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第一章「和」国大乱
幕間「遊子橋さんの一日」前編
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突然だが、先ほど結と喧嘩をした。
俺は布団に寝そべり、天井を見上げながら先刻の状況を思い出す。
原因は、些細なことだった――確か、「親指と人差し指はどちらが重要か」とか、「爪の垢を煎じて飲むときの爪とは手の爪か足の爪か」とか、そんな本当にくそしょうもなくてどうでもいいことが端緒だった。
その段階では、和やかな雑談であったはずなのだが――徐々にヒートアップを重ねていき、最後には互いの人格の欠点を指摘するにまで発展したのだ。
そうして怒った結は、禮斎神宮の一室、俺たち夫婦が間借りしている部屋から、飛び出してしまった。あの調子じゃ、しばらく口を聞いてくれないかもしれない。
「……ったく、久しぶりの休暇だってのにさ」
「本当ですね、お兄様。全く、結さんの短気には困ったものです」
「うぇ、善乃ちゃん!? いつからいたの!?」
俺が声に驚き振り返ると、鈴を転がしたような声の美少女が――つい先日、この神社の巫女見習いとして生活を始めた東久部良善乃ちゃんが、そこにいた。
「お兄様が、『突然だが……』とかぶつぶつ言い始めたときからですが?」
「最初からじゃねえか……」
てか、盛大な独り言を聞かれるのって、相当恥ずかしいな――俺はひとりになるとかなり独り言を話すタイプなので、音もなく入室してくるのは止めて欲しい。
「そんなことよりもお兄様。今日は非番なのですよね?」
「夫婦喧嘩を『そんなこと』扱いされたのはびっくりだけど、そうだよ。俺も結も、今日は非番だ」
「良かったです。実は遊子橋さんが、お兄様のことを呼んでいらして」
「遊子橋さんが?」
つまり彼女は、彼の使いで、俺を呼びに来たということか。
「はい。何やら用事があるとのことで。私と一緒に、庶務室に行きましょう?」
「う、うん。まあ、あの人の呼び出しなら、行かないとな」
普段ものぐさな俺ではあるが、いつもお世話になりっぱなしの彼が言う用事とあらば、馳せ参じないわけにはいかない。普段貰っている恩を、少しでも返さねば。
「ささ、行きましょう、お兄様!」
「分かってるよ……引っ張らなくても」
俺は善乃ちゃんに、やや強引に手を引かれながら、少し離れた庶務室へと歩いていく。
爽やかな秋風が、俺たちの間を吹いていったが――なにか。
俺の心にはなにか、しこりのようなものが、依然残っていた。
―――――――――――――
「ははは、肇さん。結さんを怒らせてしまったようですね。すごい剣幕で神社を出ていきましたよ」
「はあ……、お恥ずかしい限りです」
朝の陽光が窓から差し込む庶務室。
俺は、善乃ちゃんと並びながら、部屋の中央に正座している遊子橋さんと、対峙していた。今朝の夫婦喧嘩を、説諭されながら。
遊子橋崇文さん――この禮斎神宮の宮司であり、都の守護を任されている、長髪で美形の男性。いつもの白衣に、紫の袴をはいている、都で一番の人徳者。
「ああ、あんなに鴛鴦夫婦だったのに、遂に見捨てられてしまったのですね……」
「お、大袈裟ですよ……」
オーバーにリアクションをする彼に対し、俺はバツが悪いながらも答える。
というか別に、見捨てられてなどいない。いないと信じたい。
「いやいや、肇さんの話ではありませんが、相手の優しさに胡坐をかく者が、あとで痛い目を見るというのは、良くある話ですよ――そうですね。ここはひとつ、妻に見捨てられてしまった男の、とある実話を披露しましょう」
「いや、しないでください」
「これは、かなり昔の話なのですが」
聞けよ、人の話を。
「その男女は、始めは普通の夫婦だった。男は女を気遣い、女は男を立てる、傍から見れば、理想の二人だったのでしょう……しかし、次第に男は、そんな相手の優しさに安心し、そして、慢心した。もともと酒好きだったことも手伝い、飲んだくれの素封家になってしまったのです。それでも女は、彼の帰りを健気に待ち、帰ってきたならば『ご飯が良いですか、それとも、寝るのが良いですか』と、献身的に男の世話をしていました」
そう、ある時期までは、と、遊子橋さんは続ける。
