マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と記憶

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 とっぷりと日が暮れ、夜がはじまり、夕飯時も過ぎる。そろそろキョウコの塾が終わる時間だった。
『キョウちゃんは元気にやってますか?』
「やってるよ。昨日は買い物に行っていろいろ買って来た」
 もう恒例化しているナオミとの電話だったが、それはナオミにとっても同じようだった。よかった、とほっとしたように言って、それからくすくすと笑う。
「ん?」
『なんか本当、ユキっていろいろ拾っちゃうひとだなあと』
「ああ、そういえばちょっと前にゴスロリ女子大生も拾ったなあ」
『えーっとですね、キョウちゃんのことですけど』
 はいはい。
『兄は何も知りません。恐らく』
「……なにも」
 少なくない額を援助していたことも、虐待のことも───何一つ。
『コウさんは兄に気を遣ってたんですね。私も、虐待までは知らなかった……』
「援助のことは知っていた?」
『はい。キョウちゃんと会った時に本人から聞いてました。コウさんとあえてその話をすることはありませんでしたが』
「そう……」
『でも、そう考えるとコウさんは、本当……本当、誰にも、全部打ち明けて話せなかったんですね』
 あんなに周りにひとがいたのに───電話越しに聞こえた言葉は、物憂げだった。
「……そうかも、しれないけど。でもそれはナオミだって一緒でしょ」
『こうやって、話を聞いてくれる誰かが出来てから、思ったんですけど』
 一瞬言葉を纏めるようにナオミは間を置いた。以前よりも大分喋るようになった彼女が、言うべき言葉を自分の中から探し出す。
『今まで私にはそんなひとがいなかった。だからそれが普通だった。けど、それを得てしまったら、そのうれしさを知ってしまったら、もう知らなかったころに戻れない。───もう私は絶対に、ひとりには戻れない』
 ひとりで創って、ひとりで生み出して、
 ひとりで、それを撫でる。誰にも騙らず。誰にも知られないように。
 楽だったかもしれない。自由だったかもしれない。けれど、もう。
『だからコウさんは───きっと私より、辛かった。当主代理であるお母様には、きっとこういうことを相談出来ていたはずなのに。もうお母様に聞いてもらうことすら出来ない……』
「……」
 痴呆症を患ったというニノ コウの母親。
 夫を早くに亡くした、未亡人。たったひとりでニノ コウを育て、当主代理として息を詰めるようにして立ち続けた。
「……いつごろ、ニノ コウのお母さんは……?」
『コウさんが成人された辺りから、少しずつ……今はもうほとんどお話になられず、一日外を眺めていらっしゃるだけです。昔はとても厳しい方だったんですが……ずっと気を張られていたんでしょうね』
 なるほど。それでは成人した頃から徐々に、ニノ コウとフルミとナオミは次期当主として動きはじめていたのか───ナオミはまだ未成年だっただろうから、そのあと追々という形だっただろうけれど。
 失われる。薄れてゆく。それでも何かが、薄墨のように残る。時代が変わってゆくというのは、そういうことだ。
「……あれ」
『どうしました?』
「ん、いつもならそろそろ帰ってくるんだけど……」
 時計を見やる。十一時を過ぎたところ。いつもならもう帰宅している。
 ふ、と空気が背中に通った気がした。瞬間、スマートフォンが鳴る。
「ごめん電話だ、また明日」
『あ、はい。おやすみなさい』
 ナオミと繋がっていた子機を切りスマートフォンのディスプレイをタップする。続けて表示された、ともりの名前。───嫌な予感がした。
「はい」
『うちの子がいない』
「───は、」
『待ってたけどビルから出て来ない。中入って講師に訊いたけど今日は来てないって』
「───防犯上嘘吐いたのかも。アイダさんってひと呼び出して代わってもらって!」
『分かった、かけ直す』
 途切れたスマートフォンを握りしめたまま階段を駆け上がった。仕事用のパーカーを羽織り、その大きなポケットにこれも仕事用の無骨なカッターをしまう。すぐに下りてスニーカーを突っかけた時、手の中で再びスマートフォンが震えた。ともりからの着信。
「もしもし」
『代わる。
 ……もしもし、アイダです』
「以前公園でお会いしたミカゲです、キョウコちゃんが見当たらないんです。今日は本当にそちらには行ってないんですか」
『来ていません。僕の方からも連絡がつかなくて……公園にも来なかったんです、てっきり具合が悪くて休んでいるのかと……』
 公園。行ったはずだ、きっと。あの広い公園のどこかに。まだいるか? 分からない。行くしかない。
「ありがとうございます。見付けたらキョウコちゃんの携帯から連絡します。心当たりは公園以外ありませんか?」
『ありません……あのっ、俺も、』
「ごめんなさい、お願いします! 探さないでください!」
悲鳴のような声が漏れて後悔した。唇をきつく噛み、なんとか声のトーンを落とす。
「……あの子、は。いつか、あの子からあなたに説明があるかもしれない。ないかもしれない。でも、私が言っていいことじゃない、から」
 沈黙。
 白いノイズが、夢の中の水のように唸る。
『……フルミさんは、最近あなたの話ばかりする』
 抑えた声に、混じる苛立ち。焦燥。───欲望。
『あの子がそういう風に話してくれるひとが出来たのはうれしいけれど、正直、おもしろくない』
 溜息がひとつ、水の向こうで落ちた。
『オトナの余裕なんて、全然ないんだよ、あの子の前じゃ───格好悪りぃ』
 ああ、駄目だ。泣きそうになる。
 唇をきつくきつく噛む。堪えて、堪えて、最近ずっと涙を堪えてやり過ごしている。ずっと前からやり過ごしている。だって今じゃない。泣くべき時はいつだって今ではなかった。
 誰かを望んだり、護りたいと思ったり───そんな風に想ってくれるなら、なんだっていいよ。オトナでもコドモでも、なんでもいい。───そういうひとがいてくれるのなら、なんだっていい。
 だからさ。
 だからね、キョウコちゃん。
 迎えに行くよ。待っていて。



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