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第二章 神天祭
✦✦Episode.12 憎悪に輝く✦✦
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✦ ✦ ✦Episode.12 憎悪に輝く
✦ ✦ ✦
「はっ…はぁっ…は…ヒュー」
「んふふっ…クロト!」
抜け落ちた黒い羽は、辺り一面に散らばっていった。
呪文を唱える声はぴたりと止み、 聞こえて来るのは、周囲からのざわめきと、悲鳴。 クロトは、愕然と地面に手をつき、額から大粒の汗がぽたぽたと流れていく。 目を泳がせながら、自分にいったい何が起きたのか理解しようと努めた。
「なぜ…なぜ…俺を裏切ったシエル――!!」
「だぁって、隠していたんでしょ? その、黒い翼…。 ちゃあんと、みんなに教えてあげないと、 ダメじゃない?」
「くそ…つ、くそおお…っ!!」
絞るような声を出しながら、 拳を握りしめて、何度も何度も地面を殴る。 どれだけ考えても、彼女に裏切られる理由は思いつかなかった。 信じていた光にあっけなく裏切られた事を、受け入れる事ができないと――ギリギリと歯を食いしばった。
『災いの神子を捉えよ』
――突然。 暗闇の影から黒いローブを纏った者たちが、 クロトの両腕を抑え込んで、その場に組み伏せた。
「…っく、 離せぇ…!!」
クロトは、数人に取り押さえられ、身動きが取れなくなると、肩を揺らしながら必死にもがく。 逃げようと抵抗するのもむなしく、その場で立ち上がることさえできない。
「暴れるな!! 見ろ、この翼の色――確かに、あの家系の者だ!」
「く… クロト、 お前! …今まで我らに嘘をついていたのか…?」
「違う!!」
大男は、フラフラとしながら、後ずさっていく。 クロトの事を、不快な眼差しで見据えて、 ゾっとした顔で青ざめている。
「わざと黙っていたのか!! 我らを陥れようとして…!!」
「違う!! ちがうんだ――俺はただ…っ! あの場所で、静かに暮らしていたかった。 それだけなんだ!」
――全ての視線が、 クロトに一点集中して。
目が、憎悪に輝く無数の獣のような目が、 まるで貪るように、こちらを覗き込み、歪むように揺れている。
「村の力になれるように…医院の仕事だってやって来た! 村での仕事があるとき以外は、誰の目にも触れず、誰にも迷惑もかけないように、静かに暮らしていたじゃない か!! ――なんで!」
「――なんで、こうなっちまうんだよっ!」
サクッと、地面を踏み慣らす音がして顔を上げると、 シエルが歩いて、 クロトの目の前までやって来た。 彼女の手に握られた花は、 手の中の熱に萎れ始め、 首を垂れている。
「クスクス…ねぇ――クロト?」
「…っ」
「裏切り……今のあなたにピッタリの言葉ねぇ」
シエルは、手に持っていたオキナソウの花を、 勢いよく穴の中へ投げ込んだ。 花は静かに大穴の中に飲み込まれていく。 この穴の中は、どれほど深いのか、まったく見当もつかない。 数秒の時間が流れ――地面にたどり着いた音さえ分からない。
――シエルは、瞳の奥に今までに見たことのない悪の光を宿して。 卑しい顔でクロトを上から 見下ろすと、静かに彼の唇に手を当てる。
「ねぇ…顔を見せて」
「はっ…本当に、いい気味ねぇ…。 皆に嘘をついてきたあなたは、そうやって裁かれていくんだわ」
「はっ…はっ… くっ…!」
未だに呼吸が安定しない。 クロトは言葉も出せず、息の仕方も忘れ…ただヒュー ヒューと音を鳴らし、喘ぐように呼吸をする。 体は恐怖に震え、 追い打ちをかけるように放たれた、彼女の聞いた事も無い声に、 ゾッと背筋が凍り付く。
コロンと音がして、眼前にガラスのペンダントが現れた。 大切な人に贈ったはずのモノは、意味を成さなくなり、彼の顔は苦痛に歪んで、 その瞳からはとめどなく涙が溢れて、こぼれ始めた。 嗚咽しながら、むせび泣く彼の姿を、彼女は冷たい瞳で覗き込んでいた。