俺と善乃ちゃんは揃い、ごくり、と生唾を呑む。
「しかし、数年が立った頃でしょうか。いつものように、何日かぶりに家に帰った男は、違和感に気付く。おや、あいつの姿がないな、と。不審に思った男は、家の中に足を踏み入れるのですが――突如、後ろから誰かに突き飛ばされた。驚き振り向くと、そこには、彼の妻が、いつもと変わらぬ無表情で仁王立ちをしていた。なんと、俺はこいつに突き飛ばされたのかと思ったのも束の間、彼女は、懐から取り出した包丁を抜き出し、彼の首元を掴んでこう言い放ったのです――」
そう言うと、彼は無表情になって、一言。
「――『首が良いですか、それとも、腹がいいですか』、と」
「…………」
いや、こえーよ。
こんな秋の深まった、しかも朝の早くから、怪談を披露しないでいただきたい。
ただでさえ背筋は冷え切っているというのに――それに、猟奇的なオチで終わる、というポイントが結に重なる所もあるので、他人事でない感が半端ない。
ほら、横にいる善乃ちゃんが、泣きそうになっているじゃないか……俺は彼女の背中をさすり、その震えを収める。
「まあ、実話と言うのは嘘ですが」
「嘘かい!!」
「嘘なんですか!?」
俺たちは揃って、彼にツッコミをする。
「ははは。驚きましたか? これが本当ならば、誰がこの話を伝えたのか、ということになりますからね」
ころころと笑いながら、俺たちをからかう遊子橋さん。
彼は意外と、会話に独特なユニークを挟んでくるのが好きなのだ……何というか、色々な意味で、彼には勝てる気がしない。
「まあ、それはさておき。肇さん、どうせ今日一日、暇ですよね?」
「その物言いには大いに物申したいですけど、確かに今日は暇です」
「良かった! それでは、ひとつ頼まれてくれませんか?」
「頼み事ですか?」
何だろう、彼から頼られるという経験があまりないので、考えが読めない。
もし戦闘をして欲しいという依頼なら、今は俺一人だけなので、大した力になれないが――結と一緒の時でないと、『比翼連理』は発動しない。俺の魔術は、本領を発揮しないのだ。
「いえ、そんな物騒な話ではありませんよ。ただ単に、仕事を手伝ってほしいのです」
「仕事?」
「ええ、肇さん。それに善乃ちゃん。今日の私の、一日の仕事を手伝ってください――まずは、お掃除からです」
――――――――
「……ふう、この辺りは、これくらいでいいか」
「いいえ、お兄様。もっとこう、溝も掃くように――そう、そうです!」
庶務室を出てから半刻、およそ一時間。俺と善乃ちゃんと遊子橋さんは、石畳で舗装された神社の道の掃き掃除をしていた。
まだ紅葉の季節ではないといえ、落葉やらなんやらで汚くなっていたのを一掃し、綺麗にしたのだ。善乃ちゃんに、マンツーマンで手ほどきを受けながらも。
「うん、この道も、この位で良いでしょう。取り敢えず、掃除はこれくらいにしておきましょうか。お二人とも、お疲れ様です!」
敷地内を見回し、掃除の結果を認めた遊子橋さんは、俺たちに終わりの合図を告げる。
「……それにしても、宮司の遊子橋さん自ら掃除をしてるんですよね。それも、毎朝」
「当然です。清掃とはすなわち、穢れを祓う行為。神事の根幹に繋がる、重要な業務なのですから、私自らそれに従事するのは、当たり前のことです」
言いながら、彼は掃除の後始末をする――うーん、相変わらずの篤実ぶりだな。ここまで前向きに掃除に取り組めるのは、遊子橋さんくらいのものだろう。
「さて……それでは、次の業務に向かいましょう」
掃除道具をかたづけた彼は、すぐに方向を転換し、神社の外へと歩を進めた。俺たちもならって、それに続く。
「……あれ? 神社から出るんですか?」
「はい。いつもならこの時間は、神社の仕事があるのですが……今日は珍しく立て込んでいないので。町へ出て、依頼を片付けようかと思いまして」
俺の疑問に、彼は歩を止めずに答える。
なるほど、彼は今から、神社の宮司としての仕事ではなく、もう一つの仕事――彼が普段からやっている、あの仕事をするつもりなのだろう。
「都の人のお悩みや厄介ごとを引き受けて、対応する仕事ですね! やっぱり遊子橋さんはすごいです。そんなことを、常日頃からやっているなんて」
「いやあ、宮司になる前からの、癖が抜けないだけですよ」
善乃ちゃんの羨望の眼差しに、はにかみながら、彼は返す。
