悪役令嬢は婚約破棄されたら求婚してきた公爵の手を取らない

Estella

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第一章 『再臨の悪役令嬢』

第一章36 『変化』

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 涼しいそよ風が吹き抜ける夜。月明かりは薄く、街灯の落ち着いた橙色の光もあまり意味を成してはいない。
 初めてここへ来た時の肌寒さはもう影も見えず、夜になってももう外套を着る必要がない。
 ――ファンドーリンの夏。アデリナが体感してみたかったものだ。

 静かに燃える火のようなファンドーリンの街を歩いている時だけは、少しだけ、アデリナの最近ささくれ立っていた心も落ち着いた。
 そんな彼女の足は今、迷いなく『その場所』へ向かっている。長い道のりを、徒歩で。

 とんとん、と軽快に扉を叩いた。
 いつも憚ることなくドアを開けて突入しているからか、逆に儀礼的動作が恥ずかしくなってしまった。これが正常なのに。

「――また来たのか、君は」

「来ちゃダメなんですか? ダメって言われても来ますけどね」

「……だろうな」

 年季の入った扉を内側から押し開いたのは、ヴィクトル・ファンドーリンその人であった。
 宴会シーズンの終結と共に彼も帰宅しており、当然アデリナはその日すぐに彼に会いに行った。そこから、もはや彼の家に通うのが日課のようになっていたのだ。

 家の中に迎え入れられたアデリナは、これまた当然のようにヴィクトルの執務室へ彼と共に歩を進める。
 知見の深い彼の教導を受けることは、彼女にとって良い気分転換になっていた。

 執務室の机をはさんで、二人は対面するように着席した。

「統計学は、昨日教えただろう。今日は何だ」

「いつもの共和論がいいです。わたしも論文を書いてみました。難しいですね、なんだかやはり、時代にとらわれた考え方しかできないような感じがします」

「君は議会という存在への理解が不完全だからな」

「うぐぐ……」

 『共和とはなにか』でもうっすら書かれていた、ヴィクトルの『共和論』の中心的思想の一つとして、『常設議会』がある。
 彼は何も十人元老院という存在を取り消そうとしているわけではない。あくまでその存在は残し、それとは別に『常設議会』を設置するべきだと主張したのだ。

 しかし元老院は最高議決機関ではなく、あくまで大綱を議会に提出する存在になる。最終議決権を持つのは、常設議会であるそうだ。
 もちろんそこまでのことは著作には書かれていない。大衆に受け入れられる可能性が低かったからだ。

「貴族たちがみんなで集まって、話し合いをする場がないといけないっていうことですか?」

「ああ。ゆくゆくは、もっと開放していきたいが……」

「そうですね。最初は人々を傍聴させて、時代の進行と共に一般の方々も議会に参入できたらいいかもです」

「その時代には貴族という概念は薄れるだろう。今は無理だな」

 更に、常設議会が開放された時代においては、参加者の敷居がもっと上がるだろうとヴィクトルは予想している。
 貴族という集団が無条件に享受できるもの、ではなくなり、才能のある人間がその実力でもって参入するものになるということだ。

 あまりにも遠大すぎて、アデリナは目が眩むのを感じる。
 三大公爵家の一員であり、その次期当主である彼女からしたら、やや理解が難しいのも当然だ。
 だが、これらは人々をもっと幸せにするものだと、アデリナは考えている。

「そうですね……カレリナもファンドーリンも強化されていますし……この時代の先では、どんな変化が起こるんでしょうかね」

「さあな。僕の生きているうちに大きな変化は見られないだろう」

「じゃあ数百歳くらい生きてください」

「それは人間じゃないな」

 未来に思いをはせるアデリナの期待に満ちた表情とは反して、ヴィクトルはこの先のことを冷淡に受け止めているようだ。
 彼にはこの先の未来が、アデリナよりも鮮明に予想がつくからなのかもしれない。
 それとも――、心底では迸る激情を、表情に出せないのだろうか。