――暗闇が、一点の光さえ残さずに、 彼から全てを奪っていく瞬間だった。
「あぁ…あああっ…!」
「泣いてるの?…かわいいね、 クロトは……」
「くそおおぉおおっ――!!」
――絶望。
彼の心は、悲しみと憎しみの色に染まっていく。
「さねぇ…」
「んー、なあに?」
「許さねえ――シエルうぅ!!」
クロトの瞳は赤く燃え上がり、炎の色で浸食されていく。 胸の奥から湧き出る怒りに任せて、我を忘れて行く。 彼の中で眠っていた不思議な力が、身体の中でうごめきはじめているのを感じた。
「見ろ、瞳の色が赤く変わったぞ!!」
「災いの神子だ!!落とせぇ!!落とせ!!――落とせえええ!!!」
彼の赤い瞳を見て、 村人たちは白熱して勢いを増し、 皆拳をつきあげて、 決死の形相で叫んでいる。
「あぁ、かわいそうなクロト。 こんなにも絶望的で、あなたはとても美しい――」
「くっ…..!」
シエルはクロトの頬に親指を擦り付けて、愛おしそうに撫で上げる。 ひんやりとしたその手は、まるで彼女と出会う前に見た、 あの夢みたいで――その夢の先で、 自分はどうなってしまったのかがまったく思い出せない。
シエルはそっと、 クロトの耳に唇を近づけ、 彼にしか聞こえない声で囁く。
「でもね、そこまで私もイジワルじゃないから」
『最後にひとつだけ…あなたに贈り物をあげるわ――』
「…?ん…っ!」
シエルは、クロトの顎に手を置いて、 グイッと顔を自分の方へ向けると、静かに目を閉じ――優しく、 唇を重ね合わせた。
ほんの一瞬の出来事の中で…今まで起きていた事全てが嘘だと思えた。 永遠の夢の中で溶け合って行 くような、柔らかな感覚の中で――ふわりと、 不思議な匂いがクロトの鼻をかすめた。 甘い果物の中に、 鉄の香りが入り混じった、嗅いだことの無い香り。
「つ…… (冷たい)」
頬にされた時、温かかったはずの彼女の唇は、 まるで凍り付いたように、 冷ややか な温度だった。 クロトの瞳に宿った炎が揺らぐと……名残惜しそうに離れていった彼女の唇は、何かを訴えるかのように微かに動いた。
「お前っ、 本当にシエルなのか…?」
クロトは違和感を感じて、顔をあげ、 もう一度確認するように シエルの顔を覗き込んだ。 相変わらず、彼女の瞳には輝きがない。 これは――嘘ではないと。 残酷な現実を思い知らされる。
『かの者よ――落ちろ――!!』
「ぐうううっ!」
「悲しいわ――もうお別れなのね?」
「――さようなら、 黒い翼の英雄さん」
✦ ✦ ✦
(あぁ、全て、終わるんだ――)
(俺の居場所は、ここにはもう……無い――)
ニヤリと笑う彼女の顔……風になびかれた髪は美しく、月夜の光に照らされて一本一本がキラキラと輝いている。 花の香りの中、クロトが好きになった彼女はもうそこには存在していない。 ――そこに居るのは、ただ、自分を暗闇の中へ突き落とそうとして笑っている、憎悪に満ちた顔をした一人の少女だった。
ストンと彼の心の中に諦めの言葉が落ちた。 信じていた物の全てが崩れ落ちていく。 砂塵は風の中をサラサラと流されていく。
依然として、 モノクロの世界の中で――黒いローブから伸びた指を、ドッと首元に突き立てられた。 ローブの中からチラリとのぞいた腕は、 巻かれた包帯の下に、 薬草の香りを漂わせながら…。
その指から放たれた力は、黒い魔法陣を浮かび上がらせ…クロトの体の中へ向かって浸食していく。 まるで拘束されたように、身体が固まって 動くことが出来ない。 ローブの者たちは引きずる ようにしてクロトを大穴へ向かって連れて行く。 周りにいる者たちは皆、 彼が落 ちていく様を支持するように一斉に、声を張り上げている。
(まだだ。 まだ、 終わりたくない)
「やれー!災いの神子を落とせー!!」
「―離せえええっ!」
(このまま――ただ終わるというのなら)
「やめろおおおお——!!」
(せめて、一つでも、俺のいた証を刻み付けてやろう!!)