そう、彼は、お悩み相談のようなものを、普段から受け付けている――都の人からの依頼を引き受け、解決するということを行っているのだ。
神事に関わることだけでなく、些細なことまでも。神社の領域を飛び越え、都の守護役としての役割を、存分に果たしている。大和で一番大きな神社の、トップ自らが。
(これだから、頭が上がらないんだよな……俺だったら、絶対立場に胡坐をかいてるぞ)
彼のあまりの善行ぶりに、自分の卑賎さを認識させられてしまうほどだ――
と、そんなことを考えているうちに、俺たちは、件の依頼があった家へと到着する。
「こんにちは、遊子橋です」
「はいはい、今行きます……ああ、ありがとうねえ、来てくれて」
遊子橋さんが戸を叩いて自分の名を告げると、中から老婆が――穏やかな様子のおばあちゃんが、ゆっくりと出てきて、彼にお礼を告げた。
「最近また、変なのが家にいてねえ――遊子橋さん、祓ってくれるかい?」
「ええ、おやすい御用ですよ……肇さん、手伝ってくれますか?」
「は、はい」
どうやらその依頼とは、彼女の家に、悪いものが――有体に言うと妖気が溜まっており、それをどうにかして欲しいというものらしい。
「善乃ちゃんは、後ろで見ていてくださいね。いずれ巫女として、こういった仕事をするかもしれませんから」
「はい。善乃、しかと見学させていただきます」
善乃ちゃんを一歩引かせた俺たちは、おばあさんに連れられ、家の一番奥にある部屋に入る。
畳が敷かれ、押入れが備え付けられている和室。一見、普通の部屋に見えるが――しかし、足を踏み入れると同時に、悪寒がぞわりと肌を伝う。
なるほど、これは確かに、『悪いもの』だ。言い表せないようなおぞましい気が、この部屋中に充満している。
「うーん、これは酷いですね……この部屋自体が、悪い気の吹き溜まりのようになっています」
「でしょう? 私もう、居心地が悪くってねえ」
遊子橋さんも、その異様な空気を察知したのだろう。口元を手で抑えながら、おばあさんに説明をしている。
「ここまで酷いからには、この部屋に悪い気が溜まった原因があると考えられますが――おばあさん、何か心当たりはありますか?」
「いや、そう言われてもねえ……てんで見当がつかないよ」
「そうですか――では、少し物色させていただきますね」
言うと彼は、部屋の押入れをがらっとあけ、その中を探索し始める――原因とやらを、見つけようとしているのだろうか。
「僕も、手伝いますよ」
「……いいえ、肇さん。その必要はありません――何故ならもう、見つけてしまったので」
俺が後ろから声をかけると、彼はにっと笑って、とあるものを手にしながら振り返る。
これは――鏡だ。一般的なサイズの取っ手が付いている手鏡で、特筆すべきような特徴もない鏡だが――
「ああ。それは、私の母さんの置き土産だよ。久しぶりに見たねえ」
その鏡を見たおばあさんは、目を見開きながら、懐かしそうに言う。
「そうだったのですね。とっても素敵な品です――が、それと同時に、これが触媒となっていたようです」
彼は笑いながらも、真面目な口調で続ける。
「鏡とは、真を写し出す聖なる道具ですが――同時に、良くないものを引き寄せる道具でもある。今回は、後者の性格が強まってしまったようです。これをお祓いすれば、この部屋に溜まったものも無くなるでしょう」
遊子橋さんは慇懃に解説すると、俺にその手鏡を手渡す。
「肇さん。自分の魔力を込めながら、その鏡をしっかり握っていてください。よいですか。絶対に、何があろうと離さないでくださいね?」
「あ……は、はい。わかりました」
物々しい物言いをする彼に、ぐっと身構える俺。
今から何をするのだろう。正直、いまいち状況が呑み込めていないが――しかし彼の言うことだ。聞いておいて損はないだろうと、言われたままに、その手鏡に自分の魔力を込める。
「行きます――はっ!」
言うと彼は、迫真の表情で、懐からお札を取り出し――そして、ぴとっ、と、それを鏡に。
正確に言うと、鏡のついていない裏側に貼りつけた。
「はい、終わりです」
「……え、終わり!?」
今の彼の様子から、何かもっとこう、詠唱とか、儀式とかがあるのかと思っていたが――まさか、ただお札を貼りつけるだけだとは。
何だか、肩透かしを食らった気分だ――また、からかわれたのか? からかい上手の遊子橋さんなのか?
