣戦布告を受け取ったのか、ファイティングポーズをとる。完全に、俺と戦(や)る気らしい。
「さあ、いつでも来たまえ! 僕が君の魔術を、受け止めてやる! ただしその頃には、君は無様に地に伏せて――」
「口上が長いですよ、先輩」
『暗黒沈静』。
そんな、ぽつりと呟いた一言と共に。
俺は跳躍し、彼の手からいともあっさりと、指輪を奪還した。
「な、何ッ……!? な、何も、見え――」
俺が目標物を取り上げた後も、彼は腕を闇雲に振り回しながら、その場で狼狽している。まるで、目隠しをされたかのように。
そう。
さっきの『暗黒沈静』は、この一か月余りで編み出した、俺の『魔術』だ。
確かに俺の、物理的な温度を下げる技術は、まだ未熟だ。
だけど、最初に思いついた魔術――相手の神経に作用し、『相手の五感を奪う』という魔術は、もう既に完成していたのだ。ひんやりした夜に、独りでこっそり特訓した甲斐があった。
温度を下げる、なんて王道な魔術より、相手のデバフが初めに思いつくってのは、なかなかどうして陰湿だと、我ながら思う――宍戸先輩のことを、言えないほどの陰湿さだ。
だが、その陰湿さが、此度の戦闘での勝利につながったのだから、万事塞翁が馬だ。もし『温度を下げる』方を先に習得していたら、勝てなかったのかもしれない。後ろに居る友人に、頼っていたかもしれない。
「あ、あわッ!?」
慌てふためき、膝を崩す彼が、変なこけ方をしない前に。
俺は『静寂』を発動させ、壁に押し寄せて体の動きを『止めた』。
それと同時に、『暗黒沈静』を解除し、彼に五感を取り戻す――これにて、完全制圧。指輪の奪還、完了だ。
「ふ、ふん、別にはじめちゃんが来なくても、どうにかなってたのに」
俺が振り返ると、涙目で、しかし昂然と強がって顔を逸らす結がそこにいた。こんな状況なのに、相変わらず素直じゃない。
「はは。じゃあ、来ない方が良かったか?」
「……ううん、嬉しい」
俺が、奪い返した指輪を布で拭い、結の薬指に嵌めると――彼女ははにかみながら、俺の腕に抱き着いてきた。
いつもなら、あまりくっつくなと諫めるところだが――片翼を取り戻したかのような、支えを再び得たかのような充足感に包まれる今の俺に、それをする道理はなかった。
「く、くぅ……、み、認めんぞ。こんな卑怯な……!」
「いやいや、それを君が言うかね――無様に地に伏せているのは、君の方だよ」
「そうだよ! 女の子に手を上げるなんて、サイテー!!」
叢雲さんと夛賀波さんは彼を見下し、非難の罵倒を浴びせている――女子のこういう詰め方は、俺のトラウマを刺激するからやめてくんないかな。
「それで、肇。こいつ、どうすんだよ」
「――あ、ああ。どうしようか」
それに関しては、何も考えていなかった。こういう『悪』を倒したとき、主人公ってのはどう後処理をするのだろうか――仮面ライダーなら、怪人は爆発四散するのに。
いや、本来なら、このままこの先輩を一発殴って、「何度だっていうぜ。結にふさわしいのは、この俺だ」、みたいな台詞を吐いて立ち去るってのが、正解なのだろう――正常なのだろうが。
何故か俺は、その選択は取らなかった。
だから、ここからの俺の言動の意味は、俺にもよくわからない。
「――どうすればいいですかね」
俺は、彼の腕を掴み、ひしぎながらも――何故か、そんな要領の得ないセリフを、淡々と続けたのだ。
「な、何を……」
「だから、どうすればいいんですかね、宍戸さん」
俺の意味不明の問いかけに対し、先輩は戸惑っている――いや、彼どころか、結も、友人四人も、当惑している様子だ。こいつは、何を言っているのだと。
「いや俺は、本当に迷ってるんですよ。今この腕を少しでも捻れば、貴方の腕は折れるでしょう。そうすれば、俺の『怒り』は収まって、聴衆の感動が得られるのかもしれない――でも、それでいいのかって」
俺の言葉に、先輩は相変わらず、不審な表情をしている――
「弱いものを助けて、悪者をやっつける。確かに、胸のすく話ではありますが――今ここで貴方を傷つけていうことを聞かせるなんて、ただの押し付けなんじゃないかって疑惑が、俺の頭にあって」
だからそれは、俺の常日頃からの疑問だった。
勿論、それは必要な正義なのだろう。
のっぴきならぬ悪を斃す、そんな正義は、基本的には絶対だ――桃太郎然り、一寸法師然り、逆境に燃える主人公然り。
鬼を倒して勝ち取る、そんな勧善懲悪は。
――でも、そのやり方って、鬼がやってるのと、同じなんじゃないのか?