それからの記憶は、何が起きたのかよく分からない。 薄い視界の中でぼんやりとして――自分の意識ではない、別の誰かが乗り移ったように。 叫び声を上げ、それに共鳴するように…背中の紋章がじわりと強く光りだす。
何かが血脈を伝わって、 じわじわと熱く彼の体の中を巡って行き、放たれた光は、空に向かって伸びていく。 瞬間的に周囲の風を呼び寄せると、突如として暗雲が立ち込めた。
――ザアアア。
空に立ち込めた雲から落ちた雨が、 地面を強く叩き、雷鳴の轟と共に、 近くの 炎と重なり、 風を巻きこみながら、 空へ上がっていく。 稲妻が、 ドォンツーと音をたて、周囲の地面を削りながら落ちていく。
「うわぁぁ!!」
「女神様、どうかお助けを!!」
「くっ…これはかの者の力か…!!」
人々は、風に吹き飛ばされて、 散り散りになり、 ローブの者達は暴風の外へと退却 していく。 地面から飛び散った石は粒となって、 まだ耐えていた村人たちに当たり散らされた。
「いやっ…!!」
シエルは逃げる間もなく、風の中心に吸い込まれて行く。 散った石のかけらが打ち付け、彼女の衣服に込められた精霊の加護が、かろうじてそれを弾き飛ばしてい た。 弾き飛ばされた石は、彼女の首にかけていたペンダントの紐を引き裂いて行く。 パチン、 と紐は引きちぎられて、 静かに地面に向かって落ちていく。
――ガシャン!!
地面に叩きつけられたガラスは、 粉々に砕け散った。 中にあった種はいくつにも 割れ、周囲に欠片を撒き散らして、 どこか遠くに飛ばされていった。
『――我が名”クロト”において…』
瓶の中から、 小さな光が空中に浮かび上がって、 嵐の中を彷徨いながら――ちょこ んと、 光はシエルの指先に触れた。
『“シエル”に災いが訪れた時、 護る力となりますように』
何かが触れた感覚に、ピクリと指が動く。
――まるで、 失っていた心を取り戻したかのように、一瞬のうちに、彼女は気を取り 戻した。
『――シエル。 思い出して』
「うっ…私…なんで…? くろ…と?」
――何かが心の中に入り込んで、シエルの名前を呼んでいる。 クリアになった視界の中で、目の前に見えた…己の心に身を任せ、 理性を失ってしまった彼の姿を捉えた。
このまま、彼の暴走を止めなければ――ここに居るすべての人々が悲しい末路を辿る事だろうと、本能的に感じられた。
(クロトを止めないと…)
シエルの思いは虚しく、 身体は言う通りに動かない。 暗闇が彼女の意識を捕食していくように、じわじわと意識を奪っていく。
霞んでいく視界の中、 自由の利かない体は、無意識にクロトに歩み寄ると――二人は静かに目を合わせた。
彼の赤い瞳の奥底に、ほんの少しの悲しみの青と、怒りの炎が入り混じって、彼が救いを求めている事が、ハッキリとシエルの心の中に伝わって来た。
(怯えた顔…大丈夫、 怖くないよ――私が、ここに居るから)
「く…ろ…と…」
(触れたい。 抱きしめて――ここに居ていいんだよって伝えたいのに、どうして…)
シエルは、寂しそうな顔をすると、鉛のように重い腕を震わせながら、 クロトに 触れようと腕を伸ばした。
(お願い、届いて――!!)
