マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と記憶

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 は、と気付くと、そこは記憶に残るあの風景だった。
 散々二人で歩いた異国の地。現地で手に入れたあの渋い色をしたオープンカー。散々飛ばしてきゃーきゃー騒いで、結局エンジンから煙が上がって駄目になったので棄てて延々と歩いた。
 どこまでも続く道。地平線の向こうに消える道路。眼の前を歩く長身痩躯の茶色の髪の青年。煙草を吸おうと右ポケットに手を入れて、それから左ポケットに入れていたことを思い出す。いつも間違える。煙草を吸う前の彼の癖。
 そして大切なものがそばにいないと訴えるように、隣に自分がいないことを眼で示す。煙草を止め、灰色の奥の青色の眼が振り返り、真っ直ぐにこちらを向いて、……笑った。



「   」



 呼ばれる。名前を。



 おいで、とのばされたその手を、あの日握った大きな手のひらを、永遠に失ったそれを、もう一度掴みたくて、もう一度会いたくて笑顔で手をのばし───



「───」
 眼を醒ます。醒まして、そうしてようやく、夢であることに気付いた。
「……」
 天井を向いたまま左手で右手を包むようにして掴んだ。確かにのばしていた手。触れられなかった手。夢の中でさえ、もう届かない。識っている。
 溜め息を吐く。しんと静まり返った深夜、自分の部屋。今は何時だろうとスマートフォンを探ろうとしてドアの前に誰かが立っていることに気付いた。悲鳴を上げかける。
「……っあぁ、キョウコちゃんか」
「……驚かせた、よね?」
「うん、まあ……」
「……ごめんなさい」
「いいよ。どうしたの、眠れない?」
「……うん」
「そっか。でも横になってるだけでも違うよ。狭いけどよかったらどうぞ」
 布団をめくってやると、少し躊躇したようだったがキョウコは隣にもぐりこんで来た。窓際に寄ってスペースを空ける。
「ごめんなさい」
「ううん、旅行みたいで楽しいよ」
「今もそうだけど。これからも迷惑かけることになった」
「あー、それこそ別にいいよ。本当。はじめてじゃないし」
「……カブラギもそうだったの」
 ともりのことをそう呼ぶことにしたらしいキョウコは、少しだけ興味を持ったようにもごもごと言った。そうだね、とうなずく。
「カブラギを拾ったのは、恋人が出来たあと?」
「……そうなるかな。それが私が二十歳になったばっかの時。だからともりはまだ高校生か。懐かしいな」
 心の底から懐かしく思って微笑む。そうするとすぐそばに、あの時のともりがいるように思えた。
「ともり、その時金髪でね。口も悪くて、あんた馬鹿だろ? って顔でずっといて」
「あんたって呼ばれてたの?」
「うん」
「……今と全然違う。今はユキのこと、すごく大事にしてるのに」
「大事にしてくれてる、んだよ。ともりが私に合わせてくれてるの。そうじゃなきゃ、一緒に歩けないからね」
 傷だらけでぼろぼろで、けれど眼だけがぎらぎらと光を灯すやせっぽちの少年。
 ざらざらとした声で、あんたなんか大嫌いだと吐き棄てるように言った。
 それでいいよ。胸中で返す。それでいいよ。わたしは勝手に、あなたが隣にいてくれることをうれしがるから。勝手に感謝して、有り難がって、勝手に大事にするから。
「……ニノ コウはやさしい?」
「……うん」
 こちらを窺うような間を置いて、キョウコが答えた。小さな声だった。
「ナオミ姉さんは……好き。けどね、あのひとにはたぶん、いろんなことが───耐え切れない」
 そうだね。あの女性は───自分のことが余りにも手いっぱいで、そして、他人の傷まで抱え込んで耐え切ることは出来ない。
 あのひとの持つ他人への気遣いは単に彼女のやさしさだけで出来ているものであって、決して、彼女の持つ強さから来たものじゃないのだ。
「言えなかったの。無視されたり、面倒を見てくれなかったり───それ以上のことは、言えなかったの」
 キョウコの父親が服で隠れるところしか傷付けなかったのもあるが、ナオミは気付けなかった。
 そして、ニノ コウは、
「コウさんは……気付いた。すごいよね、あたしの歩き方見てすぐに見抜いたんだよ」
「……お医者さんなんだよね?」
「うん。すごいの。頭がよくてやさしくて、それで、」
 うれしそうに言葉を繋いでいって、それからはっと気付いたように顔を伏せた。
「……ごめんなさい」
「いいよ、大丈夫。やさしくて?」
「……助けてくれた。あのね、塾代を出してくれたの」
「塾代?」
「あたし今高二で、もうすぐ受験だから。……行きたい大学があるの。興味のある学部があって」
 大切なことを教えてくれるように、少女がぽつりぽつりと布団の中にくぐもった声を落としてくれる。決して外に漏れないように。決して外の世界に暴かれないように。
「アイツには内緒なの。知られたら絶対、本家の人間に何させるってあたしを怒るから。コウさんは、奨学金とかもあるし、もし駄目だったら自分が学費を出すって言ってくれたの。でもあたし特待生になりたい。特待生になったら学費のほとんどが免除なの。そうしたら生活費とか家賃だけで済む。それでもお金が要るけど、でも学費がない分まだ現実味があるでしょ? そのために塾に通わせてくれたの」
「そっか。ニノ コウは恩人なんだね」
「うん。……だから、信じられなくて」
「ああ、信じなくていいよ。あのね、ニノ コウは私を厭う理由がちゃんとあった。ニノ コウにとって私は邪魔だった。……誰にでもやさしくって言ってたからショックかもしれないけど、でもね、ニノ コウにもひとを嫌って蔑ろにしたいって思う権利はあるんだよ」
 実行するかしないかは、別として。
 聖人君子のニノ コウ。
 行き場のない女に自由になれる部屋を与え、夢を追う少女に学ぶ機会を与えた。
 そうやって、少しずつ自由になろうとしたひとたち。檻の中に適応できず、外に出ようともがいていたひとたち。



 そうして、誰の反感を買った? そうして、誰が敵に回った?



「……キョウコちゃん。ニノ コウに塾に行かせてもらってる話って、誰が知ってるの?」
「ナオミ姉さんと、執事のチグサさん」
「そっか」
 容疑者は減らない。どうやったって、簡単にはなってくれなかった。




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