暴力で言うことを聞かせるってのは、鬼のやり方と、何も変わらない――その思想信条が、違うだけで。
それで『ざまあみろ』、だなんて言えるか……少なくとも俺は、そんな愚直にはなれない。
「だから僕は、そんな行動で、根本的な問題が解決するとは思えないんですよ。だって、それで貴方の思想が変わるわけでもないし、ともすれば禍根を残して、僕らに復讐に来るかもしれない」
そんなのは、まっぴらごめんなんです、と、俺は続ける。先輩の顔が強張り、不気味なものを見るような目に変貌する。
「だから僕は、聞いてるんです、宍戸さん。どうすればいいんですか。やっぱりこの腕は、折っておいた方がいいですか。実際僕は、かなり怒っていますし。そうじゃないなら、野木山さんに突き出しましょうか。でも、先生に言いつけるってのも、何だか子供っぽいし。いっそここで正座してもらって、反省文でも綴ってもらいましょうか。いや、それもそこはかとなく、ガキっぽいですよね――」
ああ、だめだ。
やっぱり、この数分考えた程度では、答えが出ない。自分を納得させる、結論が出ない。
そもそも俺が今、何故こんなことを捲し立てているのかだって、俺には分からないのだ。無駄に冷静になって、状況を整理しようとしているのが、何故かだって――
――だから、先輩。
怖がってないで、教えてくださいよ。
「ねえ、宍戸さん――僕は、どうすればいいですか」
引っ切り無しに響く蝉の声。
それに、燦燦と降り注ぐ太陽。
ああ、これは。この空は。
とても、とても雄大で――
「――――暑い!!!!」
俺は叫んだ。あの入道雲に届くくらいの、蝉に負けないくらいの、太陽をかき消すくらいの大声で。
エクスクラメーションマークを四つも付けて。
俺たちが検非違使の訓練兵となってから――俺と結の『比翼連理』が判明してから、およそ一ヶ月半が経過した。髪が中途半端に伸びており、坊主と普通の中間で絶妙にダサい髪型になっている、今日この頃。
暦の上では、葉月。つまりは八月だ。夏真っ盛りであり、幾多の生物が活動を盛んにする季節であり――そして何より、暑い。この上なく、暑い。暑苦しい。むさくるしい。うざったい。しんどい。
暑いのは、嫌いだというのに――しかしこんな日にも、訓練は変わらずあるのだった。今すぐにでも、神社の自室に帰りたい。
「情けない声出すんじゃねえよ、肇」
「せやで。暑いからこそ、気張って訓練せな」
「逆におまえらは、なんでそんなに元気なんだよ……」
俺が水筒の水を頭からかぶっていると、秀隆と守治の二人がおちょくりに来る。南国生まれなのか? いや、今の大和には、西側に人間はいないはずだ――妖怪と国交を断絶し、住処を東西に分けている、今の大和には。
「ああ、太逸君め。一人だけ先に抜けて、楽しやがって」
「いや、それを狙ったわけやないやろ」
性格まで荒むな。と、守治が俺に突っ込む。
「まあ、ここじゃ三ヶ月したら、すぐ正隊員になっちまうからな。太逸は俺たちよりも一か月先に入隊してたから、卒業の時期がずれんのは仕方ねえよ」
「そうそう。なんなら僕らも、あと二週間くらいで出てっちゃうんやで? 肇君、この先大丈夫か? 一人で厠行ける?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
しかし彼らの言う通り(俺がトイレに一人で行けないというのは、言う通りではないが)、この『検非違使』はかなり流動の激しい機関で、訓練生は3か月の訓練を経ると、自動で正隊員になる。
だからこの訓練場に、太逸君はいない。更に言うなら、初日に顔合わせをした女子の内の一人、三輪雛さんもまた、もう働きに出ている。
とはいえ、そんな事情を知っていたら、わざわざ夏の暑い季節に入隊しなかったのに。もっと涼しい、秋になってから入ればよかった。