『――シエル…っ!』
――トンッ。
彼の肩に触れた手は、 彼女の意思とは反対に、 穴に向かって押し込むようにグッと 力を込めて動いた。
「うあああああっ――!!」
「違うの…私、こんなはずじゃなかったのに――クロ…ト…」
彼が落ちていく残像がまるで、 スローモーションのように見える。 巨大な穴の中へ 風と共に飲み込まれて行き、中から叫び声だけが反響して聞こえてくる。 一筋の涙が、シエル の頬に伝って、地面に静かにこぼれ落ちていった。
シエルはそのまま、地面に倒れ込み、意識は暗闇の中へ飲まれ、気を失っていった。
『んふふふ…あ~あ、おわっちゃったねぇ』
✦ ✦ ✦
『あと少しのはずだった。 繋がり合うはずだった二人の心は、ほんの少しすれ違いから離れ離れになっていく」
錆びついた歯車はほころびて。 悲しみと、 絶望の渦中に落ちていく。 軋む音を鳴らしながらゆっくりと、自らの運命を回り始めた。
幸せだったはずの二人は引き裂かれ、闇へ沈んだ二つの魂。 一体それは何処に向かうのだろうか?
(ガラスと共に砕け散った願いの種。 消えていった先は何処か、我は知らない。
――この先に起きる未来の事も)』
足元に触れた水は揺れ、波がゆっくりと広がりながら幾重にも重なってどこかへ流れていく。 真っ暗な世界に灯された小さな無数の光が指先を照らしし、どこまでも永遠と広がる闇の中――
静寂に包まれたこの場所は、何の音さえも聞こえず。 時折どこからか発せられる言葉に耳を傾け…… 静かにその光に触れる。
――それは霧となって消えていった。
この記憶の中に今、我が干渉する事はできない。 物語を紡ぐのはいつだって、この切望の歯車に選ばれた者たちだけなのだから。
✦ ✦ ✦
「はっ…はぁっ…は…ヒュー」
「んふふっ…クロト!」
抜け落ちた黒い羽は、辺り一面に散らばっていった。
呪文を唱える声はぴたりと止み、 聞こえて来るのは、周囲からのざわめきと、悲鳴。 クロトは、愕然と地面に手をつき、額から大粒の汗がぽたぽたと流れていく。 目を泳がせながら、自分にいったい何が起きたのか理解しようと努めた。
「なぜ…なぜ…俺を裏切ったシエル――!!」
「だぁって、隠していたんでしょ? その、黒い翼…。 ちゃあんと、みんなに教えてあげないと、 ダメじゃない?」
「くそ…つ、くそおお…っ!!」
絞るような声を出しながら、 拳を握りしめて、何度も何度も地面を殴る。 どれだけ考えても、彼女に裏切られる理由は思いつかなかった。 信じていた光にあっけなく裏切られた事を、受け入れる事ができないと――ギリギリと歯を食いしばった。
『災いの神子を捉えよ』
――突然。 暗闇の影から黒いローブを纏った者たちが、 クロトの両腕を抑え込んで、その場に組み伏せた。
「…っく、 離せぇ…!!」
クロトは、数人に取り押さえられ、身動きが取れなくなると、肩を揺らしながら必死にもがく。 逃げようと抵抗するのもむなしく、その場で立ち上がることさえできない。
「暴れるな!! 見ろ、この翼の色――確かに、あの家系の者だ!」
「く… クロト、 お前! …今まで我らに嘘をついていたのか…?」
「違う!!」
大男は、フラフラとしながら、後ずさっていく。 クロトの事を、不快な眼差しで見据えて、 ゾっとした顔で青ざめている。
「わざと黙っていたのか!! 我らを陥れようとして…!!」
「違う!! ちがうんだ――俺はただ…っ! あの場所で、静かに暮らしていたかった。 それだけなんだ!」
――全ての視線が、 クロトに一点集中して。