「後は、この部屋を十分換気しておけば大丈夫です。いずれ悪い気は抜けるでしょう。あ、このお札は、剥がさないようにしてくださいね」
「おお、これで大丈夫なのかい。ありがとうねえ」
俺の理解がおよばないまま、彼らの話は進んでいくが――しかし、言われてみれば、悪い気が肌に感じてなくなっている。本当に、このお札に効果があったらしい。
俺は手に持っている鏡をおばあさんに手渡す。取り敢えずこれで、一件落着らしい。
……うん。これ、俺要ったのかな、と思わなくもないが。まあ、魔力を込めた分だけの仕事はできただろう。
「ほんに助かったよ、遊子橋さん」
「いえいえ、また何かあれば、気軽にご相談ください。それでは!」
家の軒先でぺこりと頭を下げるおばあさんに対し、遊子橋さんは屈託のない笑顔で会釈をしながら、その場を後にする。俺と善乃ちゃんもそれに続いて、また歩き出していく。
「さあ、依頼はまだまだありますからね。気合い入れていきましょう!」
飛びきり前向きな姿勢で――笑顔を崩さぬままに、遊子橋さんは俺たちを先導する。
まだあるのか――なんて、そんな風に後ろ向きに捉えてしまう自分の小ささに、やっぱり気が滅入ってしまう。
「……まあ、人助けをすること自体に、悪い気はしないけど」
「ふふ、流石、お兄様ですね」
「あ……、はは。また、独り言聞かれちゃったな」
そんなことを話しながらも、俺たちは彼の背中を追いかけていた。
秋の優しい空気を乗せた風が、さらりと頬を撫でた。
俺は布団に寝そべり、天井を見上げながら先刻の状況を思い出す。
原因は、些細なことだった――確か、「親指と人差し指はどちらが重要か」とか、「爪の垢を煎じて飲むときの爪とは手の爪か足の爪か」とか、そんな本当にくそしょうもなくてどうでもいいことが端緒だった。
その段階では、和やかな雑談であったはずなのだが――徐々にヒートアップを重ねていき、最後には互いの人格の欠点を指摘するにまで発展したのだ。
そうして怒った結は、禮斎神宮の一室、俺たち夫婦が間借りしている部屋から、飛び出してしまった。あの調子じゃ、しばらく口を聞いてくれないかもしれない。
「……ったく、久しぶりの休暇だってのにさ」
「本当ですね、お兄様。全く、結さんの短気には困ったものです」
「うぇ、善乃ちゃん!? いつからいたの!?」
俺が声に驚き振り返ると、鈴を転がしたような声の美少女が――つい先日、この神社の巫女見習いとして生活を始めた東久部良善乃ちゃんが、そこにいた。
「お兄様が、『突然だが……』とかぶつぶつ言い始めたときからですが?」
「最初からじゃねえか……」
てか、盛大な独り言を聞かれるのって、相当恥ずかしいな――俺はひとりになるとかなり独り言を話すタイプなので、音もなく入室してくるのは止めて欲しい。
「そんなことよりもお兄様。今日は非番なのですよね?」
「夫婦喧嘩を『そんなこと』扱いされたのはびっくりだけど、そうだよ。俺も結も、今日は非番だ」
「良かったです。実は遊子橋さんが、お兄様のことを呼んでいらして」
「遊子橋さんが?」
つまり彼女は、彼の使いで、俺を呼びに来たということか。
「はい。何やら用事があるとのことで。私と一緒に、庶務室に行きましょう?」
「う、うん。まあ、あの人の呼び出しなら、行かないとな」
普段ものぐさな俺ではあるが、いつもお世話になりっぱなしの彼が言う用事とあらば、馳せ参じないわけにはいかない。普段貰っている恩を、少しでも返さねば。
「ささ、行きましょう、お兄様!」
「分かってるよ……引っ張らなくても」
俺は善乃ちゃんに、やや強引に手を引かれながら、少し離れた庶務室へと歩いていく。
爽やかな秋風が、俺たちの間を吹いていったが――なにか。
俺の心にはなにか、しこりのようなものが、依然残っていた。
―――――――――――――
「ははは、肇さん。結さんを怒らせてしまったようですね。すごい剣幕で神社を出ていきましたよ」
「はあ……、お恥ずかしい限りです」