「つーか、そんなに暑いならよ、あの温度を下げる魔術、使えばいいじゃねえか」
「いや、あれはまだ、完璧じゃないし……」
秀隆が今言った、『温度を下げる魔術』というのは、俺の天性、『静寂』を駆使して編み上げようとしている『魔術』のことを言っているのだろうが――俺はまだその『魔術』を、自分のものにできていない。
「おいおい、そんなこと言っとると、上達も早まらんで……いつも教えとるやろ。『魔術』とは、天性の応用。魔力操作の運用。普段から使おとかんと、上達も早まらんのや」
「分かってるよ……」
実際、彼の言う通りではあるのだ。
『魔術』とは、天性の応用――例えば、俺の天性の『静寂』の能力は、普通に使えば、物を『止める』ということに留まる。
しかし、それを利用してもっと高度なことをする場合――『温度を下げる』ことをしたければ、それには、相当複雑な魔力の操作が必要になる。ただ止めるだけでなく、分子レベルで動きを抑制する必要があるからだ。
「それに、なまじそれに成功したとしても、何時間もかかっていたら意味あらへんからな。その所作を洗練させて、一瞬でできるように反復して練習する必要があるんや。だから、僕は、口を酸っぱくして言っとるんやで?」
「はいはい、分かってるって……」
「分かってません! ほんまもうあんたは、何遍言うても聞かへんから敵わんわ!」
「なんでちょっとお母さんみたいな口調なんだよ……」
ともかく。このように、ハイレベルなことをスピーディーにこなすことができれば、その天性の発動は『魔術』と呼べる代物になるのだ。
だから俺は、それを完成させるために、一人でずっと修練をしているのだが――その『魔術』はまだ、形になっていない。十分かけてやっと、水が凍り始めるくらいの能力しか持っていない。
「それに、一人でいるときの俺は、だいたい肆等級だし……そんな高度なことをしてたら、逆に疲れる」
「ほんま、やらん理由を探すときだけはいっちょ前やな、君は」
「う、うるさいですね……」
本当に、嫌なところを突いてくるやつだ。こんな、茹だるような暑い日に、努力しろってのが無理な話だというのに。
そもそも俺は、人前で努力するのが苦手なのだ。
特訓とかは、こっそりやりたい。ひんやりした夜に、独りで。
「そうだぞ。肇君!!」
と、俺がこの世界に無いアイスクリームに恋焦がれながらも、二人と話していると、突如。
とんでもない大声で、横から会話を割ってくる者が居た。
「あ、し、宍戸さん――」
「肚から声を出したまえ、肇君!! そんなことで、立派な正隊員になれるのかい!?」
続けて大声で声の雨を降らせてくる彼の名は、宍戸枇榔。
背がかなり高く、俺よりも十数日前に入隊した訓練生であり、つまりは先輩にあたる人なのだが――
「そもそもだね、肇君。ここに居る秀隆さんや守治さんは、君にとっては先輩なのだぞ? そんな横柄な態度で接して、良いと思っているのかい?」
――うん。こういう言動から察せられると思うが、なんというかこう、有体に言えば『うざい』先輩なのだ。
基本的にどんなときも快活で、明るくて、そういうところは長所だと思うのだが、時たま今のように、心底めんどくさいことを言ってくる。
「いや、俺たち、普通にともだちだしな」
「そーそ。そんなこと、別に気にしいひんわ」
「ダメですよ、先輩方! そんな風に肇君を甘やかしては!! 先輩たるもの、もっと毅然とした態度で接しなくては!!」
宍戸さんから見れば、秀隆と守治は先輩なので、敬語を使っている――
いや、俺にとってもそうっちゃそうなのだが、秀隆の言った通り(数少ない)友人なのだし、そもそも一ヶ月や二ヶ月ほどの差で上下関係を語るのは、ナンセンスだと思う。
彼のこの態度は勿論、俺に対してのみでなく、他の後輩に対してもそうなので、その名前も相まって、『獅子の宍戸』なんて異名で呼ばれていたりもするのだが――
