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6巻 春の嵐と新学期
フィールドワークに行こう(1/2)
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「そろそろ現地にフィールドワークに行こうと思う」
20日の夕方、俺とリンと母と父の四人で囲む食卓で、父さんはそう言った。
「あらそう。いつから?」
漬物を口に入れながら問う母の言葉に、父は「早ければ明日の朝、遅くとも明後日の朝だ」と答える。
……いや、待って? それって、フロウリアの事なの……?
横に座るリンをチラと見れば、リンは小さく首を振る。
「案内はディアリンド君に頼みたいが、どうかね?」
父さんがそう言ってリンに尋ねるが、リンは俺の言葉を待つ顔をしている。
俺は半ば祈るような気持ちで尋ねた。
「父さん、フィールドワークって……どこに行くの?」
「フロウリアに決まってるじゃないか」
あっさり答える父に、俺は呻きながら頭を抱える。
「失礼ですが、あちらはとても危険です。ミノル様の安全は保証できかねます」
リンは少し前から父さんを名前で呼ぶようになっていた。
父にそう呼ぶよう要求されたらしい。
さらには、リンが父を「ミノル様」と呼ぶのを聞いた母さんまでが「いいわね、私も名前で呼んでほしいわ」と言ったため今では母まで「カズエ様」と名前で呼ばれている。
「父さん本当に行く気なの? 母さんはダメだって言わないの!?」
俺の抗議の声は思いの外大きかったようで、目の前の両親が耳を押さえる。
あ、部活で発声練習も再開したし、大きな声も出やすくなってたか。気をつけよう。
「今まで父さんが行ってた所も大概危ないとこだったわよ?」
母さんが、なんて事もないような顔で言う。
「それでも、フロウリアみたいに別の世界じゃないし、帰って来れなくなるような事はなかったよね?」
俺の言葉に父さんは「それは違うぞ圭斗」と片眉をあげた。
「どこに出かけようと帰れる時は帰れるし、そうでない時は戻れない。それだけだ」
えええ……極論だよ……。
そんな父に、母はケラケラと笑って言う。
「危ないから行かないでなんて言ってたら、父さんどこにも行けなくなっちゃうじゃない」
……それって、母さんが行くなって言ったらこの父さんを止められるって言ってる……?
本当に……?
「いや、止められるなら止めてよ……。もう父さんとは二度と会えなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
俺の言葉に、母さんは不思議そうに首を傾げる。
「でも、圭斗は行くつもりなんでしょう?」
「うっ。それは……そうなんだけどさ……」
思わず視線が手元に落ちる。
「圭斗はもう帰ってこないつもりで行くの?」
母の言葉にハッと顔を上げると、母だけでなく、父とリンも俺の言葉を待っている。
「……できる限り、戻ってくるよ」
「そうね、できる限り戻ってきてちょうだい」
そう言って母は満足そうに笑った。
……いいのかな。母さんは、こんな返事で……。
自分としては精一杯の誠意を込めた返事だったけど、必ず帰るって言い切れなかったことは申し訳なく思う。
「その、絶対帰るって言えなくて、ごめんね……」
「あははっ、そんな事気にしてるの? そんなの当たり前じゃない」
楽しそうに笑う母さんに、俺は思わず首を傾げてしまった。
「当たり前なの?」
「そうよぉ。ああ、圭斗にはこの話はした事なかったかしらね? 母さんには、妹がいたのよ」
母に……妹……?
母方に叔母がいるという話は聞いたことがなかった気がするけれど……。
「妹は小学3年生の時マンホールに落ちて死んだの。私が6年生の時だったわ」
………………え、待って。
なんか、え……? そんなことある……?