目が、憎悪に輝く無数の獣のような目が、 まるで貪るように、こちらを覗き込み、歪むように揺れている。
「村の力になれるように…医院の仕事だってやって来た! 村での仕事があるとき以外は、誰の目にも触れず、誰にも迷惑もかけないように、静かに暮らしていたじゃない か!! ――なんで!」
「――なんで、こうなっちまうんだよっ!」
サクッと、地面を踏み慣らす音がして顔を上げると、 シエルが歩いて、 クロトの目の前までやって来た。 彼女の手に握られた花は、 手の中の熱に萎れ始め、 首を垂れている。
「クスクス…ねぇ――クロト?」
「…っ」
「裏切り……今のあなたにピッタリの言葉ねぇ」
シエルは、手に持っていたオキナソウの花を、 勢いよく穴の中へ投げ込んだ。 花は静かに大穴の中に飲み込まれていく。 この穴の中は、どれほど深いのか、まったく見当もつかない。 数秒の時間が流れ――地面にたどり着いた音さえ分からない。
――シエルは、瞳の奥に今までに見たことのない悪の光を宿して。 卑しい顔でクロトを上から 見下ろすと、静かに彼の唇に手を当てる。
「ねぇ…顔を見せて」
「はっ…本当に、いい気味ねぇ…。 皆に嘘をついてきたあなたは、そうやって裁かれていくんだわ」
「はっ…はっ… くっ…!」
未だに呼吸が安定しない。 クロトは言葉も出せず、息の仕方も忘れ…ただヒュー ヒューと音を鳴らし、喘ぐように呼吸をする。 体は恐怖に震え、 追い打ちをかけるように放たれた、彼女の聞いた事も無い声に、 ゾッと背筋が凍り付く。
コロンと音がして、眼前にガラスのペンダントが現れた。 大切な人に贈ったはずのモノは、意味を成さなくなり、彼の顔は苦痛に歪んで、 その瞳からはとめどなく涙が溢れて、こぼれ始めた。 嗚咽しながら、むせび泣く彼の姿を、彼女は冷たい瞳で覗き込んでいた。
――暗闇が、一点の光さえ残さずに、 彼から全てを奪っていく瞬間だった。
「あぁ…あああっ…!」
「泣いてるの?…かわいいね、 クロトは……」
「くそおおぉおおっ――!!」
――絶望。
彼の心は、悲しみと憎しみの色に染まっていく。
「さねぇ…」
「んー、なあに?」
「許さねえ――シエルうぅ!!」
クロトの瞳は赤く燃え上がり、炎の色で浸食されていく。 胸の奥から湧き出る怒りに任せて、我を忘れて行く。 彼の中で眠っていた不思議な力が、身体の中でうごめきはじめているのを感じた。
「見ろ、瞳の色が赤く変わったぞ!!」
「災いの神子だ!!落とせぇ!!落とせ!!――落とせえええ!!!」
彼の赤い瞳を見て、 村人たちは白熱して勢いを増し、 皆拳をつきあげて、 決死の形相で叫んでいる。
「あぁ、かわいそうなクロト。 こんなにも絶望的で、あなたはとても美しい――」
「くっ…..!」
シエルはクロトの頬に親指を擦り付けて、愛おしそうに撫で上げる。 ひんやりとしたその手は、まるで彼女と出会う前に見た、 あの夢みたいで――その夢の先で、 自分はどうなってしまったのかがまったく思い出せない。
シエルはそっと、 クロトの耳に唇を近づけ、 彼にしか聞こえない声で囁く。
「でもね、そこまで私もイジワルじゃないから」
『最後にひとつだけ…あなたに贈り物をあげるわ――』
「…?ん…っ!」
シエルは、クロトの顎に手を置いて、 グイッと顔を自分の方へ向けると、静かに目を閉じ――優しく、 唇を重ね合わせた。
ほんの一瞬の出来事の中で…今まで起きていた事全てが嘘だと思えた。 永遠の夢の中で溶け合って行 くような、柔らかな感覚の中で――ふわりと、 不思議な匂いがクロトの鼻をかすめた。 甘い果物の中に、 鉄の香りが入り混じった、嗅いだことの無い香り。
