釣った魚、逃した魚

円玉

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#32 やり残し

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 ある朝、起き出したら神子様の姿がなかった。

厚手の外套がなく、遠出をしたのかと思って思わず“盗聴”を起動した。

俺が起動したのを神子様が感知したらしく「おはよう」という声がした。
「すぐ戻るよ。ちょっと待って。裏庭に転移する」

俺は裏庭に向かった。
裏の納屋兼厩の手前に白い光りのカーテンのようなものが立ち上り神子様が姿を現した。

厩の裏には林があり、まだ根雪が残っていて肌寒い。
だが確実に春になり、溶け始めた雪の隙間から土が見え始めていた。
そのぬかるみでブーツの先を汚さぬようになのか、風魔法を使ってほんの僅かに宙に浮いているままこちらに近づいてきた。
俺のすぐ目の前で風魔法を解除し着地した。

「心配かけた?ゴメンね。本当にすぐ戻るつもりだったから」
「どちらへ?」
「ヘンディーク村。あっちはここより少し早く雪解けになるんだね。根雪も僅かしかなくて緑が芽吹き始めていたよ」

「ヘンディーク村ッ?」
それはあの秋の治癒行脚で巡った最後の村だった。
雪がちらつき始める前に、道路事情の良い地域まで戻らなければならず「今回の治癒行脚ではここまでです」と折り返した地点だ。

ただ、最初に陛下が王太子だった頃にたどった遠征隊のコースと照らし合わせると、ここから更に西に数カ所被害に遭った村や街があった。
秋の治癒行脚の時は、元々そこまでは予定に入っていなかった場所だ。いずれにせよ雪で足止めを喰らってしまうから、翌春に訪れることになっていた。

その地域は遠征隊が巡った最後の方、国土の北西から西にかけての緩やかな丘陵地帯に点在する田舎の小市街地や中規模な農村。
丘陵地帯の途中途中に森や湖沼地帯があり、その一角に瘴気スポットが発生したのだ。

それら瘴気スポットは、浄化し結界を張った。
だがコースから離れていたことで、秋の治癒行脚では予定から外されていた。

「残っているエッソン村とフィチファ村、エーフィンガ市、ギヴェト町…の治癒に行ってこようと思っているんだ。多分、ヘンディークがもう春の様相ならこれらの地域は楽勝だと思うんだよね」
「……は?」

俺は一瞬頭が真っ白になった。何故?…何を言ってるんだ?

「…あー、…やり残しがあるのは気持ちが悪いんだよ」
「……」

「君の言いたいことは分かるよ。行ってみてあの時みたいに罵られたり石を投げられたりしたら何もせず戻ろうと思う」

俺は何も答えられずにただただ固まっていた。思考停止と言うヤツだ。
おそらくそんな俺を見かねたのだろう。
「あのね」と神子様は話し始めた。

――――俺、こっちの世界に召喚される直前に、当時務めていた会社…商会みたいなもんだけど…新しい医療機器を…医者が検査に使う魔道具みたいなヤツを…研究開発するとこに属していたんだよ。
俺は営業だったから、長年仲間が研究に研究を重ねてきた新型の機械の認可を貰うために役人に説明したり、出資相手に説明して売り込む係だったんだ。
しっかり根回しもしたし相手の関心も高かった。ほぼ間違いなく取れる!と俺は確信していたよ。
その病気は年間、数千から一万人前後の死者が出る病気だけど、早期発見すれば助かる病気だった。でも、従来の検査方法だと苦痛が激しくて、受診する人が圧倒的に少なかったんだ。
それを苦痛無く検査出来る機器を作って受診者を増やし、救える命を救おうという意思の元に、俺の仲間達は本当に十数年、必死に研究して実験して改良して…を何度も何度も何度も繰り返して頑張ったんだよ。
で、いざそれを売り込む会議の日に、俺はこっちの世界に召喚されちゃったわけだ。
仲間が寝る間も惜しんで必死に積み上げて、やっと人々を助けられる足がかりが得られるであろう最後の仕上げを俺は託されていたの。
…でもその皆の希望や期待を一身に背負った俺は、肝心のその日に全てを投げ出して失踪したことになる。
……もうね。今度は、中途半端って事を、したくないの。
…まあでも、だからって石投げてきたり口汚く侮辱してくる奴らのことは知らないよ。そんなお人好しじゃない。元々望んでこの世界に来たわけじゃないんだから。
でも取りあえずやり始めたことを途中で投げたくはないんだ。

混乱しつつも、何とか自分で自分を通常動作させようと気を取り直す努力をする。
「……ここからだと…どういうルートで行くんですか?王都から行くよりも倍以上遠いですけど」
俺が旅支度の準備に思いを巡らせながら訊ねると、言いにくそうに神子様が告げてくる。
「ゴメン、ミラン。俺、一人で行くから」

息が止まった。目の前が暗くなるほどの衝撃を覚えた。

「…何故?」
「言った先で瘴気アタリの治癒をしたらいやが上にも俺が神子だって知れるだろう。君が一緒に居たら…バレちゃうじゃない。色々」

奈落に落ちるような気分だった。

ひとりで…?
こんな辺境の領にもあんな時期に捜査官が来た。
雪解けが始まったなら更にリスクは高いはずだ。
なぜ?
必要ですか?

夢のようだった。神子様と暮らすここでの日々。
二人で過去を断ち切ってここに来たと思っていた。
俺が一人で、勝手に、幸せな思い込みに浮かれていただけなのか。

足腰の力が抜けてよろよろとよろけ、馬の水飲み桶のふちに腰を下ろした。

「ゴメン…もっと前から話しておけば良かったね。……ミラン?急に言われてビックリした?…ちょ、…ねえ、大丈夫?大袈裟だよ。もう戻って来ないわけじゃないんだから」

俺は数回深く深呼吸して、顔を上げた。
「必ず戻ってきてくれるんですね…」
その言葉を言いながら苦い気持ちになった。
これじゃあ、まるで…。

だけど。
どこへも行かないで欲しい。
もう良いじゃ無いですか。素直に感謝した民が今までどれ程居ましたか。俺の知る限りあの旅では、泣いて感謝してきたのなんて両手の指の数も居なかった。
ふらふらになりながら浄化をし、結界を張り、そして治癒に回った。それでも。

あんなの忘れて今を生きて欲しい。
そして一瞬だけよぎってしまったのだ。
この人をどこへも行かせたくない。
…そして。
…いっそ、と。

何とか手元に縛っておけないかと奥底で欲する自分。

俺は。
アイツと同じじゃないか。
あのクズな国王と。
情けない。

自分が恥ずかしくて苦しい。
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