「私はその時妹と並んで歩いてたの。でも落ちたのは妹だけでね。それからは道路を歩くのがすっかり怖くなっちゃって、稔さんに出会うまで、ずーっと足元ばっかり見て歩いてたわ」
母さんはその頃を思い出しているのか、遠くを見るような目でリビングの向こうを見上げた。
「おや、私の事まで話す気かい?」
「いいんじゃない? 子ども達にも恋人ができた事だし」
「私は構わないが。もう少し飲むかい?」
「そうね、お願いできるかしら」
「もちろん、任せたまえ」
父さんに言われて気づく。
今日は金曜だからか、母さんは夕飯と一緒にビールを飲んでいたのか。
既に食事の終わった4人分の食器を父が片付け始めると、リンもスッと立ち上がってそれを手伝う。
そんな中で、母はゆったりと俺に話し始めた。
「稔さんと初めて出会ったのは大学の構内でね、下を見て歩いてた私と、大荷物を抱えて前の見えてなかった稔さんが盛大に激突したのよ」
盛大に激突って……きっと荷物も派手に散乱したんだろうな……。
俺の顔を見て、母さんはふふっと楽しそうに笑った。
***
自分も前を見ていなかった癖に、その人はすごい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「大事な資料が散乱してしまったじゃないか! どうして前を見ていないんだ! 君にも怪我のリスクがある行為だぞ!」
私が前を見ていなかったことを謝っても、その人は『何故』前を見ていなかったのかと私に詰め寄ってきた。
歩きスマホでもなければ落ち込んでいるわけでもないのに、ずっと俯いて歩いていた私の行動は理解できないし納得いかないという。
それなら仕方ないと、私は観念して妹の事を話した。
そうすれば、この変な人も私を解放してくれるだろう。
同情の視線とともに謝罪を受けて。……それだけの事だ。
しかし、私の話を聞いた彼は、私の予想を大きく裏切って明るく笑った。
「ははっ、それはすごいな。マンホールに落ちて死ぬ確率なんてどのくらいだ? まずはマンホールの蓋が開いている確率から考える必要があるな……」
彼はそのまま、ぶつぶつと何かを考え始めてしまう。
この人は多分変人だ。
人間社会で生き辛い天才的なタイプの変人に違いない。
「あの、理由をわかってもらえたなら、もう行っていいですよね……?」
私は、このままぼんやりと彼が脳内の計算を終えるのを待っているつもりもなかったので、そう言って彼の横を通り過ぎようとした。
にもかかわらず、彼は私の腕をがっしり掴んだ。
「いや待て、君はこのままでは交通上の事故リスクが上がったままだ」
……?
彼の発言には日常生活で聞かない単語が多すぎて、一瞬何を言われているのかと思ったが、それはもしかして、下ばかり見て歩いていると危ないと言いたいのだろうか?
「まあ座りたまえ。おっと、今更になってしまうが、君は今時間があるかい?」
彼は意外と紳士的な仕草でベンチの上を払うと、そこに風呂敷を四つ折りにして置く。
ハンカチほどではないにしろ、そんなことする人本当にいるんだな、なんて思いながら私は「まあ、ありますけど……」と答えながらそこに座った。
良く見てみると、私に激突してきた先輩らしき人物は、よれっとした服にシワのついた白衣を羽織ってはいるものの、小柄でスラリとした体格に丸いメガネ、黒目がちの優しげな瞳に少し色の淡い柔らかそうな髪を揺らしていて、身だしなみさえ整えれば見栄えがしそうだった。
丁度、この時間は急な休講になってしまったところで、これからどう時間を潰そうかと考えていたところではある。
お説教でないならば、少し話を聞くくらいはいいだろう。
……お説教でないならば。
もしお説教が始まるようなら、ダッシュで逃げよう。
この人には名前も学部も教えていないし、そっちも前を見ていなかったのだから、私だけが叱られるのは割に合わない。
「君は、妹の事に責任を感じているのかい?」
いきなりそこからか。
あの話をすると皆、妹がちゃんと足元を見とけばよかったとか、姉の私が手を繋いでいればよかったとか、でも手を繋いでいたら私も一緒に落ちていたから危なかったとか、私だけでも生きていてよかったとか、そんな事をいう。
なんて言われたところで、今更どうにもならないのに。
ただ、目の前の男は、妹の事どころか私の名前すら知らない。
そんな相手に気を使う必要もない気がして、私は正直なところを答えた。
「まあ、それなりには」
「ふむ。だとしたら、君は単純に自分も同じ目に遭うのではと思っているわけだな?」
「そうですね」
けれどそれは仕方ないだろう。
ある日突然、自分の隣を歩いていた妹が道路に空いていた穴に落ちて死んだら、自分だってある日突然そうならないとは限らないわけで……。
「自宅では俯かずに歩くのかい?」
どうだっただろうか。と思い返してみると、確かに家では床を見ながら歩いてはいないと気づく。
「……そうですね」
「知っているかい? 突然死は総死亡数の10~20%を占めていて、年間約7~9万人が亡くなっているんだ。今君の目の前で私が息を引き取る可能性は決して0じゃない」
……何の話だ? と一瞬思ったものの、じわじわと分かってくる。
彼の言いたいことが。
「戦場だろうと病院だろうと、路上だろうと自宅だろうと、今日死ぬ人は今日死ぬし、今日死なない人は今日は死なないよ。もちろん状況に応じた死亡率というものはあるけれどね」
彼が口にしたのは、ただの結果論だった。
あまりに当たり前の、けれど、世界の真実の姿だった。
20日の夕方、俺とリンと母と父の四人で囲む食卓で、父さんはそう言った。
「あらそう。いつから?」
漬物を口に入れながら問う母の言葉に、父は「早ければ明日の朝、遅くとも明後日の朝だ」と答える。
……いや、待って? それって、フロウリアの事なの……?