しかし、この先輩は、特に俺に対して――『御縁肇』に対してあたりが強い。
これは、俺の被害妄想などではなく、一日に俺に話しかける量が、明らかに他の後輩よりも多い(自らの陰湿さを活かし、わざわざ数えた)。
そしてそれには、のっぴきならない――というか、どうにもならない理由があったりするのだが。
「全く、君はそんな体たらくで、結君を守れるのかい? そんなことでは、僕が奪ってしまうぞ?」
……まあ、つまりはそういうことだ。
この人は、俺の妻のことが――結のことが、気になっているらしい。取りも直さず、好意を抱いているらしい。
何の拍子でそうなったかは知らないが、この人はさりげなく、俺たちの仲を裂こうとしているきらいがある――直接的ではないにせよ、間接的に、唆してくるのだ。本人に対しても、夫の俺に対しても。
この世界に来るまでも、大学の恋人時代から、こういうことはままあったので、適当に受け流しつつ生活をしていたのだが……この人は、歴代のこじらせ男よりも大分しつこい。
「大体、君はまだ肆等級ほどなのだろう? 上位発現者である参等級の僕こそ、彼女にはふさわしいと思うのだが」
「いや、だから、俺たちは――」
俺たちは二人で居ると、強くなる――『比翼連理』の効果で、弐等級ほどの強さになるんだけど……何遍も同じ説明をしているのに、彼は納得いかないらしい。
「――はあ。まあ、何でもいいですけど……」
こうなってしまった彼が、何を考えているのかなど理解できない。恋は盲目というのは、ひとが思うよりも正しいのだ。経験則だが。
「でも、これだけは言っておきますよ」
「ン? 何だい?」
灼熱の太陽が頭上に差し掛かり、もうすぐ昼食の時間だというところで、俺は宍戸さんに向き直る。
何を誤解されようと、言っておかなければならないことがある――これも何回も、言っている台詞ではあるのだが。
「これだけは言っておきます。結に一番ふさわしいのは、自分です」
そんなクサい台詞と共に、正午を告げる鐘の音が鳴り響く。
眉間に皺を寄せる宍戸さんを背に、俺と二人の友人は揃って、食堂へと向かうのだった。
―――――――――――
「『これだけは言っておきます。結に一番ふさわしいのは、自分です』――だってよ!!」
「ハハハ! 自分、かっこつけすぎやろ!!」
「失せろ、てめえら」
腹を抱えて笑う先輩に向けて、俺は鋭く言い放つ。
そんな短い、強烈な暴言を吐くのは、久しぶりだった。こんな悪口、友人に言わせないで欲しい――たとえ後輩だとしても、尚更。
「ちょっと男子、何笑ってんの? めちゃくちゃカッコいいじゃん! あー、いいなー。私もそんなこと言ってほしー!」
「まあ、粗雑で幼稚な君たちが、乙女心を汲み取るのは無理な話だろうがね――私は別に、言われたい願望はないが」
と、正面に座る二人、ギャルっぽい夛賀波三嵜さんと、ダウナーな叢雲更芽さんの二人が、俺を庇ってくれる。今だけは彼女らのことを、女神だとも思える。
「でもさ、枇榔くんも無謀な夢みるよね。よりによって、訓練生内でいっちばんのおしどり夫婦の結ちゃんを好きになるなんて。普通無理だって、分かると思うんだけど」
「いや、ああいう部類の人間はむしろ、逆境に燃えるのかもしれないぞ。自分を世界の中心と捉えて、思い通りになるまで苦労する――難敵にこそ全霊を尽くすという、そういう自分が、好きなのだろう」
その女神たち、夛賀波さんと叢雲さんが、宍戸さんについて考察している。恋バナをするときの女子の眼光の鋭さというのは、どこで培うのだろう……ということはさておき。
逆境に燃える、主人公か。
俺みたいなやつには、一生分からない感覚だ。
『枇榔』という名前も、どことなく、語感が『ヒーロー』と似ている感じがするし――考えすぎか?