朝の陽光が窓から差し込む庶務室。
俺は、善乃ちゃんと並びながら、部屋の中央に正座している遊子橋さんと、対峙していた。今朝の夫婦喧嘩を、説諭されながら。
遊子橋崇文さん――この禮斎神宮の宮司であり、都の守護を任されている、長髪で美形の男性。いつもの白衣に、紫の袴をはいている、都で一番の人徳者。
「ああ、あんなに鴛鴦夫婦だったのに、遂に見捨てられてしまったのですね……」
「お、大袈裟ですよ……」
オーバーにリアクションをする彼に対し、俺はバツが悪いながらも答える。
というか別に、見捨てられてなどいない。いないと信じたい。
「いやいや、肇さんの話ではありませんが、相手の優しさに胡坐をかく者が、あとで痛い目を見るというのは、良くある話ですよ――そうですね。ここはひとつ、妻に見捨てられてしまった男の、とある実話を披露しましょう」
「いや、しないでください」
「これは、かなり昔の話なのですが」
聞けよ、人の話を。
「その男女は、始めは普通の夫婦だった。男は女を気遣い、女は男を立てる、傍から見れば、理想の二人だったのでしょう……しかし、次第に男は、そんな相手の優しさに安心し、そして、慢心した。もともと酒好きだったことも手伝い、飲んだくれの素封家になってしまったのです。それでも女は、彼の帰りを健気に待ち、帰ってきたならば『ご飯が良いですか、それとも、寝るのが良いですか』と、献身的に男の世話をしていました」
そう、ある時期までは、と、遊子橋さんは続ける。
俺と善乃ちゃんは揃い、ごくり、と生唾を呑む。
「しかし、数年が立った頃でしょうか。いつものように、何日かぶりに家に帰った男は、違和感に気付く。おや、あいつの姿がないな、と。不審に思った男は、家の中に足を踏み入れるのですが――突如、後ろから誰かに突き飛ばされた。驚き振り向くと、そこには、彼の妻が、いつもと変わらぬ無表情で仁王立ちをしていた。なんと、俺はこいつに突き飛ばされたのかと思ったのも束の間、彼女は、懐から取り出した包丁を抜き出し、彼の首元を掴んでこう言い放ったのです――」
そう言うと、彼は無表情になって、一言。
「――『首が良いですか、それとも、腹がいいですか』、と」
「…………」
いや、こえーよ。
こんな秋の深まった、しかも朝の早くから、怪談を披露しないでいただきたい。
ただでさえ背筋は冷え切っているというのに――それに、猟奇的なオチで終わる、というポイントが結に重なる所もあるので、他人事でない感が半端ない。
ほら、横にいる善乃ちゃんが、泣きそうになっているじゃないか……俺は彼女の背中をさすり、その震えを収める。
「まあ、実話と言うのは嘘ですが」
「嘘かい!!」
「嘘なんですか!?」
俺たちは揃って、彼にツッコミをする。
「ははは。驚きましたか? これが本当ならば、誰がこの話を伝えたのか、ということになりますからね」
ころころと笑いながら、俺たちをからかう遊子橋さん。
彼は意外と、会話に独特なユニークを挟んでくるのが好きなのだ……何というか、色々な意味で、彼には勝てる気がしない。
「まあ、それはさておき。肇さん、どうせ今日一日、暇ですよね?」
「その物言いには大いに物申したいですけど、確かに今日は暇です」
「良かった! それでは、ひとつ頼まれてくれませんか?」
「頼み事ですか?」
何だろう、彼から頼られるという経験があまりないので、考えが読めない。
もし戦闘をして欲しいという依頼なら、今は俺一人だけなので、大した力になれないが――結と一緒の時でないと、『比翼連理』は発動しない。俺の魔術は、本領を発揮しないのだ。
「いえ、そんな物騒な話ではありませんよ。ただ単に、仕事を手伝ってほしいのです」
「仕事?」
「ええ、肇さん。それに善乃ちゃん。今日の私の、一日の仕事を手伝ってください――まずは、お掃除からです」
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「……ふう、この辺りは、これくらいでいいか」