「あ! そうだ、この工学の問題なのですが……解けなかったので、お尋ねしてもよろしいですか?」

「どれだ?」

 鞄からノートと問題集を取り出し、自分の椅子を引き寄せて、当然のようにヴィクトルの隣に移動するアデリナ。
 彼女が問題集を開き、指さした問題の箇所を、彼はじっと眺める。
 誰もこの隣並びの状態に疑問を持たないのは、もうとっくに日課のごとく繰り返されているからだ。

「ここで……ええと、あれれ? 公式から分からないかもしれないです」

「……分かった。基礎から教える」

「! はい!」

 理系の学問は、つくづく難しい。特に、魔術に頼らない『科学』の分野というのは、本当に脳汁を絞り出されるような思いだ。
 カレリナは魔術の発展した領地――昔は国であったが――なので、急速に発展する科学の分野には本当に頭が痛くなる。それでも、追いつき追い越していかなくてはならない。
 そうでなくては――、

「――アデリナ?」

「はっ……す、すみません。意識が飛んでいました。もう一度説明してもらっても構いませんか?」

「あぁ……大丈夫か?」

「わたしですか? やだなぁ、わたしが大丈夫じゃないときなんてあります? 心配はご無用ですよ。むしろわたしが先生を心配しているんですからね!」

 意識が飛んだり、焦り気味でごまかしたり、話を逸らそうとしたり――、彼女は気付いていないかもしれないが、ヴィクトルの方はアデリナの異常には初めから気付いていた。
 それでも、とくとくと自分への心配のあれこれを話し出すアデリナを見て、口を開いては閉じ、尋ねようとしては迷った。

 ――他人の心に踏み込むという行為は、相互の信頼への試練だ。
 アデリナの信頼と愛は、もう受け取っている。彼女が嫌がらないだろうことは、分かる。だからこれは、彼自身の問題だった。
 全てを理解させられていても、未だに失うのを恐れて踏み出せない、自分の。

 自分から踏み込むという行為は、アデリナにしたことがない。
 それは彼女にとって、今までの関係性から大きな変化が起こることを意味する。一方的な告白から、天秤がやや傾くということだ。
 その変化が、何をもたらすのか予測することができない。拒絶の可能性が、万に一つでもあるのなら……。

 だから結局、ヴィクトルはアデリナに何も聞かないことを、選んだ。



「――ここに、いらしたんですか」

「レナート?」

 虫の声が際立つ深夜、帰宅するためヴィクトルの別邸から出たアデリナを出迎えたのは、護衛騎士のレナートだった。
 最悪転移魔術で帰ることもできるので、迎えはお願いしてこなかったのに。
 訝し気な口調で尋ね首をかしげるアデリナに、レナートは手紙を一通差し出した。

「ユリアーナお嬢様から、手紙が。火急だそうで」

「ユリア、から?」

 手紙を受け取れば、中身はかなり分厚い。外務代表の業務はちゃんとアデリナが引き継いでいるので、ユリアーナに一部託された内容はそこまで重くないはず。
 ただ、『情報の伝達』に関しては、ユリアーナが第一線にいるので、必然的に任務が重めになっている。
 彼女が急ぐ可能性があるなら――、何かとんでもない情報が入った時だ。

 尋常でない何かを察知したアデリナは、ぱっとヴィクトルを振り返る。
 流れで見送りに来てくれたのに、申し訳ないが――、

「何かあるんだろう。行くんだ」

「すみません……また来ます!」

 腕を組んで扉に寄りかかったヴィクトルがアデリナを促したことで、彼女は弾かれたように走り去っていった。
 主についていく間、レナートは一瞬だけ振り返った。
 ――アデリナの背を見つめる、夜闇に輝く金の瞳。その光は、普段の冷徹さからは想像もつかない暖かさを秘めているように、見えた。
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