横に座るリンをチラと見れば、リンは小さく首を振る。
「案内はディアリンド君に頼みたいが、どうかね?」
父さんがそう言ってリンに尋ねるが、リンは俺の言葉を待つ顔をしている。
俺は半ば祈るような気持ちで尋ねた。
「父さん、フィールドワークって……どこに行くの?」
「フロウリアに決まってるじゃないか」
あっさり答える父に、俺は呻きながら頭を抱える。
「失礼ですが、あちらはとても危険です。ミノル様の安全は保証できかねます」
リンは少し前から父さんを名前で呼ぶようになっていた。
父にそう呼ぶよう要求されたらしい。
さらには、リンが父を「ミノル様」と呼ぶのを聞いた母さんまでが「いいわね、私も名前で呼んでほしいわ」と言ったため今では母まで「カズエ様」と名前で呼ばれている。
「父さん本当に行く気なの? 母さんはダメだって言わないの!?」
俺の抗議の声は思いの外大きかったようで、目の前の両親が耳を押さえる。
あ、部活で発声練習も再開したし、大きな声も出やすくなってたか。気をつけよう。
「今まで父さんが行ってた所も大概危ないとこだったわよ?」
母さんが、なんて事もないような顔で言う。
「それでも、フロウリアみたいに別の世界じゃないし、帰って来れなくなるような事はなかったよね?」
俺の言葉に父さんは「それは違うぞ圭斗」と片眉をあげた。
「どこに出かけようと帰れる時は帰れるし、そうでない時は戻れない。それだけだ」
えええ……極論だよ……。
そんな父に、母はケラケラと笑って言う。
「危ないから行かないでなんて言ってたら、父さんどこにも行けなくなっちゃうじゃない」
……それって、母さんが行くなって言ったらこの父さんを止められるって言ってる……?
本当に……?
「いや、止められるなら止めてよ……。もう父さんとは二度と会えなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
俺の言葉に、母さんは不思議そうに首を傾げる。
「でも、圭斗は行くつもりなんでしょう?」
「うっ。それは……そうなんだけどさ……」
思わず視線が手元に落ちる。
「圭斗はもう帰ってこないつもりで行くの?」
母の言葉にハッと顔を上げると、母だけでなく、父とリンも俺の言葉を待っている。
「……できる限り、戻ってくるよ」
「そうね、できる限り戻ってきてちょうだい」
そう言って母は満足そうに笑った。
……いいのかな。母さんは、こんな返事で……。
自分としては精一杯の誠意を込めた返事だったけど、必ず帰るって言い切れなかったことは申し訳なく思う。
「その、絶対帰るって言えなくて、ごめんね……」
「あははっ、そんな事気にしてるの? そんなの当たり前じゃない」
楽しそうに笑う母さんに、俺は思わず首を傾げてしまった。
「当たり前なの?」
「そうよぉ。ああ、圭斗にはこの話はした事なかったかしらね? 母さんには、妹がいたのよ」
母に……妹……?
母方に叔母がいるという話は聞いたことがなかった気がするけれど……。
「妹は小学3年生の時マンホールに落ちて死んだの。私が6年生の時だったわ」
………………え、待って。
なんか、え……? そんなことある……?