「ところでよ。そのお姫様はどこにいんだ? お前らと一緒じゃなかったのか?」
「ああ、結ちゃんなら、ちょっとお花を摘みに行くって言ってたけど」
「はあ? 花? 何でそんなもん摘んでくんだよ?」
「秀隆ってさあ、ほんっっとうに、馬鹿だよね」
「え!? 何で!?」
そんな馬鹿な掛け合いは置いておくとして。
しかし、テレパシーも通じないということは、半径三十メートルの位置にはいないってことになる。
『比翼連理』は、お互いの距離が三十メートル以内でなければ発動しないので、相手の脳内を覗けるか覗けないかで、その範囲に居るかが分かる。
「それにしたって、遅い気ぃするけどな……肇君、確か君たちの指輪って、なんか特殊な能力が宿っとったやろ? 変わりはないんか?」
「いや、普段通りだけど……」
守治の言う通り、俺たちが嵌めている結婚指輪には、特殊な機能がある。これを嵌めていないと、たとえ近距離に居たとしても『比翼連理』が発動しない。
この指輪が、俺たちを結ぶ楔なのだ。その仕組みは、未だ解明されていないが。
それと、もう一つ。お互いにこの指輪を嵌めているとき、これは『熱』を帯びている。本当に、触覚的に『熱い』わけではないが、力が漲っているような感覚がするのだ。
テレパシーとは違い、距離が離れていたとしても、何故かその『熱』は、感じ取れる――魔法とはまた違う、不可思議な現象。
「まあ、そんなに心配しなくても、大丈夫だと思うけど――」
大方、蝶やら花やらに気を取られて、道草でも食ってるんだろ――なんて。
そんな危機感のない台詞を吐いた俺は、しかし、すぐに、思い知らされることになる。
左手の薬指から、忽然と『熱』が消えた。
いつも帯びているはずの『熱』が――正体不明の『熱』が、消えたのだ。
そこで俺は、一気に顔から血の気が引く。
まるで、自分の片翼がもがれたかのような――自分を支える一方の枝が折れたかのような喪失感に襲われる。
まずい。
これは間違いなく、何かあった。
だって、おのずから結が、指輪を外すわけがない――風呂ならともかく、こんな昼時に、わざわざ着脱するはずがないのだ。
だからこれは、有事だ――緊急事態だ。
「結を――結を、さがさなきゃ」
俺は箸を乱雑に放り、わき目も降らず食堂を飛び出す。
焦りと恐怖と、憂患とともに。
―――――――――――
その光景を見たときに、最初に湧いた感想は、『ああ、こんなこと、本当にあるんだ』というものだった。
本来ならば夫として、怒りだとか、焦りだとかいう感情が湧く必要があったのだろうが――感情などというものは、そう易々とコントロールできるものではない。
だから、仕方のないことなのだ。
倉庫の裏で、あの先輩に絡まれている結を見たとき、どこかそんな、他人事のような感情を抱いたのは。
「かえしてください!!」
「おいおい、そんなに目くじらを立てずとも――こんなものよりも、もっと良いものを贈ってあげるというのに」
見ると、結が躍起になって、宍戸さんの手から何かを取り返そうとしている。彼の右手に握られた、銀色に光るそれを、身長差があるというのに――
その、結婚指輪を。
――なるほど。つまり彼が、結から無理やり指輪を奪ったのか。だから、俺の薬指から、『熱』の感覚がなくなったと。
その謎が解けたのと同時に、俺の憂慮は薄れ――そして、遅ればせながらに、怒りが湧いてきた。
山姥に向けたのと、似たような怒りが。
「宍戸さん! 何してるんですか!!」
「む、肇君? それに、秀隆さんに、守治さんに――き、君たちが、何故ここに……!?」