「つ…… (冷たい)」
頬にされた時、温かかったはずの彼女の唇は、 まるで凍り付いたように、 冷ややか な温度だった。 クロトの瞳に宿った炎が揺らぐと……名残惜しそうに離れていった彼女の唇は、何かを訴えるかのように微かに動いた。
「お前っ、 本当にシエルなのか…?」
クロトは違和感を感じて、顔をあげ、 もう一度確認するように シエルの顔を覗き込んだ。 相変わらず、彼女の瞳には輝きがない。 これは――嘘ではないと。 残酷な現実を思い知らされる。
『かの者よ――落ちろ――!!』
「ぐうううっ!」
「悲しいわ――もうお別れなのね?」
「――さようなら、 黒い翼の英雄さん」
✦ ✦ ✦
(あぁ、全て、終わるんだ――)
(俺の居場所は、ここにはもう……無い――)
ニヤリと笑う彼女の顔……風になびかれた髪は美しく、月夜の光に照らされて一本一本がキラキラと輝いている。 花の香りの中、クロトが好きになった彼女はもうそこには存在していない。 ――そこに居るのは、ただ、自分を暗闇の中へ突き落とそうとして笑っている、憎悪に満ちた顔をした一人の少女だった。
ストンと彼の心の中に諦めの言葉が落ちた。 信じていた物の全てが崩れ落ちていく。 砂塵は風の中をサラサラと流されていく。
依然として、 モノクロの世界の中で――黒いローブから伸びた指を、ドッと首元に突き立てられた。 ローブの中からチラリとのぞいた腕は、 巻かれた包帯の下に、 薬草の香りを漂わせながら…。
その指から放たれた力は、黒い魔法陣を浮かび上がらせ…クロトの体の中へ向かって浸食していく。 まるで拘束されたように、身体が固まって 動くことが出来ない。 ローブの者たちは引きずる ようにしてクロトを大穴へ向かって連れて行く。 周りにいる者たちは皆、 彼が落 ちていく様を支持するように一斉に、声を張り上げている。
(まだだ。 まだ、 終わりたくない)
「やれー!災いの神子を落とせー!!」
「―離せえええっ!」
(このまま――ただ終わるというのなら)
「やめろおおおお——!!」
(せめて、一つでも、俺のいた証を刻み付けてやろう!!)
それからの記憶は、何が起きたのかよく分からない。 薄い視界の中でぼんやりとして――自分の意識ではない、別の誰かが乗り移ったように。 叫び声を上げ、それに共鳴するように…背中の紋章がじわりと強く光りだす。
何かが血脈を伝わって、 じわじわと熱く彼の体の中を巡って行き、放たれた光は、空に向かって伸びていく。 瞬間的に周囲の風を呼び寄せると、突如として暗雲が立ち込めた。
――ザアアア。
空に立ち込めた雲から落ちた雨が、 地面を強く叩き、雷鳴の轟と共に、 近くの 炎と重なり、 風を巻きこみながら、 空へ上がっていく。 稲妻が、 ドォンツーと音をたて、周囲の地面を削りながら落ちていく。
「うわぁぁ!!」
「女神様、どうかお助けを!!」
「くっ…これはかの者の力か…!!」
人々は、風に吹き飛ばされて、 散り散りになり、 ローブの者達は暴風の外へと退却 していく。 地面から飛び散った石は粒となって、 まだ耐えていた村人たちに当たり散らされた。
「いやっ…!!」
シエルは逃げる間もなく、風の中心に吸い込まれて行く。 散った石のかけらが打ち付け、彼女の衣服に込められた精霊の加護が、かろうじてそれを弾き飛ばしてい た。 弾き飛ばされた石は、彼女の首にかけていたペンダントの紐を引き裂いて行く。 パチン、 と紐は引きちぎられて、 静かに地面に向かって落ちていく。
――ガシャン!!