「いいえ、お兄様。もっとこう、溝も掃くように――そう、そうです!」
庶務室を出てから半刻、およそ一時間。俺と善乃ちゃんと遊子橋さんは、石畳で舗装された神社の道の掃き掃除をしていた。
まだ紅葉の季節ではないといえ、落葉やらなんやらで汚くなっていたのを一掃し、綺麗にしたのだ。善乃ちゃんに、マンツーマンで手ほどきを受けながらも。
「うん、この道も、この位で良いでしょう。取り敢えず、掃除はこれくらいにしておきましょうか。お二人とも、お疲れ様です!」
敷地内を見回し、掃除の結果を認めた遊子橋さんは、俺たちに終わりの合図を告げる。
「……それにしても、宮司の遊子橋さん自ら掃除をしてるんですよね。それも、毎朝」
「当然です。清掃とはすなわち、穢れを祓う行為。神事の根幹に繋がる、重要な業務なのですから、私自らそれに従事するのは、当たり前のことです」
言いながら、彼は掃除の後始末をする――うーん、相変わらずの篤実ぶりだな。ここまで前向きに掃除に取り組めるのは、遊子橋さんくらいのものだろう。
「さて……それでは、次の業務に向かいましょう」
掃除道具をかたづけた彼は、すぐに方向を転換し、神社の外へと歩を進めた。俺たちもならって、それに続く。
「……あれ? 神社から出るんですか?」
「はい。いつもならこの時間は、神社の仕事があるのですが……今日は珍しく立て込んでいないので。町へ出て、依頼を片付けようかと思いまして」
俺の疑問に、彼は歩を止めずに答える。
なるほど、彼は今から、神社の宮司としての仕事ではなく、もう一つの仕事――彼が普段からやっている、あの仕事をするつもりなのだろう。
「都の人のお悩みや厄介ごとを引き受けて、対応する仕事ですね! やっぱり遊子橋さんはすごいです。そんなことを、常日頃からやっているなんて」
「いやあ、宮司になる前からの、癖が抜けないだけですよ」
善乃ちゃんの羨望の眼差しに、はにかみながら、彼は返す。
そう、彼は、お悩み相談のようなものを、普段から受け付けている――都の人からの依頼を引き受け、解決するということを行っているのだ。
神事に関わることだけでなく、些細なことまでも。神社の領域を飛び越え、都の守護役としての役割を、存分に果たしている。大和で一番大きな神社の、トップ自らが。
(これだから、頭が上がらないんだよな……俺だったら、絶対立場に胡坐をかいてるぞ)
彼のあまりの善行ぶりに、自分の卑賎さを認識させられてしまうほどだ――
と、そんなことを考えているうちに、俺たちは、件の依頼があった家へと到着する。
「こんにちは、遊子橋です」
「はいはい、今行きます……ああ、ありがとうねえ、来てくれて」
遊子橋さんが戸を叩いて自分の名を告げると、中から老婆が――穏やかな様子のおばあちゃんが、ゆっくりと出てきて、彼にお礼を告げた。
「最近また、変なのが家にいてねえ――遊子橋さん、祓ってくれるかい?」
「ええ、おやすい御用ですよ……肇さん、手伝ってくれますか?」
「は、はい」
どうやらその依頼とは、彼女の家に、悪いものが――有体に言うと妖気が溜まっており、それをどうにかして欲しいというものらしい。
「善乃ちゃんは、後ろで見ていてくださいね。いずれ巫女として、こういった仕事をするかもしれませんから」
「はい。善乃、しかと見学させていただきます」
善乃ちゃんを一歩引かせた俺たちは、おばあさんに連れられ、家の一番奥にある部屋に入る。
畳が敷かれ、押入れが備え付けられている和室。一見、普通の部屋に見えるが――しかし、足を踏み入れると同時に、悪寒がぞわりと肌を伝う。
なるほど、これは確かに、『悪いもの』だ。言い表せないようなおぞましい気が、この部屋中に充満している。
「うーん、これは酷いですね……この部屋自体が、悪い気の吹き溜まりのようになっています」
「でしょう? 私もう、居心地が悪くってねえ」
遊子橋さんも、その異様な空気を察知したのだろう。口元を手で抑えながら、おばあさんに説明をしている。