俺が血相を変えて彼に詰め寄ると、彼は驚いたように仰け反り、俺から距離を取る。とはいえ、俺に驚いたというより、後ろに居る四人の先輩――秀隆、守治、夛賀波さん、叢雲さんの四人に、恐れをなしたようだったが。
それでも俺は結を背中に庇って、彼に対峙した。
「……返してくださいよ、それ」
「――ふん、そんなに返して欲しいなら、力づくで奪い取ってみたまえよ……もっとも、この指輪が無ければ、『比翼連理』は発動しない、のだよな。その状態で、果たして俺に勝てるのかな?」
……はっ。
何だ。
俺の説明、ちゃんと聞いてたんじゃねえか。
だからこそ、結から指輪をはぎ取ったのか……全く、彼が快活だという俺の評価は、覆さねばならないかもしれない。
この人は明らかに、陰湿だ。
「おい、肇、どうする? こいつ、俺たちが一発ぶん殴って――」
「いや、秀隆。それにみんな。手を出さないでくれ」
後ろの四人が――参等級の四人が、束になって宍戸さんに立ち向かおうとしてくれるが。
俺はそれを制止し、彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。俺の目線より、幾分か高い位置にある彼の瞳を。
「俺一人で、十分だから」
「は、はじめちゃん……」
「……ははっ! 威勢がいいねえ。いつもそんな態度なら、張り合いがあるってのにさ」
彼は俺の宣戦布告を受け取ったのか、ファイティングポーズをとる。完全に、俺と戦(や)る気らしい。
「さあ、いつでも来たまえ! 僕が君の魔術を、受け止めてやる! ただしその頃には、君は無様に地に伏せて――」
「口上が長いですよ、先輩」
『暗黒沈静』。
そんな、ぽつりと呟いた一言と共に。
俺は跳躍し、彼の手からいともあっさりと、指輪を奪還した。
「な、何ッ……!? な、何も、見え――」
俺が目標物を取り上げた後も、彼は腕を闇雲に振り回しながら、その場で狼狽している。まるで、目隠しをされたかのように。
そう。
さっきの『暗黒沈静』は、この一か月余りで編み出した、俺の『魔術』だ。
確かに俺の、物理的な温度を下げる技術は、まだ未熟だ。
だけど、最初に思いついた魔術――相手の神経に作用し、『相手の五感を奪う』という魔術は、もう既に完成していたのだ。ひんやりした夜に、独りでこっそり特訓した甲斐があった。
温度を下げる、なんて王道な魔術より、相手のデバフが初めに思いつくってのは、なかなかどうして陰湿だと、我ながら思う――宍戸先輩のことを、言えないほどの陰湿さだ。
だが、その陰湿さが、此度の戦闘での勝利につながったのだから、万事塞翁が馬だ。もし『温度を下げる』方を先に習得していたら、勝てなかったのかもしれない。後ろに居る友人に、頼っていたかもしれない。
「あ、あわッ!?」
慌てふためき、膝を崩す彼が、変なこけ方をしない前に。
俺は『静寂』を発動させ、壁に押し寄せて体の動きを『止めた』。
それと同時に、『暗黒沈静』を解除し、彼に五感を取り戻す――これにて、完全制圧。指輪の奪還、完了だ。
「ふ、ふん、別にはじめちゃんが来なくても、どうにかなってたのに」
俺が振り返ると、涙目で、しかし昂然と強がって顔を逸らす結がそこにいた。こんな状況なのに、相変わらず素直じゃない。
「はは。じゃあ、来ない方が良かったか?」
「……ううん、嬉しい」
俺が、奪い返した指輪を布で拭い、結の薬指に嵌めると――彼女ははにかみながら、俺の腕に抱き着いてきた。
いつもなら、あまりくっつくなと諫めるところだが――片翼を取り戻したかのような、支えを再び得たかのような充足感に包まれる今の俺に、それをする道理はなかった。
「く、くぅ……、み、認めんぞ。こんな卑怯な……!」
「いやいや、それを君が言うかね――無様に地に伏せているのは、君の方だよ」
