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第6話 こぼれた水(5/13)

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目覚めたら、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
どうやら、病院のような場所らしい。
城に隣接されたこの場所は、規模は大きいものの医務室と呼ぶとの事だ。

女医に名を尋ねられ、俺はそれに答えられなかった。
頭を打ったせいで、一時的に記憶を失っているのだろう、と彼女は診断した。
俺のことを知っているらしい女医は、俺を安心させるように柔らかく微笑んで言った。
「今までが頑張りすぎだったのよ。良い機会だと思って、しぱらくゆっくり休んで」

俺が頑張っていたかどうかは分からないが、他にできることもなさそうなので、退院の許可が出るまでは病室で横たわっていることにする。
打った頭の怪我以外に、痛むところはない。
右足は以前の怪我のせいで動かないらしいが、強く押さえない限り痛みはなかった。
幸い、生活の手順は体が覚えているようで、着替えたり食べたりする日々の事に、そう不自由はしなかった。

「隊長っ! 大丈夫ですか!?」
翌日、俺の病室に駆け込んで来たのは短い金髪を清潔そうに整えられた、金眼の若い男だった。
大仰な張り出しのある立派な甲冑は、時々運び込まれる隊員達の物とは一見して違っている。
『隊長』というのは、おそらく俺の事なんだろう。
彼の後ろには、長い黒髪を後ろでひとつに括った小柄な男……男か? 女にも見えそうな外見だったが、低く囁く声は男のものだった。
「勇者様、病室ではお静かになさってください」
ああ、この青年が今の勇者なのか。まだ若そうだな。
「隊長……、俺、隊長が記憶喪失って聞いて……」
俺を見つめる、心配で堪らないという様子の、今にも泣き出しそうな金髪金眼の青年。
その名はやはり、思い出せなかった。
ただ、彼を泣かせてはいけない気がして、笑って答えた。
「もう大丈夫だ、心配するな」
「隊長……」
ホッとした顔を見せた青年が、その表情を引き締める。
二十歳そこそこに見えたその青年は、見る間に勇者と呼ばれるにふさわしい凛とした顔になった。
「第九中隊は、俺が命に換えても守ります。隊長はどうか、安心して休んでください」
強い覚悟の込められた言葉。けれどその響きはどこか優しく、包み込むような温かさを持っていた。
ああ、強い心と優しさを持った、良い青年だなと思う。
こんな部下なら、俺はさぞ大事に育てたんだろう。
自然と口元が緩む。その後ろから小柄な男が口を挟んだ。
「命に換えられては困ります」
「あ、そっか。じゃあ……誠心誠意、務めます」
その素直な様子に、彼の伸びやすさを感じる。
俺が育てたのなら、きっともう、ずいぶん強いのだろうな。
俺は、見知らぬ彼の誠実そうな様子と、その彼に隊を任せたらしい過去の自分を信じて微笑んだ。
「ああ、頼むぞ」

それからも、俺の病室には幾人もの人間が、入れ替わり立ち替わり、謝ったり礼を告げたりしにきた。
医者にはゆっくり休めと言われたものの、これでは休む暇もないな。
そう思っていた夕暮れ、出された夕食を有り難くいただいていた俺の部屋を訪れたのは、淡い金髪を肩下まで伸ばした淡い金眼の男だった。
部屋まで案内してきたらしい看護師が「ええと、こちら騎士団長の……」と俺に紹介しようとしてくれていたが、男にそれを手で制されて、部屋を出てゆく。
「記憶が飛んだと聞いたが。どこまで覚えている?」
氷のように冷たい眼差しが、探るように俺を見据えていた。
挨拶も無しに失礼な態度だとは思うものの、彼はそれが許される立場という事なのだろう。
「残念ながら、自分の名も、教えてもらったばかりです」
俺が正直に答えると、淡い金の瞳がほんの少しだけ、小さく揺れた気がした。
「私の名は?」
尋ねられ、首を振る。
「自身の所属は?」
「教えては、もらいました」
「勇者の名は?」
「今日、顔を見ましたが、分かりませんでした」
「……」
騎士団長は、しばらく沈黙する。
「……レインズの事は?」
覚えの無い名に俺が首を振ると、騎士団長は「そうか」と僅かに瞳を伏せた。

俺には、妻も子も、親戚すら居ないと聞いた。
それなのに、ただ一人名前を尋ねられたのは、一体何者なのか。

「お前の世話はレインズに任せる。困ったことがあれば、何でも奴を頼れ。それでも解決しないときには、いつでも俺を頼っていい」
「……はい……」
言われて、とりあえず俺の事をよく知っている人物らしいという事だけは理解する。
「此度は、怪我を押しての出撃、苦労をかけたな。ゆっくり休め」
そう言い残すと、彼は部屋を出た。
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