地面に叩きつけられたガラスは、 粉々に砕け散った。 中にあった種はいくつにも 割れ、周囲に欠片を撒き散らして、 どこか遠くに飛ばされていった。
『――我が名”クロト”において…』
瓶の中から、 小さな光が空中に浮かび上がって、 嵐の中を彷徨いながら――ちょこ んと、 光はシエルの指先に触れた。
『“シエル”に災いが訪れた時、 護る力となりますように』
何かが触れた感覚に、ピクリと指が動く。
――まるで、 失っていた心を取り戻したかのように、一瞬のうちに、彼女は気を取り 戻した。
『――シエル。 思い出して』
「うっ…私…なんで…? くろ…と?」
――何かが心の中に入り込んで、シエルの名前を呼んでいる。 クリアになった視界の中で、目の前に見えた…己の心に身を任せ、 理性を失ってしまった彼の姿を捉えた。
このまま、彼の暴走を止めなければ――ここに居るすべての人々が悲しい末路を辿る事だろうと、本能的に感じられた。
(クロトを止めないと…)
シエルの思いは虚しく、 身体は言う通りに動かない。 暗闇が彼女の意識を捕食していくように、じわじわと意識を奪っていく。
霞んでいく視界の中、 自由の利かない体は、無意識にクロトに歩み寄ると――二人は静かに目を合わせた。
彼の赤い瞳の奥底に、ほんの少しの悲しみの青と、怒りの炎が入り混じって、彼が救いを求めている事が、ハッキリとシエルの心の中に伝わって来た。
(怯えた顔…大丈夫、 怖くないよ――私が、ここに居るから)
「く…ろ…と…」
(触れたい。 抱きしめて――ここに居ていいんだよって伝えたいのに、どうして…)
シエルは、寂しそうな顔をすると、鉛のように重い腕を震わせながら、 クロトに 触れようと腕を伸ばした。
(お願い、届いて――!!)
『――シエル…っ!』
――トンッ。
彼の肩に触れた手は、 彼女の意思とは反対に、 穴に向かって押し込むようにグッと 力を込めて動いた。
「うあああああっ――!!」
「違うの…私、こんなはずじゃなかったのに――クロ…ト…」
彼が落ちていく残像がまるで、 スローモーションのように見える。 巨大な穴の中へ 風と共に飲み込まれて行き、中から叫び声だけが反響して聞こえてくる。 一筋の涙が、シエル の頬に伝って、地面に静かにこぼれ落ちていった。
シエルはそのまま、地面に倒れ込み、意識は暗闇の中へ飲まれ、気を失っていった。
『んふふふ…あ~あ、おわっちゃったねぇ』
✦ ✦ ✦
『あと少しのはずだった。 繋がり合うはずだった二人の心は、ほんの少しすれ違いから離れ離れになっていく」
錆びついた歯車はほころびて。 悲しみと、 絶望の渦中に落ちていく。 軋む音を鳴らしながらゆっくりと、自らの運命を回り始めた。
幸せだったはずの二人は引き裂かれ、闇へ沈んだ二つの魂。 一体それは何処に向かうのだろうか?
(ガラスと共に砕け散った願いの種。 消えていった先は何処か、我は知らない。
――この先に起きる未来の事も)』
足元に触れた水は揺れ、波がゆっくりと広がりながら幾重にも重なってどこかへ流れていく。 真っ暗な世界に灯された小さな無数の光が指先を照らしし、どこまでも永遠と広がる闇の中――
静寂に包まれたこの場所は、何の音さえも聞こえず。 時折どこからか発せられる言葉に耳を傾け…… 静かにその光に触れる。
――それは霧となって消えていった。
この記憶の中に今、我が干渉する事はできない。 物語を紡ぐのはいつだって、この切望の歯車に選ばれた者たちだけなのだから。
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