「私はその時妹と並んで歩いてたの。でも落ちたのは妹だけでね。それからは道路を歩くのがすっかり怖くなっちゃって、稔さんに出会うまで、ずーっと足元ばっかり見て歩いてたわ」
母さんはその頃を思い出しているのか、遠くを見るような目でリビングの向こうを見上げた。
「おや、私の事まで話す気かい?」
「いいんじゃない? 子ども達にも恋人ができた事だし」
「私は構わないが。もう少し飲むかい?」
「そうね、お願いできるかしら」
「もちろん、任せたまえ」
父さんに言われて気づく。
今日は金曜だからか、母さんは夕飯と一緒にビールを飲んでいたのか。
既に食事の終わった4人分の食器を父が片付け始めると、リンもスッと立ち上がってそれを手伝う。
そんな中で、母はゆったりと俺に話し始めた。
「稔さんと初めて出会ったのは大学の構内でね、下を見て歩いてた私と、大荷物を抱えて前の見えてなかった稔さんが盛大に激突したのよ」
盛大に激突って……きっと荷物も派手に散乱したんだろうな……。
俺の顔を見て、母さんはふふっと楽しそうに笑った。
***
自分も前を見ていなかった癖に、その人はすごい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「大事な資料が散乱してしまったじゃないか! どうして前を見ていないんだ! 君にも怪我のリスクがある行為だぞ!」
私が前を見ていなかったことを謝っても、その人は『何故』前を見ていなかったのかと私に詰め寄ってきた。
歩きスマホでもなければ落ち込んでいるわけでもないのに、ずっと俯いて歩いていた私の行動は理解できないし納得いかないという。
それなら仕方ないと、私は観念して妹の事を話した。
そうすれば、この変な人も私を解放してくれるだろう。
同情の視線とともに謝罪を受けて。……それだけの事だ。
しかし、私の話を聞いた彼は、私の予想を大きく裏切って明るく笑った。
「ははっ、それはすごいな。マンホールに落ちて死ぬ確率なんてどのくらいだ? まずはマンホールの蓋が開いている確率から考える必要があるな……」
彼はそのまま、ぶつぶつと何かを考え始めてしまう。
この人は多分変人だ。
人間社会で生き辛い天才的なタイプの変人に違いない。
「あの、理由をわかってもらえたなら、もう行っていいですよね……?」
私は、このままぼんやりと彼が脳内の計算を終えるのを待っているつもりもなかったので、そう言って彼の横を通り過ぎようとした。
にもかかわらず、彼は私の腕をがっしり掴んだ。
「いや待て、君はこのままでは交通上の事故リスクが上がったままだ」
……?
彼の発言には日常生活で聞かない単語が多すぎて、一瞬何を言われているのかと思ったが、それはもしかして、下ばかり見て歩いていると危ないと言いたいのだろうか?
「まあ座りたまえ。おっと、今更になってしまうが、君は今時間があるかい?」
彼は意外と紳士的な仕草でベンチの上を払うと、そこに風呂敷を四つ折りにして置く。
ハンカチほどではないにしろ、そんなことする人本当にいるんだな、なんて思いながら私は「まあ、ありますけど……」と答えながらそこに座った。
良く見てみると、私に激突してきた先輩らしき人物は、よれっとした服にシワのついた白衣を羽織ってはいるものの、小柄でスラリとした体格に丸いメガネ、黒目がちの優しげな瞳に少し色の淡い柔らかそうな髪を揺らしていて、身だしなみさえ整えれば見栄えがしそうだった。
丁度、この時間は急な休講になってしまったところで、これからどう時間を潰そうかと考えていたところではある。
お説教でないならば、少し話を聞くくらいはいいだろう。
……お説教でないならば。
もしお説教が始まるようなら、ダッシュで逃げよう。
この人には名前も学部も教えていないし、そっちも前を見ていなかったのだから、私だけが叱られるのは割に合わない。
「君は、妹の事に責任を感じているのかい?」
いきなりそこからか。
あの話をすると皆、妹がちゃんと足元を見とけばよかったとか、姉の私が手を繋いでいればよかったとか、でも手を繋いでいたら私も一緒に落ちていたから危なかったとか、私だけでも生きていてよかったとか、そんな事をいう。
なんて言われたところで、今更どうにもならないのに。
ただ、目の前の男は、妹の事どころか私の名前すら知らない。
そんな相手に気を使う必要もない気がして、私は正直なところを答えた。
「まあ、それなりには」
「ふむ。だとしたら、君は単純に自分も同じ目に遭うのではと思っているわけだな?」
「そうですね」
けれどそれは仕方ないだろう。
ある日突然、自分の隣を歩いていた妹が道路に空いていた穴に落ちて死んだら、自分だってある日突然そうならないとは限らないわけで……。
「自宅では俯かずに歩くのかい?」
どうだっただろうか。と思い返してみると、確かに家では床を見ながら歩いてはいないと気づく。
「……そうですね」
「知っているかい? 突然死は総死亡数の10~20%を占めていて、年間約7~9万人が亡くなっているんだ。今君の目の前で私が息を引き取る可能性は決して0じゃない」
……何の話だ? と一瞬思ったものの、じわじわと分かってくる。
彼の言いたいことが。
「戦場だろうと病院だろうと、路上だろうと自宅だろうと、今日死ぬ人は今日死ぬし、今日死なない人は今日は死なないよ。もちろん状況に応じた死亡率というものはあるけれどね」
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