「ここまで酷いからには、この部屋に悪い気が溜まった原因があると考えられますが――おばあさん、何か心当たりはありますか?」
「いや、そう言われてもねえ……てんで見当がつかないよ」
「そうですか――では、少し物色させていただきますね」
言うと彼は、部屋の押入れをがらっとあけ、その中を探索し始める――原因とやらを、見つけようとしているのだろうか。
「僕も、手伝いますよ」
「……いいえ、肇さん。その必要はありません――何故ならもう、見つけてしまったので」
俺が後ろから声をかけると、彼はにっと笑って、とあるものを手にしながら振り返る。
これは――鏡だ。一般的なサイズの取っ手が付いている手鏡で、特筆すべきような特徴もない鏡だが――
「ああ。それは、私の母さんの置き土産だよ。久しぶりに見たねえ」
その鏡を見たおばあさんは、目を見開きながら、懐かしそうに言う。
「そうだったのですね。とっても素敵な品です――が、それと同時に、これが触媒となっていたようです」
彼は笑いながらも、真面目な口調で続ける。
「鏡とは、真を写し出す聖なる道具ですが――同時に、良くないものを引き寄せる道具でもある。今回は、後者の性格が強まってしまったようです。これをお祓いすれば、この部屋に溜まったものも無くなるでしょう」
遊子橋さんは慇懃に解説すると、俺にその手鏡を手渡す。
「肇さん。自分の魔力を込めながら、その鏡をしっかり握っていてください。よいですか。絶対に、何があろうと離さないでくださいね?」
「あ……は、はい。わかりました」
物々しい物言いをする彼に、ぐっと身構える俺。
今から何をするのだろう。正直、いまいち状況が呑み込めていないが――しかし彼の言うことだ。聞いておいて損はないだろうと、言われたままに、その手鏡に自分の魔力を込める。
「行きます――はっ!」
言うと彼は、迫真の表情で、懐からお札を取り出し――そして、ぴとっ、と、それを鏡に。
正確に言うと、鏡のついていない裏側に貼りつけた。
「はい、終わりです」
「……え、終わり!?」
今の彼の様子から、何かもっとこう、詠唱とか、儀式とかがあるのかと思っていたが――まさか、ただお札を貼りつけるだけだとは。
何だか、肩透かしを食らった気分だ――また、からかわれたのか? からかい上手の遊子橋さんなのか?
「後は、この部屋を十分換気しておけば大丈夫です。いずれ悪い気は抜けるでしょう。あ、このお札は、剥がさないようにしてくださいね」
「おお、これで大丈夫なのかい。ありがとうねえ」
俺の理解がおよばないまま、彼らの話は進んでいくが――しかし、言われてみれば、悪い気が肌に感じてなくなっている。本当に、このお札に効果があったらしい。
俺は手に持っている鏡をおばあさんに手渡す。取り敢えずこれで、一件落着らしい。
……うん。これ、俺要ったのかな、と思わなくもないが。まあ、魔力を込めた分だけの仕事はできただろう。
「ほんに助かったよ、遊子橋さん」
「いえいえ、また何かあれば、気軽にご相談ください。それでは!」
家の軒先でぺこりと頭を下げるおばあさんに対し、遊子橋さんは屈託のない笑顔で会釈をしながら、その場を後にする。俺と善乃ちゃんもそれに続いて、また歩き出していく。
「さあ、依頼はまだまだありますからね。気合い入れていきましょう!」
飛びきり前向きな姿勢で――笑顔を崩さぬままに、遊子橋さんは俺たちを先導する。
まだあるのか――なんて、そんな風に後ろ向きに捉えてしまう自分の小ささに、やっぱり気が滅入ってしまう。
「……まあ、人助けをすること自体に、悪い気はしないけど」
「ふふ、流石、お兄様ですね」
「あ……、はは。また、独り言聞かれちゃったな」
そんなことを話しながらも、俺たちは彼の背中を追いかけていた。
秋の優しい空気を乗せた風が、さらりと頬を撫でた。
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