「そうだよ! 女の子に手を上げるなんて、サイテー!!」
叢雲さんと夛賀波さんは彼を見下し、非難の罵倒を浴びせている――女子のこういう詰め方は、俺のトラウマを刺激するからやめてくんないかな。
「それで、肇。こいつ、どうすんだよ」
「――あ、ああ。どうしようか」
それに関しては、何も考えていなかった。こういう『悪』を倒したとき、主人公ってのはどう後処理をするのだろうか――仮面ライダーなら、怪人は爆発四散するのに。
いや、本来なら、このままこの先輩を一発殴って、「何度だっていうぜ。結にふさわしいのは、この俺だ」、みたいな台詞を吐いて立ち去るってのが、正解なのだろう――正常なのだろうが。
何故か俺は、その選択は取らなかった。
だから、ここからの俺の言動の意味は、俺にもよくわからない。
「――どうすればいいですかね」
俺は、彼の腕を掴み、ひしぎながらも――何故か、そんな要領の得ないセリフを、淡々と続けたのだ。
「な、何を……」
「だから、どうすればいいんですかね、宍戸さん」
俺の意味不明の問いかけに対し、先輩は戸惑っている――いや、彼どころか、結も、友人四人も、当惑している様子だ。こいつは、何を言っているのだと。
「いや俺は、本当に迷ってるんですよ。今この腕を少しでも捻れば、貴方の腕は折れるでしょう。そうすれば、俺の『怒り』は収まって、聴衆の感動が得られるのかもしれない――でも、それでいいのかって」
俺の言葉に、先輩は相変わらず、不審な表情をしている――
「弱いものを助けて、悪者をやっつける。確かに、胸のすく話ではありますが――今ここで貴方を傷つけていうことを聞かせるなんて、ただの押し付けなんじゃないかって疑惑が、俺の頭にあって」
だからそれは、俺の常日頃からの疑問だった。
勿論、それは必要な正義なのだろう。
のっぴきならぬ悪を斃す、そんな正義は、基本的には絶対だ――桃太郎然り、一寸法師然り、逆境に燃える主人公然り。
鬼を倒して勝ち取る、そんな勧善懲悪は。
――でも、そのやり方って、鬼がやってるのと、同じなんじゃないのか?
暴力で言うことを聞かせるってのは、鬼のやり方と、何も変わらない――その思想信条が、違うだけで。
それで『ざまあみろ』、だなんて言えるか……少なくとも俺は、そんな愚直にはなれない。
「だから僕は、そんな行動で、根本的な問題が解決するとは思えないんですよ。だって、それで貴方の思想が変わるわけでもないし、ともすれば禍根を残して、僕らに復讐に来るかもしれない」
そんなのは、まっぴらごめんなんです、と、俺は続ける。先輩の顔が強張り、不気味なものを見るような目に変貌する。
「だから僕は、聞いてるんです、宍戸さん。どうすればいいんですか。やっぱりこの腕は、折っておいた方がいいですか。実際僕は、かなり怒っていますし。そうじゃないなら、野木山さんに突き出しましょうか。でも、先生に言いつけるってのも、何だか子供っぽいし。いっそここで正座してもらって、反省文でも綴ってもらいましょうか。いや、それもそこはかとなく、ガキっぽいですよね――」
ああ、だめだ。
やっぱり、この数分考えた程度では、答えが出ない。自分を納得させる、結論が出ない。
そもそも俺が今、何故こんなことを捲し立てているのかだって、俺には分からないのだ。無駄に冷静になって、状況を整理しようとしているのが、何故かだって――
――だから、先輩。
怖がってないで、教えてくださいよ。
「ねえ、宍戸さん――僕は、どうすればいいですか」
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